吉田神社
よしだじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】吉田神社 (名神大) 常陸国 那賀郡鎮座

   【現社名】吉田神社
   【住所】茨城県水戸市宮内町3193-2
       北緯36度21分42秒,東経140度28分55秒
   【祭神】日本武尊
   【例祭】10月15日 秋季例大祭
   【社格】旧県社 常陸第三宮
   【由緒】景行天皇40年日本武尊創始
       天安元年(857)5月26日従四位下『文徳実録』
       貞観5年(863)3月2日従四位上『三代実録』
       元慶2年(878)8月8日正四位下
       寛平9年12月3日授位一階『日本紀略』
       建久4年(1193)社殿改築
       寛文8年(1668)造営
       明治6年4月県社
       昭和20年8月2日米機の空襲で社殿炎上
       同23年9月10日再建

   【関係氏族】
   【鎮座地】当初は東1km瓊鎮座
        中古、神託によつて現社地の藤柄に遷座された

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「吉田宮」と称していた
   【公式HP】 吉田神社
   【社殿】本殿神明造銅板葺
       幣殿・拝殿・参集殿・社務所

   【境内社】飯神社・國見神社・早歳神社・稲荷神社・伊勢皇大神宮
        住吉神社・八幡宮・松尾神社・天満宮・大國主事代主神社・多賀神社
        庖瘡守護神社・土師神社

   【境内図】 境内図

四方を見晴らす山の上にある。この地を朝日山という。倭武尊東夷を征しての帰途この地に兵を休めた。
参道には「朝日三角山遺蹟」として、日本武尊が休んだという場所が聖別されている。この三角山はかつて本殿が営まれた跡とも、祭祀の跡ともいわれる。


吉田神社

水戸市旧下市吉田宮内朝日山に鎮座する第三宮吉田神社は日本武尊(やまとたけるのみこと)を祀り古来常陸国内第三社と称せられ世人の尊崇まことに厚いものがある。
 尊が東夷を征せられての帰途、常陸を過ぎ兵をこの地朝日山に留め憩わせ給うた故を以って、ここに神社を創建して尊を奉祀したのである。御休憩の場所は今日も三角山と称し境内見晴台の一角を占め神聖な処として永く伝え残されている。当社の創立の年紀はこれを詳にしないが、大宮司田所長経の詞によれば正安4年(西暦1301年)は、御創建以来800余年に当るとある(吉田文書、正安4年左工門太郎平幹盛陳状の文に依る)ので、これより創建の年代を推定すると、実に顕宗天皇(485)仁賢天皇(498)の御代の間に遡るもののようである。後に後鳥羽天皇は建久4年(1193)国司に勅して社殿を改造せられ12月遷宮式を行わせられた。これより後は鹿島神宮(旧官幣大社)の遷宮についで当社の遷宮が行われるのを例とした。次いで亀山天皇は弘長元年(1261)2月20日本社の神位を従一位より正一位に進め給い、陽光院太上天皇(正親町天皇の皇子誠仁親王にして後陽成天皇の父君なり)は、天正4年(1567)3月御手ずから筆を染めて第三宮の三字を記させ給うて、三位大宮司田所清恒に賜り本社の扁額とされた。更に後光明天皇の慶安元年(1648)10月には、大将軍源家光が「吉田宮印」の朱印を下され、権中納言源頼房は水戸に封ぜらるるや尊の功烈を慕われ、その子贈大納言源光圀に至っては、尊崇最も敦く旧制に従って本殿(神明造)拝殿、神殿、神楽殿、宝蔵、階、玉垣等を造営し、八乙女、神楽男五人を置き盛大な斎祀を行われた。尋で吉田古文書97通を装備して4巻に収め宝物とされた、其の後中納言源綱条贈大納言源斎昭共に、深く尊を尊崇して常に盛大な神事を行わせられた。
 現在においても尚毎年10月中旬の土曜・日曜の両日、旧下市周辺を挙げて盛んな御興渡御の神事が行なわれ、細谷町舟渡の那珂川岸に渡御することは今も古例の通りである。尊が朝日山に憩わせ給うた折、舟を藤蔓でつないでこの朝日山に登られたと伝えられている。今に存する藤柄町の町名はこれより出たものであると世人の云い伝えは、その間の消息を伺うに足るものと思う。
 現在三角山のある一角は、見晴台と呼ばれ茨城百景の内でも、特に優れた勝地と称えられているが、この高地に立てば一望千里水戸市を眼下に収め、視界の及ぶところ近くは勝田市、湊の反射炉、遠くは阿武隈山脈のなだらかに起状しつつ静かに尾を引き彼方に達し、まことに史蹟と眺望とを兼ね備えた天下有数の神域である

公式HP



吉田神社

延喜式内名神大社
常陸第三宮 吉田神社由緒
御祭神 やまとたけるのみこと
茨城県水戸市宮内町3193の2鎮座
吉田神社社務所
一、由緒
水戸市宮内町3193 朝日山鎮座
水戸市旧下市吉田宮内朝日山に鎮座する第三宮吉田神社は日本武尊(やまとたけるのみこと)を祀り古来常陸国内第三社と称せられ世人の尊崇まことに厚いものがある。
尊が東夷を征せられての帰途、常陸を過ぎ兵をこの地朝日山に留め憩わせ給うた故を以って、ここに神社を創建して尊を奉祀したのである。御休憩の場所は今日も三角山と称し境内見晴台の一角を占め神聖な処として永く伝え残されている。当社の創立の年紀はこれを詳にしないが、大宮司田所長経の詞によれば正安4年(西歴1301年)は、御創建以来八百余年に当るとある(吉田文書、正安4年左工門太郎平幹盛陳状の文に依る)ので、これより創建の年代を推定すると、実に顕宗天皇(485〕仁賢天皇(498)の御代の間に遡るもののようである。後に後鳥羽天皇は建久4年(1193)国司に勅して社殿を改造せられ12月遷宮式を行なわせられた。
これより後は鹿島神宮(旧官幣大社)の遷宮についで当社の遷宮が行われるのを例とした。次いで亀山天皇は弘長元年(1261)2月20日本社の神位を従一位より正一位に進め給い、陽光院太上天皇(正親町天皇の皇子誠仁親王にして後陽成天皇の父君なり)は、天正4年(1567)3月御手ずから筆を染めて第三宮の三字を記させ給うて、三位大宮司田所清恒に賜わり本社の扁額とされた。更に後光明天皇の慶安元年(1648)10月には、大将軍源家光が「吉田宮印」の朱印を下され、権中納言源頼房は水戸に封ぜらるるや尊の功烈を慕われ、その子贈大納言源光圀に至っては、尊崇最も敦く旧制に従って本殿(神明造〕拝殿、神殿、神楽殿、宝蔵、階、玉垣等を造営し、八乙女、神楽男五人を置き、盛大な斎祀を行われた。尋で吉田古文書九十七通を装備して四巻に収め宝物とされた、其の後中納言源綱条贈大納言源斎昭共に、深く尊を尊崇して常に盛大な神事を行わせられた。
現在においても尚毎年10月15日、16両日旧下市周辺を挙げて盛んな御輿渡御の神事が行なわれ、細谷町舟渡の郡珂川岸に渡御することは今も古例の通りである。尊が朝日山に憩わせ給うた折、舟を藤蔓でつないでこの朝日山に登られたと伝えられている。今に存する藤柄町の町名はこれより出たものであるとの世人の云い伝えは、その間の消息を伺うに足るものと思う。
現在三角山のある一角は、見晴台と呼ばれ茨城百景の内でも、特に優れた勝地と称えられているが、この高地に立てば一望干里水戸市を眼下に収め、視界の及ぶところ近くは勝田市、湊の反射炉、遠くは阿武隈山脈のなだらかに起状しつつ静かに尾を引き彼方に達し、まことに史蹟と眺望とを兼ね備えた天下有数の神域である。
二、現在の祭祀
元旦祭    1月1日
初天神祭   1月25日
節分祭    2月節分の日
祈年祭    2月17日
春祭     5月3日
御田植祭・子供あんどん祭
       7月8日
例大祭    10月15日・16日両日
七五三祈願  11月中実施
勤労感謝祭  11月23日
大祓     6月晦日 12月晦日
月次祭    毎月1日 15日
三、二所別宮
笠原禅社  水戸市緑岡笠原に鎮座す
酒門神社  水戸市酒門町に鎮座す
四、境内末社
国見神社
早歳神社
飯神社
水戸神社
稲荷神社
住吉神社
吉田天満宮
松尾神社
八幡宮
大国主事代主神社
多賀神社
庖瘡守護神社
土師神社
皇太神宮
以上十四社
五、吉田宮神宮寺
吉田本郷に在り、即ち、今の薬王院是なり。
六、現社殿及び建造物
寛文7年(1667)11月贈大納言源光圀卿本社を旧制に従って、御社殿及び附属建造物玉垣、荒垣、階等を改め造り、多くの人々の崇敬の的となっていたが、昭和20年8月2日戦災に遇い烏有に帰した。
昭和23年10月本殿、拝殿を復興して以来遂次増改築を重ね昭和48年8月左の通り復興を見た。
本殿、拝殿、石の間、幣殿、中門、端垣(全社殿銅板葺替)
参集殿(29坪総桧造、銅板葺)
社務所(82坪、木造平屋、瓦葺)
七、吉田神社の御神徳
(1)国土鎮護の御神徳
景行天皇40年(西暦110)日本武尊が東国地方を鎮められ、西国地方と共に平和で豊かな国土を築かれました。
平和共存、国家安泰、庶民和合の為に功績を残された大神であります。
(2)健康守護の御神徳
「尊は幼き時より、雄々しく気力ありて容貌優れ、身長一丈御力強くましましき」(日本書記)と記されている。昔より健康守護の神として出生児の初宮詣り、子供の成長祈願(七五三詣り)等崇敬厚い大神であります。
(3)武道守護の御神徳
尊は強い信念のもとに、築紫の態襲を征し、東国の蝦夷を平定した、武の大神として、崇められています。武とは悪を退け、正道を求めることであります。
(4)交通安全の御神徳
尊は東国に西国に陸路、海路、水路を開き乍ら国土平定を成し遂げられました。古くより旅の安全、交通の安全を守護する大神として崇められてきました。
(5)縁結びの御神徳
境内に「縁むすび笹」という篠があって、笹の葉を結ぶと良縁に恵まれると古来よりの言い伝えがある。御神前で誓の盃を交わし結ばれた人々が数多くおります。
(6)其の他の御神徳
建暦3年(1213)社司解状に「当社は国内第三の鎖守にして霊験無二の明神也」と、五穀豊作、家内安全、商売繁昌、諸災消除、病気平癒、厄難消除、学業成就、大難消除、安産守護等の御神徳があります。
八、名所、旧跡
○茨城百景吉田神社見晴台
○吉田古墳(西方700m)

由緒書



吉田神社並朝日三角山由緒の碑

常陸国吉田郷朝日山に鎮座まします吉田神社は御祭神「弐品武尊」を奉祀し、古来朝野を分かたぬ尊敬を集めている。
御創建の年代は第23代顕宗天皇の御世、今を去る実に千五百有余年以前に溯る事となり、全国で日本武尊を主祭神に仰ぐ社伝を持つ神社の中で、最も古く且つ最も由緒正しいものである。
御祭神日本武尊は、第12代景行天皇の皇子、御幼少の頃から武勇の誉れ高く、□に父君の仰せに従い、日本国中の御政道にまつろわぬ者共を平定すべく諸国を遍く巡らせ給うたが、最後に東夷鎮圧の大業を成し遂げられ、その帰途に就かれた折り、藤蔓を伝って御船を繋ぎ、この朝日山台地に暫し兵を憩わせられたと伝えられる。台地の東下に当たる町名が永く「藤柄」と呼ばれていたのはこの間の消息を語るに足るものと言えよう。
「朝日三角山」は、尊が御旗を朝日に輝かせ給い、四方を展望された由緒の処で古くから「御祭神御遺跡」として志里久米縄も厳めしく、童幼等も畏れて今も尚敢えて立ち入らぬ声域と護られている。毎年の例大祭御出社の節、御神輿がこの周囲を三巡してのち正面に据えられ、挙式ののち渡御に就くのが慣例とされている。
吉田神社の社格は早くから官社に列せられ、仁明天皇承和13年4月17日名神(特に由緒正しく霊験著しく諸社を代表する神社)の称号を与えられている。続いて文徳天皇天安元年5月には従四位下に叙せられ、その後数次に亘る国家祈願成就の勲功により累進し、遂に亀山天皇弘長元年2月20日には正一位を賜るまでに至った。
これより先、醍醐天皇御宇に於ける「延喜式制」施行に際しては「名神大」に列せられ、その後「常陸第三宮」と称されるに至った。
このように当社の神位が頻りに進められたのは、御祭神「日本武尊」の武勲を偲び、その冥加を仰ごうとする御神威の功徳と言うべきであろう。
中世に至り、文永2年12月、大舎人忠恒を「田所職」に任じて社領を掌らしめ、後二条天皇徳治元年には百五十八町余の神領田を有し、神官も田所職大祝権祝禰宜神主等数十人、舞人八乙女を擁し甚だ隆盛を極めたのであるが、室町時代に入るや天下悉く乱れ、神社も痛く衰頽するに至った。
その後、正親町天皇天正4年3月、陽光院太上天皇御手ずから「第三宮」の三字を書き給い、当社の扁額となされた。
慶長年中、威公徳川頼房卿が水戸に封ぜられるや、後祭神の東国平定の功績を慕い厚く当神社を尊ばれ、その御子義公光圀卿は殊の外尊崇の念厚く、寛文7年12月当社の旧制に則って本殿拝殿神饌殿神楽殿宝蔵末社玉垣及び鳥居等を改築せられ、諸神器日月の鉾、四神の旗など種々の神宝及び社印を鋳て奉納し、また社人を増し、同8年3月遷宮式を挙行するまでに至らしめられ、仁孝天皇天保15年1月、烈公斉昭公も亦義公の御遺志を継承され用地百石を寄進して常陸国総鎮守となし、「大日本史」一部を奉献されるなど、当社が往時の繁栄を取り戻すに至らしめられたのは、この御三方の敬神の至誠に拠るところ絶大なものが有ると申さねばならない。
明治6年県社となる。
昭和20年8月、戦災により社殿悉く焼失、境内亦総て灰燼に帰し、昔日の森厳さ全く失われた。
昭和23年漸く本殿拝殿のみ復旧、昭和27年5月憲法改正により「宗教法人・吉田神社」となったが、その後は逐次増改築を重ね、昭和49年9月には念願の社殿全部の復興が果たされた。
昭和60年4月「御創建千五百年祭」を挙行、記念事業として「隋神門」を建立続いて62年8月、神楽殿及び末社全部を旧に復し、戦前の威容を回復して尚剰り有る御姿と成し得た。ここまでに至らしめ得たのは、偏に神社当事者並びに氏子崇敬者各位の物心両面に亘る奉賛の誠意の結果に拠るものである。
平成元年を期して、崇敬者一同「三角山玉垣建設」の議を企て、その完了を契機に「吉田神社並朝日三角山由緒」を明らかにし、神威の発揚と敬神の念との格段の昂揚を念願するものである。
平成元年12月建之
題字 茨城県知事 竹内藤男 謹書
常陸第三宮吉田神社宮司 阿久津俊保 謹撰

社頭石碑



吉田神社

【由緒】  水戸市旧下市吉田宮内朝日山に鎮座する第三宮吉田神社は日本武尊(やまとたけるのみこと)を祀り古来常陸国内第三社と称せられ世人の尊崇まことに厚いものがある。
 尊が東夷を征せられての帰途、常陸を過ぎ兵をこの地朝日山に留め憩わせ給うた故を以って、ここに神社を創建して尊を奉祀したのである。御休憩の場所は今日も三角山と称し境内見晴台の一角を占め神聖な処として永く伝え残されている。当社の創立の年紀はこれを詳にしないが、大宮司田所長経の詞によれば正安4年(西暦1301年)は、御創建以来800余年に当るとある(吉田文書、正安4年左工門太郎平幹盛陳状の文に依る)ので、これより創建の年代を推定すると、実に顕宗天皇(485)仁賢天皇(498)の御代の間に遡るもののようである。後に後鳥羽天皇は建久4年(1193)国司に勅して社殿を改造せられ12月遷宮式を行わせられた。これより後は鹿島神宮(旧官幣大社)の遷宮についで当社の遷宮が行われるのを例とした。次いで亀山天皇は弘長元年(1261)2月20日本社の神位を従一位より正一位に進め給い、陽光院太上天皇(正親町天皇の皇子誠仁親王にして後陽成天皇の父君なり)は、天正4年(1567)3月御手ずから筆を染めて第三宮の三字を記させ給うて、三位大宮司田所清恒に賜り本社の扁額とされた。更に後光明天皇の慶安元年(1648)10月には、大将軍源家光が「吉田宮印」の朱印を下され、権中納言源頼房は水戸に封ぜらるるや尊の功烈を慕われ、その子贈大納言源光圀に至っては、尊崇最も敦く旧制に従って本殿(神明造)拝殿、神殿、神楽殿、宝蔵、階、玉垣等を造営し、八乙女、神楽男五人を置き盛大な斎祀を行われた。尋で吉田古文書97通を装備して4巻に収め宝物とされた、其の後中納言源綱条贈大納言源斎昭共に、深く尊を尊崇して常に盛大な神事を行わせられた。
 現在においても尚毎年10月中旬の土曜・日曜の両日、旧下市周辺を挙げて盛んな御興渡御の神事が行なわれ、細谷町舟渡の那珂川岸に渡御することは今も古例の通りである。尊が朝日山に憩わせ給うた折、舟を藤蔓でつないでこの朝日山に登られたと伝えられている。今に存する藤柄町の町名はこれより出たものであると世人の云い伝えは、その間の消息を伺うに足るものと思う。
 現在三角山のある一角は、見晴台と呼ばれ茨城百景の内でも、特に優れた勝地と称えられているが、この高地に立てば一望千里水戸市を眼下に収め、視界の及ぶところ近くは勝田市、湊の反射炉、遠くは阿武隈山脈のなだらかに起状しつつ静かに尾を引き彼方に達し、まことに史蹟と眺望とを兼ね備えた天下有数の神域である。

茨城県神社庁



吉田神社並に朝日三角山由緒の碑

従二位勲二等侯爵徳川圀順題額
當吉田神社は水戸市吉田に鎮座す御祭神は日本武尊なり尊は景行天皇の皇子にして東夷御平定の後御帰途此』の地を過き兵を息め賜へるに因み當社を建てて之を齋祀ると言ふ其の年紀今を距ること千四百五十餘年以前顕崇天皇仁賢天皇二朝の間に當れるが如しも文徳天皇天安元年従四位下を授けられ亀山天皇弘長元年正一位進み給ふ是より先醍醐天皇延喜の式制には名~大社に列し後常陸國第三社と稱す社殿は古鹿嶋神社に次いで二十年毎に一度の例に準して改造せらるること数回に及ひ社領も鎌倉の後期徳治元年に八百五十八町餘を有し神官も田所職大祝権祝祢宜神主等数十人あり舞人八乙女を置き甚た盛なりしか室町時代に入りて痛く衰退す正親町天皇天正四年皇子誠仁親王第三宮の三字を書き給ひて當社の扁額となせしめる親王は後陽成天皇の御少陽光院贈太上天皇なり慶長年中威公徳川頼房卿の水戸に封せらるるや尊の東夷御平定の功烈を慕ひ給いそれか御子義公徳川光圀卿御尊崇の念厚く寛文七年本社の舊式に従ひて本殿拜殿玉垣神饌殿神楽殿末社寶藏等を改築し神具を寄進し給ふ天保十五年烈公徳川斉昭卿亦義公の遺志を継給ひて神道を興し武徳を修め深く此の神を尊崇せられ社地を増し封内の総鎮守とし給ふ明治六年縣社に列せられ今日に至る
境内老杉矗立して四邊神さひ森嚴自ら襟を正せしむ辰巳の方神壇あり朝日三角山と稱す日本武尊の兵を憩はせられ御幡を朝日に輝かせ給へる靈蹟なりと傳ふ志里久米縄嚴めしく童幼も敢て入らす毎年大祭の砌神輿を御前に停めて式を擧け舊下市への渡御を行ふを例とす昭和十五年紀元二千六百年奉祀の御大典を行はせらるるに際し記念事業として之が靈蹟に標柱を立て瑞垣を繞らし新に碑を建て當社並に朝日三角山の由緒を勒し此に工成り永く御祭神の御功勲を追憶景仰し奉らんとす庶幾くは名神の御威靈感應ましまし國家の爲長へに福祉を垂れ賜はんことを
                       従四位勲四等大内猪之介謹撰
  昭和十七年二月十一日               白雲 山内貞次謹書

社頭石碑



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