吉田神社
よしだじんじゃ


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【吉田神社】

よしだじんじゃ 茨城県水戸市宮内町。
旧県社。祭神は日本武尊を祀る。社伝によれば、日本武尊が東征の際、この地で休まれたことにより創建されたという。平安時代天安元年(857)従五位上勲八等から従四位下となる。元慶2年(878)正四位下に叙せられる。延喜の制では名神大社に列せられる。朝廷からの崇敬が篤く、大神宝税使・御体御ト祓役・太神宮の役夫・造内裏大嘗祭の課役を免ぜられた。国司に社殿の造営をさせ、一の宮鹿島宮に次いで行うのを例とした。鎌倉時代の徳治年間(1306−08)には巨大な社領を有したと伝えられているが、室町峙代になり衰頽し、江戸時代の初期には一五石の朱印を付せられたに過ぎない。寛文8年(1668)徳川水圀が社殿を修造し、天保15年(1844)徳川斉昭は水戸藩領内の総鎮守として『大日本史』及び社地100石を奉納した。当社の神宮寺は天台宗に属する薬王院で延暦年間(781−806)の開基と伝えられる。例祭10月15、16日。宝物には、吉田古文書・太刀・神鏡・猿田彦面等多数存する。

神社辞典



【吉田神社 名神大】

吉田は與之太と訓べし、和名鈔、(郷名部)吉田、〇祭神日本武尊(地名記、鎮座)、○吉田郷藤柄村に在す、今茨城郡に属す、例祭月日、○式三、(臨時祭)名神祭二百八十五座、常陸國吉田神社一座、
西山遺事云、寛文7年丁未10月、吉田(日本武尊、常州茨城郡吉田郷、)の社を修造仰付られ、唯一宗源の神道に改め、乙女八人神樂男五人づつ指置れ云々、社僧を廃し別寺に住せしめ、其田を以修繕の料に致し申様にと、神職の者に仰られ候云々、
神位
文徳実録、天安元年5月壬戌、在常陸國從五位上勲八等吉田神授從四位下、三代実録、貞観5年8月2日壬戌、授常陸國從四位下勲八等吉田神從四位上、元慶2年8月8日辛未、授常陸國從四位上勲八等吉田神正四位下

神社覈録



縣社 吉田神社

祭神 日本武尊 創立年代詳ならず、正安4年の社蔵文書に、「御垂跡以後八百歳」と、蓋、顕宗仁賢両天皇の御宇ならんか、傅云ふ、景行天皇の御宇、日本武尊東夷征伐凱旋の途次、兵を是地に息はせ給ふ、依りて後世尊を奉祀すと、延喜の制、名神大社に列せられ、古来当國三の宮たり、文徳實録に文徳天皇天安元年5月従五位上勲八等より從四位下に進め給ひ、三代實録に清和天皇貞観5年8月從四位下、陽成天皇元慶2年8月正四位下を奉授せられ、後、朱雀天皇天慶3年正月、朝廷より祈願のことあり、神位を連め封戸を奉寄せらる、爾来天下諸神と共に階を進め給ふこと数次、亀山天皇弘長元年2月20日、遂に正一位を極めさせ給ふ、朱雀天皇天慶3年神位と共に封戸を奉寄せられし以来、近衛、後鳥羽、順徳、後二條、後亀山の御字、或は朝廷より或は國守より相次いて社領を奉寄し、後亀山天皇の御宇、無慮百数十町を以て算するに至りしが、佐竹氏水戸の城主たるに及び悉く之を失へり、然るに幾許ならずして後光明天皇慶安元年10月、徳川幕府朱印十五石を寄進し、次いて宝永4年2月、水戸城主徳川綱條、更に社領十石を増す、先是光圀社殿を営み神器を奉り、且つ僧徒の事に預るを禁じ、本殿、拝殿、玉垣、神楽殿、玉垣、鳥居等を造修し、日月の鉾、四神の旗、社印等を奉納せり、烈公齊昭殊に厚く崇敬し、天保15年正月壬午、当社を以て封内の総鎮守とし、地百石及大日本史を寄奉る、古来朝野の崇敬斯の如きが故に、其の間或は勅額を賜り、或は社領に賦課を停め、或は祭祀の料に租穀を充られし等枚挙に連らざるが、社殿造営の如きは、常に鹿島神宮造営毎に奉仕す、蓋異敦の事たり、然るに偶怠る者あらんか、忽ち勅命下る、順徳天皇建保年間の造営の動き是なり、明治維新の後縣社に列す。
社殿は本殿、拝殿、其他神供所、神樂所等あり、頗る高潔なり、境内は3041坪(官有地第一種)及近く編入せられし上地林一町六反三畝七歩より成る、朝日山と称す、蓋し東に面し常に旭光を受くるが故に此名あり、又吉田の森と称し老樹鬱然として景趣尤も佳なり。摂社二あり、笠原社は本社の西南笠原村にあり、弟橘姫命を祭り、酒門社は本社の西南酒戸村にあり、木花開耶姫命を祀ると云ふ、合て二所別宮とす、(吉田社記)

明治神社誌料






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