筑波山神社
つくばさんじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】筑波山神社(二座 一名神大。一小) 常陸国 筑波郡鎮座

   【現社名】筑波山神社
   【住所】茨城県つくば市筑波1
       北緯36度12分49秒,東経140度6分4秒
   【祭神】伊弉諾尊 伊弉册尊 加具土命
   【例祭】春季例大祭 4月2日
   【社格】名神大 旧県社
   【由緒】弘仁14年(823)正月21日『日本紀略』
       承和9年(849)10月2日(筑波女大神)従五位下『続日本後紀』
       貞観12年(860)8月28日男神正四位下・女神従四位上『三代実録』
       貞観13年(871)2月26日、男神従三位『三代実録』
       貞観16年(874)11月26日女神従四位上『三代実録』
       慶長7年(1602)徳川家康神領五百石寄進
       元禄8年(1695)江戸城の鎭護ため知足院を護持院と改称
       明治8年護持院跡地に現拝殿を造営
       明治6年10月県社

   【関係氏族】筑波国造
   【鎮座地】移転することなく現在地に鎮座

   【祭祀対象】筑波山
   【祭祀】古代より祭祀は継承されてきている
   【公式HP】 筑波山神社
   【社殿】本殿木造流造銅板葺(男体山・女体山とも)
       拝殿・幣殿・随神門・神橋

   【境内社】稲村神社・子原木神社・安座常神社・渡神社
       常陸帯神社・稚日女神社・雷神社・天太玉神社・香取神社
       聖天神社・稲荷神社・八幡神社・稲荷神社・日本武神社・稲田姫神社
       大洗神社・秋葉神社・天満宮・住吉神社・猿田彦神社・八坂神社
       稲荷神社・三島神社・日枝神社・春日神社・島神社・愛宕神社


社殿は西峰(870m)に男神の本殿、東峰(876m)に女神の本殿、山の南面中腹(270m)に拝殿があり、摂社四社が山上に、そして、社務所が拝殿の西側にある。
第10代崇神天皇の御代(約2000年前)に、筑波山を中心として、筑波、新治、茨城の三国が建置されて、物部氏の一族筑波命が筑波国造に命じられ、以来筑波一族が祭政一致で筑波山神社に奉仕した。第12第景行天皇の皇太子日本武尊が東征の帰途登山されたことが古記に書かれている。


筑波山神社

昔、神祖の尊が諸神たちの処を巡行し、駿河の國の富士山に行かれたときに日が暮れ、こゝで宿を乞はれたところ、富士の神は、新嘗祭で物忌中だから、お宿を致しかねますとお断りになつた。すると神祖の尊は恨んで呪誼を発し、更に今度は筑波山に登つて宿を乞はれた。この時、筑波の神は、「今夜雖新粟嘗、不敢不奉尊旨、爰設飲食、敬拝祇承、」と、すなはち、今夜は新嘗祭をするので、客人は家の内に入れられないのですが、宿をせよとのお言葉をお受けしないわけにはまゐりません、と申して、御馳走を出し接待申しあげた。すると神祖の尊は千秋萬歳の繁榮を言壽きされた。

常陸國風土記



筑波山神社御由緒

一、鎮座地 茨城県つくば市大字筑波一番地(筑波山)
一、御祭神 筑波男ノ神(いざなぎのみこと)男体山にまつる海抜870m
      筑波女ノ神(いざなみのみこと)女体山にまつる海抜876m
一、境内地 筑波山南面標高270mの線より上方森林地108万余坪
一、祭日 ◎春の御座替祭(4月1日)◎秋の御座替祭(11月1日)◎年越祭(旧正月12、13、14日)◎元旦祭(初詣)
一、摂社(四座) 天照大御神・月読尊・素盞鳴尊・蛭児命
一、境内神社 春日神社・日枝神社・朝日稲荷神社・嚴島神社・愛宕神社
一、諸祈願縁 結び・家内安全・商売繁昌・豊作大漁・厄除・方除・交通旅行安全・工事安全.太々神楽・子授け・安産・七・五・三祝・進学・心願成就等
(諸祈願は社務所で受付けています)
一.御由緒
常陸風土記万葉集に筑波男ノ神女ノ神と崇められ神代の伝説及び和歌二十数首を伝へて、常陸国霊東国鎮護の神と仰がれ(奈良時代)弘仁14年正月21日(西歴823年)霊験しきりたるを以て官社に預り嘉祥3年9月26日(西歴850年)伊勢神宮、加茂神社へ奉幣のとき、当神社へも使を遣はして奉幣せられ(続日本後記)延喜式内の名神大社に列した。繁き御神徳は「筑波嶺のかげ」と慕はれ天皇の善政の譬に用ゐられたが古今集の序に誌され(平安時代)てゐる当神社は第十代崇神天皇の御代以来世々筑波国造が奉仕してゐたが、中世神仏習合の風起り、小田城主八田知家の子明玄が国造の名籍を継いで筑波別当大夫となり(筑波氏)子孫相承け慶長の頃に至る。
天正18年徳川家康が江戸城に入ると筑波山俊在に命じて「筑波山流記六巻を献らせ、筑波山を江戸城鎮護の霊山と崇めて慶長五年春、立願筑波氏に代りて梅心院宥俊を筑波山知足院中禅寺に移して筑波山別当に補し、更に林道春に「天地開闢筑波山縁起」を起草せしめ慶長7年11月には神領五百石を寄せて春秋両度の御座替祭を以て江戸城鎮護諸国安泰の祈願神裏を定めた。家康に請はれ、大阪夏冬の陣に出陣して戦勝を祈願した知足院光誉を経て知足院栄増の代三代将軍家光は家康の遺訓を守り、日光山東照宮の大造営の無事を祈つて寛永9年春現在地に工を起し10年秋社殿堂宇を寄進した。知足院改め護持院隆光の代五代将軍綱吉は更に社堂を造営し朱印地千石を加へて崇敬の誠を尽し神領千五百石の領民には国役金を免除(伊勢、日光山神領以外にこの例なし)して奉仕の任に当らせた。此の故に社紋には葵紋を用ゐる。
元治元年水戸藩士藤田小四郎等「天狗党」が筑波山にたてこもつて尊王嬢夷を天下に呼号した。いはゆる明治維新の原動力とも言ふべき筑波山事件を経て明治元年神仏習合禁止令にあひ、別当寺の護持院(音羽護国寺を兼帯)を廃止し筑波山内の仏堂伽藍を破却した。
明治3年4月神祇大副伯の実弟白川資義を筑波山神社祭主に迎へ、明治天皇が明治4年11月17日旧慣によらず東京に於て大嘗祭を行はせられた時「筑波山の日蔭の蔓」を御用命になった。明治8年拝殿を建立し、神体山信仰の古に復し現在に至った。

社頭掲示板




筑波山神社

筑波山神社御造営由来記
筑波山は伊弉諾尊・伊座冉尊二神御隆臨の霊山で、西峰に男大神、東峰に女大神を祀り、筑波山神社と栄め奉る。世々筑波国造が奉仕し、嵯峨天皇の弘仁14年正月官社となり、延喜式内名神大社に列す。
慶長の初め徳川家康は、当山を以て江戸城鎮護将軍家第一等の御祈願所と定め、寛永10年11月三代将軍家光は山内の諸社堂伽藍を悉く寄進造営し輪奏その美を尽くす。御神領千五百石、元治元年の筑波山長挙を経て、明治元年3月神仏分離の命により当山は神体山信仰の古制に復し明治8年拝殿を造営す。
その後、昭和3年4月文部省古社寺保存課安間立雄技手の設計監理にて唐破風千鳥破風付銅板葺入母屋造に改修し、昭和30年5月男体山を改築す。
昭和51年5月24日・25日の両日天皇・皇后両陛下当山に御幸啓遊ばされ、全山を挙げて御聖代を謳歌し奉る。越えて昭和54年5月御本殿御造営奉賛会を結成して、65年の風雪に堪えた女体山御本殿を改築し、更に記念事業として95年前建築の社務所に代え「人民集賀」と御神徳を称えた常陸風土記縁の参集殿を建立して千手堂に三重塔を配した江戸時代の総構の再現、及び百年前に亜鉛板で仮葺きした隋神門屋根の改修をはかり、氏子崇敬者からの浄財寄進により左の事業を行い、明治以来の宿願を達成す。
女体山 御本殿 守礼授与所改築
神明造銅板葺 昭和55年5月竣工
参集殿 新築 昭和57年4月竣工
 裳階屋根唐破風付銅板葺入母屋造り
隋神門屋根銅板葺替 昭和59年8月竣工
明年、筑波建久学園都市に於いて開催される世紀の祭典科学万博つくば85を迎えるに当たり、御造営の由来を録して広大無辺なる神明の御加護を深く感謝し、天下泰平国家安全、万民弥栄を精祈するものである。
昭和59年9月吉日
筑波山神社御本殿御造営奉賛会

社頭石碑



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