筑波山神社
つくばさんじんじゃ


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【由緒】

筑波山は、関東地方に人が住むようになったころから、信仰の対象として仰がれてきました。御山から受ける恵みの数々は、まさに神からの賜物でありました。その山容が二峰相並ぶため、自然に男女二柱の祖神が祀られました。
その後祖神は「いざなぎの神、いざなみの神」と日本神話で伝えることから、筑波の大神も「いざなぎ、いざなみ両神」として仰がれています。
第十代崇神天皇の御代(約二千年前)に、筑波山を中心として、筑波、新治、茨城の三国が建置されて、物部氏の一族筑波命が筑波国造に命じられ、以来筑波一族が祭政一致で筑波山神社に奉仕しました。
第十二代景行天皇の皇太子日本武尊が東征の帰途登山されたことが古記に書かれ、その御歌によって連歌岳の名が残ります。
奈良時代の『万葉集』には筑波の歌二十五首が載せられ、常陸国を代表する山として親しまれたことがわかります。延喜の式制(927年)で男神は名神大社、女神は小社に列しました。
中世以降仏教の興隆につれて筑波山にも堂塔が建ち、小田城主八田知家の末子 八郎為氏が国造の名跡を継いで神仏並立の時代が続きました。江戸時代、幕府は江戸の鬼門を護る神山として神領千五百石を献じました。幕末になって藤田小四郎等が尊王攘夷の兵を起した筑波山事件を経て明治維新となり、神仏が分離されて神社のみとなり、明治6年に県社となりました。
沿革
筑波山神社は坂東無双の名嶽とうたわれた筑波山を境内とし、万葉集に「二神の貴き御山と神代より人の言い継ぎ」と崇められているように、古代山岳信仰に始る国内屈指の古社である。西峯男体山頂(871m)の磐座に筑波男大神(伊弉諾尊)を、東峯女体山頂(877m)の磐座に筑波女大神(伊弉冊尊)を祀る。
山下の南面中腹(270m)に拝殿があり、これより山上の境内地「筑波山」を御神体として拝する古代の形が維持されている。筑波山を御神体と崇めまつる神体山信仰に発し、古来春秋両季に行われる御座替祭に供へまつる神衣(かんみそ)に御神霊を奉遷して御神体となす。筑波山縁起によれば、当神社の創祀は遠く神代に始る。天地開闢の初、諾冊二尊が天祖の詔をうけて高天原を起ち、天之浮橋に並び立ち給う、天之瓊矛(あめのぬぼこ)を以って滄海をかき探り給えば鉾の先よりしたたり落ちる潮凝って、一つの島となる。即ち二神は東方霊位に当る海中に筑波山を造り得て降臨し給い、天之御柱を見立て、左旋右旋して東西御座を替え給い、相対面なされて夫婦となり大八洲国及び山河草木を生み給う。次に日神、月神、蛭児命、素盞鳴尊を生み八百万神を生み給う。記紀に伝える「おのころ島」とは筑波山のことで、この故に筑波山は日本二柱の父母二神、皇子四所降臨御誕生の霊山であり、本朝神道の根元はただ此山にあるのみと伝えている。
また詞林采葉抄は「筑波山といふ名は、天照大神此の山嶺にて紫の筑琴をひかせたまふに、水波の曲に至り、鹿島の浦の波雲に乗って飛び登り、此の山の嶺に着きにたりけり。よりて着波山といふ。しかして琴名によって筑波山といふ」と記し、山麓の小田城中で北畠親房卿が神皇正統記を著した頃、筑波山が父母二神を祭る天照大御神御親祭の貴き斎庭(ゆには)であったと伝える伝承が広く行われてたことを示している。春秋二季の御座替祭の由緒や筑羽子(つくはね)羽子板(はごいた)の起源伝説にも諾冊二尊と天照大御神とが筑波山に密接して語り継がれ、文化年代の筑波山私記にも「土民相伝ふ、日神筑波山に降臨あり、のち伊勢に遷り給うと。此山、日神の御山なりといふこと三歳の小児まで伝説す。史伝・旧記に引証するを待たずして人これを信ず。真の口碑といふべし」と記しているように、筑波山における諾冊二尊と天照大御神の説話は、他社に比類なき神秘に富んだものを伝えている。
常陸風土記は、新嘗の夜に祖神尊が筑波神を訪ね給うた時、筑波神の真心こめた歓待に感激されて、「愛乎我胤(はしきかもわかみこ)巍哉神宮(たかきかもかむみや)天地並斉(あめつちのむた)日月共同(ひつきのむた)人民集賀(ひとくさつどひことほぎ)飲食富豊(おしものゆたかに)代々無絶(よよたゆることなく)日日弥栄(ひにけにいやさかえ)千秋万歳(ちよろづよに)遊楽不窮(たぬしみきはまらじ)」と歓びの御歌を筑波山に斎いこめられたことを伝え、この懐しく優しい筑波神の御許に足柄坂(あしがらのさか)よりの東の老若男女が騎歩登臨して喜び集い「筑波嶺のかがひ」を催して万葉集や古今和歌集に数々の名歌を残した本縁を説いている。更に「筑波岳に黒雲かかり衣袖清国(ころもでひたちのくに)」といふ国俗諺(くにぶりのことわざ)を書き留め万世に伝うべき神授の詞集として、常陸国の国号が、実に筑波山に発していることを教えている。
その後人皇の御代に入って、神武天皇の紀元元年、筑波山神社男体女体両宮が創祀され、崇神天皇の御世早くも筑波国が建置されて采女臣(うねめのおみ)(物部氏)の友族筑波命が国造(くにのみやつこ)に任命された。成務朝の阿閉色命(あべしこのみこと)を経て大化の改新に至るまで、子孫相承けて祭政一致の制に基き世々筑波国造が当神社に奉仕していたが、以後もまた筑波国造の称号を伝承して慶長の世に及んだ。
景行天皇の御代日本武尊の御東征に当り、尊は当山に登拝し給いて連歌嶽の遺跡をとどめ給い、帰途甲斐国酒折宮(さかおりのみや)にて「にひばり筑波をすぎて幾夜かねつる」と御詠あり、連歌の濫觴(らんしょう)をなし給うた。神道歌道もと一つにて、連歌を「つくばの道」と称し、遂には日本独特の俳句を生んでいる。
次いで神功皇后三韓征伐の砌、敵国降伏のために御勅願あり、且つ応仁天皇御懐妊あるを以て安産を祈り給い、御凱陣の後神田を寄せ給うと共に御腹帯を当神社に納め給うた。これ当山の秘社常陸帯(ひたちおび)宮創祀の由緒で、神領民には鹿島神宮祭頭祭、御造営の料を充てることを御勅免あらせられ、鎌倉・徳川の世もまた旧慣により免ざられた。
降って皇極・天武両朝には圭田を奉ぜられて神礼を行はせられ、平安時代を迎えた。即ち嵯峨天皇の弘仁14年正月21日(823)従五位下筑波神、霊験顕著なるを以て宮社に列し(日本後紀巻三)また文徳天皇の嘉祥3年9月26日(850)伊勢神宮、加茂神社に奉幣の時、当神社にも使を遣はして奉幣せられ(続日本後紀)。以来漸次昇叙して清和天皇の貞観13年2月(871)男神を従三位、同16年11月女神を正四位下に叙せられた(三代実録)。更に寛平5年12月(893)両神共に一階を進められ、延喜の制に男神は名神大社に女神は小社に列せられた。
醍醐天皇の延喜5年4月(905)、紀貫之は古今和歌集二十巻を撰上したが、その序に、天皇の御世の長久を「さざれ石にたとへ筑波山にかけて」願ひ、その御聖徳を「広き大めぐみのかげ、筑波山のふもとよりしげくおはりまして、よろづのまつりごとをきこしめす」と述べ、筑波山が天皇の御聖代を象徴する霊山として厚く尊崇されていたことを偲ばせている。
武門の時代、建久二年(1191)源頼朝は安西三郎景益、上総介広常、千葉介常胤、茂木四郎義国等の武将を伴って当神社に参詣、神領を寄進す。弘安太田文に伝う、筑波社五十六町六十歩と。また頼朝の異母弟、八田知家は筑波山麓に小田城を築き、且つ十男筑波八郎(明玄)をして筑波国造の名籍を継がしめ、筑波別当大夫に補しその支族筑波大膳を社司に任じて当神社に奉仕させた。天正18年8月(1590)、徳川家康は江戸城に入城、東北に聳える筑波山を仰いで江戸城鎮護の霊山と崇め、慶長5年9月(1600)関ヶ原の合戦に大勝の後、山司筑波八郎以来の社家筑波氏を悉く追没して家康が厚く帰依していた大和国長谷寺の別当梅心院宥俊を筑波別当に補し、知足院を再興せしめて将軍家の御祈願所と為し、筑波山神社御座替祭を以て江戸城鎮護の神事と定めた。然して慶長7年11月25日(1602)、筑波山神領五百石(大字筑波)を寄進した。
宥俊の弟子二世光誉も家康の信任厚く、慶長15年(1610)江戸白銀町に護摩堂を建てて常府を仰付けられ、慶長・元和の大阪夏冬の陣には陣中に在って戦勝を祈願し、大願成就の後元和2年10月(1616)二代将軍秀忠は当山の社堂伽藍を普請、更に寛永9年(1632)春三代将軍家光は新たに地を相し工を起して筑波山内の社堂伽藍を悉く造営寄進し、同10年11月(1633)工成り輪奐の美を尽くした。次いで五代将軍綱吉は知足院十一世隆光を重用し、貞享元年(1684)護摩堂を湯島に移し、更に元禄元年(1688)神田橋外に地境を倍加して宏荘な護摩堂を建立した。次いで元禄8年9月(1695)筑波山の本坊共々護持院と改称せしめ、元禄3年2月に続いて8年正月に都合千石(大字沼田、大字臼井の二村)を加増したので、筑波山神領は千五百石を算へるに至った。江戸時代の筑波山神領は、伊勢、日光山両神領と共に他に例のない国役金免除の神領となし専ら当神社の奉務の任に当らせた。
宝暦9年(1759)、筑波町南表六丁目入口の石鳥居の再建が成り、同11年正月(1761)「天地開闢筑波神社」の勅願を掲げることを幕府に奏請したが、後桜町天皇御幼少のため代わって嵯峨宮の御染筆があり、同13年11月(1763)この筑波山の由緒を語る神領を掲揚した。降って元治元年3月(1864)に水戸浪士藤田小四郎、田丸稲之右エ門等が筑波山に集結し、護持院本坊に本陣を置いて筑波義挙の兵を挙げ尊王攘夷を天下に呼号して維新回天の魁となったのも故なしとしない。
明治元年10月(1868)神仏混淆禁止の太政官布達があって、筑波山では護持院を廃して旧に復し、明治2年9月(1869)神祗大副伯の実弟白川資義が筑波山神社の祭主に任じられた。明治4年11月17日(1871)、明治天皇が大嘗祭を東京で行はせられた時、筑波山の日蔭蔓(ひかげのかづら)が御用命になった。これは実に古今和歌集以来の歴史の幸せであった。明治6年10月4日(1873)県社に列し、同8年(1875)中禅寺本堂跡地に現拝殿を造営して現在の規模を整えたのである。

公式HP



【文化財】

重要文化財(国指定)
太刀 銘吉宗(附 糸巻太刀拵)(工芸品) 鎌倉時代、備前一文字派の刀工の吉宗による作刀。ただし、備前一文字派に吉宗の名の人物は複数おり、いずれの作かは定かでない。本刀は、寛永10年(1633年)の筑波山中禅寺の堂塔再建時、3代将軍徳川家光から寄進された。太刀拵には、柄や鞘の金具に葵紋が散りばめられている。大正7年4月8日指定。
茨城県指定文化財
有形文化財 神橋(建造物) - 昭和54年11月1日指定(建第60号)。
境内社春日神社本殿・日枝神社本殿 及両社拝殿(建造物) - 昭和54年11月1日指定(建第61号)。
境内社厳島神社本殿(建造物) - 昭和54年11月1日指定(建第62号)。
つくば市指定文化財
有形文化財 随神門(建造物) - 昭和54年1月23日指定。
天然記念物 ほしざきゆきのした - 筑波山の固有種のホシザキユキノシタ。境内の石垣に移植され生育する。昭和61年2月20日指定。
まるばくす - 昭和62年5月21日指定。


【筑波山神社】

 古代より山岳信仰の対象とされてきた筑波山を境内(標高270m以上約370ha)とし、 男体山頂に筑波男大神=つくばおのおおかみ(伊弉諾尊=イザナギノミコト)を、 女体山頂に筑波女大神=つくばめのおおかみ(伊弉冉尊=イザナミノミコト)を祀る本殿が建てられ、 筑波山南面の中腹に拝殿がある。 筑波山がいつごろ創建されたかは不明だが「天地開闢(てんちかいびゃく)」以来、自然とあがめられるようになったとする。 いわゆる、境内地自体(筑波山自体)を御神体とする筑波山信仰に端を発し、信仰の山を祀ったものとされる。 もともと筑波男大神、筑波女大神として祀られていたが、その後大和朝廷の力が及ぶに至り、日本神話と融合し祭神が伝えられたと考えられる。
 782(延暦元)年に法相宗の学僧・徳一(とくいつ)が、筑波山知足院中禅寺を開く。筑波山の御威光を借りて仏教を広めようと考えたと見られる。 それ以降、明治の廃仏毀釈まで、筑波山神社のなかに仏教寺院がある神仏習合の形で、神と仏をともに祀った時代が長く続いた。
 筑波山神社の現在の拝殿の場所には、中禅寺の本堂(大御堂)が、その脇には三重塔、現在の随神門は仁王門と呼ばれ、その近くには鐘楼もあった。 このほか、薬師堂、経堂、聖徳太子堂などを持つ、大伽藍だった。多くは江戸時代、徳川家の庇護の下、建立されたもの。
 筑波山神社が現在の形になったのは明治以降。本堂が取り壊され、その跡に拝殿が建てられたほか、三重塔はじめ多くの仏教施設が壊され、仏教色が一掃された。 なお、鐘楼はつくば市内の慶龍寺に移され今でも見ることが出来る。同じく仁王像もつくば市内の東福寺に移されている。 このほか、多くの仏具もゆかりの寺院に移され難を逃れた。
 御利益は、祭神の二神が結婚して神々を産み、国を造っていったという神話から、縁結び、夫婦和合、家内安全、子授け、子育てなどにご神徳がある。 また、国を造ったという事から、社運隆昌、職場安全、工事安全、五穀豊作、商売繁盛などにもご神徳があるという。 このほか、導きの神としても信仰されている。これは、筑波山が平野のなかにあり遠くから望むことが出来るため、古来より、道しるべとなってきた。 さらに、鹿島灘で操業する漁師さんたちも筑波山を目印にしていたという。このため、交通安全、旅行安全などに御利益があるとされる。
 平安時代にまとめられた、延喜式神名帳に記載のある式内社で、筑波男大神は名神大社、筑波女大神は小社に列せられている。 明治時代の近代社格制度では県社。現在は、神社本庁の別表神社。
 毎年の初詣には3が日で20万人以上の参拝者が訪れる茨城県内でも人気の神社。
江戸城鎮護の霊山
 徳川家康は、江戸城に入城の際、東北にそびえる筑波山を江戸城鎮護の霊山とし、知足院中禅寺を再興して将軍家の御祈願所とした。 現在の筑波山神社拝殿の場所に本殿があった。当時は神仏混合で祀られることが多く、筑波山も筑波山神社と中禅寺は、明確に区分されていなかったようである。
 なお、これは他の場所でも同じで、栃木県・日光の2社1寺も、江戸時代以前は神社、霊廟等含めて日光山と呼ばれ、現在のように分離されたのは明治時代になってからである。
 徳川家康が筑波山神領500石を寄進したほか、2代将軍・秀忠、そして3代将軍・家光が、春日神社、日枝神社などを造営寄進。 徳川家の威信を示すような大規模な伽藍となった。 5代将軍・綱吉は知足院を護持院に、そして1000石を加増した。また、江戸時代の筑波山神領は、伊勢、日光の両神領とともに、国役金免除されるなど、筑波山がいかに大切にされていたかが分かる。
 しかし明治時代に入ると、廃仏毀釈によって、筑波山では護持院が廃止された。 護持院はその後再興され、筑波山神社拝殿の隣、筑波山大御堂となっている。

つくば新聞



【筑波山神社】

【御由緒】  筑波山は、関東地方に人が住むようになったころから、信仰の対象として仰がれてきました。御山から受ける恵みの数々は、まさに神からの賜物でありました。その山容が二峰相並ぶため、自然に男女二柱の祖神が祀られました。その後祖神は「いざなぎの神、いざなみの神」と日本神話で伝えることから、筑波の大神も「いざなぎ、いざなみ両神」として仰がれています。
 第10代崇神天皇の御代(約2000年前)に、筑波山を中心として、筑波、新治、茨城の三国が建置されて、物部氏の一族筑波命が筑波国造に命じられ、以来筑波一族が祭政一致で筑波山神社に奉仕しました。第12第景行天皇の皇太子日本武尊が東征の帰途登山されたことが古記に書かれ、その御歌によって連歌岳の名が残ります。
 奈良時代の「萬葉集」には筑波の歌25首が載せられ、常陸国を代表する山として親しまれたことがわかります。延喜の式制(927)で男神は明神大社、女神は小社に列しました。
 中世以降仏教の興隆につれて筑波山にも堂塔が建ち、小田城主男八郎が国造の名跡を継いで神仏並立の時代が続きました。
 江戸時代、幕府は江戸の鬼門を護る神山として神領千五百石を献じました。幕末になって藤田小四郎等が尊王攘夷の兵を起した筑波山事件を経て明治維新となり、神仏が分離されて神社のみとなり、明治6年に県社となりました。
【御神徳】
 ご祭神の二神は日本人の祖神として「古事記、日本書紀」にそのご神徳が書かれています。二神が結婚して神々を産み国産みをされたことにより、縁結び、夫婦和合、家内安全、子授け、子育て等のご神徳と、国土経営をなされたことにより、開拓、国家運営、社運隆昌、職場安全、工事安全、交通安全等のご神徳。また、豊作や大漁などの産業面、そして厄除、方位除、心願、安産、進学等の合格祈願などに祖神達の強いご神徳を戴くことができます。

茨城県神社庁



筑波山神社

つくばさんじんじや 茨城県筑波郡筑波町筑波。旧県社。祭神は筑波男大神(男体山頂)・筑波女大神(女体山頂)である。
当社は筑波山を境内として、古代山岳信仰に始まる。西峯男体山頂の磐座に筑波男大神(伊弊諾尊)、東峯女体山頂の磐座に筑波女大神(伊弊冉尊)を祀る。山下の南面中腹に拝殿があり、山上の境内地を御神体として拝する古代の信仰の形が維持されている。『常陸国風土記』によれば、祖神尊、諸神の処を巡幸した時、筑波嶽に登り宿を請う。筑波神、今夜新嘗であるが、詔命の随にせん、と言い飲食を設けて仕えた。祖神尊喜んで曰く、「愛きかも我胤、高きかも神宮、天地月日と共に代々絶る事無く。人々集ひて飲食富豊ならん」と。弘仁14年(823)従五位下筑波神の霊験顕著であるため官社に列せられる。承和9年(842)に筑波女神に従五位下を授けられ、天安2年(858)男神に従四位上、貞観13年(871)に男神は従三位、同16年女神は正四位下に叙せられた。延喜の制においては、男神一座は名神大社に、女神一座は小社に列せられる。ともに国幣に預かる。弘安2年(1279)には神領が五六町六〇歩を有したという。慶長7年(1602)徳川家康は五〇〇石を寄せ、元禄3年(1690)及び同7年には綱吉が1000石を増している、古く、延暦年間(782−806)には、僧徳一が当山に錫をとどめて筑波両大権現と称し、両部習合の神社とし、知足院中禅寺を創設したと伝えられている。寛永10年(1633)徳川家光はこれを改造したが、明治維新の神仏分離の時、堂宇は破戒された。当山は『万葉集』や『古今和歌集』をはじめ数多くの名歌にうたわれている。例祭4月1日。11月1日、8月1日にはがま祭が催されている。宝物には、国の重文指定の太刀一振をはじめその数は多い。

神社辞典



筑波山神社 二座 一名神大一小

筑波は郡名に同し、山は夜萬と訓べし、和名鈔、(郷名部)筑波、〇祭神伊弉諾尊、伊弉册尊、(地名記)或云、埴山彦神、埴山姫神、〇筑波山に在す、両峯あり、南陽峯男体と称し、北陰峯女体と称す、例祭月日、○常陸國風土記云、古老曰、昔祖神尊巡行諸神之処、到駿河国福慈岳、卒遇日暮、請欲寓宿、此時福慈神答曰、新粟初嘗、家内諱忌、今日之間、翼許不堪、於是神祖尊恨泣■告曰、即汝親何不欲宿、汝所居山、生涯之極、冬夏雪霜、冷寒重襲、人民不登、飲食勿奠者、更登筑波岳、亦請容止、此時筑波神答曰、今夜雖新粟嘗、不敢不奉奠旨、爰設飲食、敬拝祇承、於是神祖尊、欣然謌曰、愛乎我胤、魏乎神宮、天地並齊、日月共同、人民集賀、欲富豊、代々無絶、日々彌榮、千秋万歳、遊樂不窮者、是以福慈岳常雪、不得登臨、其筑波岳往集歌舞飲喫、至于今不絶也、(以下略之)夫筑波岳、高秀于雲、最頂西峰■燦、謂之雄神、不令登臨、但東峰四方磐石、昇降決屹、謂之艦神、共側流泉、冬夏不絶、自坂巳東諸國男女、春花開時、秋葉黄節、和携并聞、飲食癒賞、騎歩登臨、遊樂栖遅、其唱曰、云々、俗諺云、筑波峰之曾、不得■財者児女不爲矣、O同惣國風土記残欠云、筑波神杜、圭田八十二束六毛田、所祭木花咲耶比当轣A皇極2年癸卯三月、始奉圭田行神体、
連胤按るに、惣國風土記祭神の説甚いぶかし、こは古風土記に、福慈神と問答の事ありしより、富士の神と混じたるなるべし、〇鎮坐に、所祭二座、伊弉諾尊在陽峯、伊弊冊尊在陰峯、通謂之筑波大明神、又云、摂社四座、珠嶽祀素戔鳴尊、(其一)小原本社在吉野嶺、祀蛭児命、和多利社在国割嶺、祀月読命、稻村社在鷲嶺、祀天照皇太神、風土記所謂筑波飯名神乃此也、世謂之筑波六所大神云々と云り、
神位 官社、
日木紀略、弘仁14年正月丁丑、常陸國從五位下筑波神為官社、以霊験頻著、続日本後紀、承和9年10月壬戊、奉授常陸國无位筑波女大神從五位下、文徳実録、天安2年5月壬戌、常陸國筑波山神二柱授從四位下、三代實録、貞観12年8月28日戊申、授常陸國從四位上筑波男神正四位下、從四位下筑波女神從四位上、同13年2月26日壬寅、授常陸國正四位下筑波男神從三位、同16年11月26日辛亥、授常陸國從四位下筑波女神從四位上

神社覈録



縣社 筑波山神社

祭神 筑波男神 筑波女神
創建年代詳ならず、常陸風土記に、
「筑波(〇中略)古老曰、昔祖神尊、巡行諸神之処、更登筑波嶽、亦清容止、此時筑波神答曰、今夜雖新粟嘗、不敢不奉尊旨、爰設飯食、敬拝祇承、於是祖神尊、歓然歌曰、愛乎我胤、魏哉神宮、天地並斎、日月共同、人民集賀、飲食富豊、代代無絶、日日彌榮、千秋萬歳、遊樂不窮者」
と、蓋、神代以来の鎮座なるか、御神体は神鏡なり、嵯峨天皇弘仁14年正月丁丑従五位下筑波山神、霊験頗りに著るるを以て官社に預からしめ、続日本後紀に仁明天皇承和9年10月壬戌、無位筑波女大神に従五位を奉授せらる、文徳實録に文徳天皇天安2年5月壬戌、筑波男神に從四位上、筑波女神に從四位下、三代實録に清和天皇貞観12年8月戊申、男神に正四位下女神を從四位上に、同13年2月壬寅更に男神に從三位、同16年11月辛亥女神を正四位下に進められ、廷喜の制男神名神大社に、女神小社に列せらる、是より先、桓武天皇延暦元年、億徳一、当山に錫を止め筑波両大権現と称したらし以来、杜僧世々神事を勤むるに至り、社領は弘安2年の税所文書に五十六町六十歩と見えしが、慶長7年11月、徳川家康旧封を改め五百石を寄進し、元禄3年及7年の両度に徳川綱吉千石を増す、社殿は初め僧徳一神殿を改築して両部習合の神社とし山腹更に知足院中禅寺を創設せるが、徳川家光寛永10年悉く改め、輪奐の美を極めしが、明治維新神佛合祀の禁令に依り、堂宇を悉く破却し、僧を廃し号を改め、新たに拝殿を造営し祠官を置いて事を執らしむ、同6年10月県社に列す。
社殿は本殿二宇、一宇は西峯に在り男神を祭る、一宇は東峯に在り女神を祭る、及拝殿等あり、境内は無慮106萬1874坪(官有地第一種)及近く編入せられし上地林六反七畝四歩、筑波山之なり、坂東無双の名山にして、筑波、新治、真壁の三郡に鼎峙し、西峯海面を抜くこと2870尺、東峯更に30尺を加ふ、満山奇岩怪石磊々落々として千尋の絶壁に懸り、人をして煉然たらしむ、夫れ山頂に登て展望せんか、巍然たる富嶽碧落を刺し、森漫たる大洋虚空に連なる、関八州を下瞰して社観賞すべし、当社宝物は御寝筆に係るもの二幅、親王の御筆三品、其他数十鮎、之れ何れも稀世の逸品たり、因みに記す、当社祭神は姑く不詳の儘に志て、決する無かりしが、明治42年1月國史に依り筑波男神、筑波女神と決せり、又40年8月同所無絡社別雷神社を本社に合併せり。

明治神社誌料






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