鹿島神宮
かしまじんぐう 所在地 社名

























   【延喜式神名帳】鹿島神宮 (名神大 月次/新嘗)常陸国 鹿島郡鎮座

   【現社名】鹿島神宮
   【住所】茨城県鹿島市宮中 2403
       北緯35度58分8秒,東経140度37分52秒
   【祭神】武甕槌神
   【例祭】9月1日 例祭
   【社格】旧官幣大社 常陸国一宮
   【由緒】神武天皇即位元年に創祀
       崇神天皇御代に武具封建祭祀
       大化5年(649)鹿島神郡が設置
       大宝元年(701)造営
       天平宝字2年(758)9月8日神戸奉納
       神護景雲2年(768)分霊を奈良に迎えて春日社を造立
       宝亀8年(777)7月16日正三位『続日本紀』
       延暦元年(782)5月20日神封二戸
       弘仁3年(812)6月5日造営
       承和3年(836)5月9日正二位『続日本後紀』
       承和6年(839)10月29日従一位
       源頼朝社領を寄進
       弘安4年(1281)將軍惟康親王神領寄進
       正平24年(1369)足利義満神領寄進
       徳川家康二千石の朱印領寄進
       明治4年5月官幣大社

   【関係氏族】中臣氏
   【鎮座地】古代よりこの地に鎮座

   【祭祀対象】
   【祭祀】古代より祭祀は継承されている
   【公式HP】 鹿島神宮
   【社殿】本殿流造桧皮葺漆塗
       石の間・拝殿・仮殿・楼門・手水舎・神饌所・社務所
       神庫・宝物館・勅使齋館・講堂・武徳殿・弓道場

   【境内社】奥宮・三笠社・高房社・坂戸社・沼尾社・須賀社
        熊野社・稲荷社・熱田社・御厨社・年社・潮社・阿津社・国主社
        海辺社・祝詞社・押手社・津東西社・鷲宮・大黒社

   【神宮寺】三宝山神宮寺金蓬院
        鹿島市鉢形の神宮寺沢にあつた
        天平勝宝年中宮司中臣鹿嶋蓮大宗が僧満願と設立
        明治初年に廃寺


常陸国の一宮。旧官幣大社。祭神は武甕槌神(建御雷神)。
『常陸国風土記』に大化5年(649)神郡がおかれ,そこにあった天の大神の社(現鹿島神宮),坂戸の社,沼尾の社をあわせて「香島の天の大神」とし、「豊香島の宮」と名づけられた。
崇神天皇のとき大刀,鉾,鉄弓,鞍などの武具が奉られたと記されている。
江戸時代以前は、伊勢の神宮などと同じく、二十年毎に造替遷宮が行われ、現在の本宮と奥宮の社地を、交替に社殿地とした。


由緒

御祭神 武甕槌大神
創 祀 神武天皇御即位の年に神恩感謝の意をもって神武天皇が使を遣わして勅祭されたと伝えられる。
御神徳 神代の昔天照大御神の命により国家統一の大業を果たされ建国功労の神と称え奉る。
またNE霊剣の偉徳により武道の祖神決断力の神と仰がれ関東開拓により農漁業商工殖産の守護神として仰がれる外常陸帯の古例により縁結び安産の神様として著名である。更に鹿島立ちの言葉が示すように交通安全旅行安泰の御神徳が古代から受け継がれている。
(注)文中のNEは、「音」偏に「師の右側」である。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




鹿島神宮

鹿島神宮 鎮座地 茨城県鹿島郡鹿島町
鹿島神宮の御祭神「武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)」は、神代の昔に、天照大御神の御命令によって出雲の国に天降り、大国主命と話合って、日本の国を一つにまとめられた神様です。
その後、日本中を歩かれて最後に関東地方の開拓と鎮撫に当られました。そして、当時水陸交通の要所であった鹿島に鎮まられ、平和を守る神として仰がれるようになりました。
奈良、平安の昔は、国で二十年に一度ずつ社殿を建て替える造営遷宮を行っていましたし、奉幣使もひんぱんに派遣されましたが、中世には源頼朝など武将が特に尊信するようになり武神として仰がれました。
現在の社殿は、徳川二代将軍秀忠の奉納によるもので、奥宮社殿は徳川家康、楼門は水戸初代藩主徳川頼房がそれぞれ奉納したもので、いずれも重要文化財に指定されています。
例祭は毎年9月1日に献幣使が参同して行われますが、12年に一度の式年大祭(御船祭)と中間の6年目には天皇陛下の御使の勅使が派遣される勅使参向の大社として、全国の人々より崇敬されています。
▲県文
「太刀 銘 景安」平安時代
景安は備前国の刀工で、この太刀は作風から見て古備前派に属し、優美な姿に加えて地・刃ともに極めて健全で、「景安」と切った二字名も古雅であります。
この太刀は水戸徳川初代頼房公の奉納されたものであります。
▲県文「古瀬戸狛犬」
瀬戸竈が開かれて問もない古瀬戸に属し、髪は直毛、姿勢は直立に近く、全体に黒褐色の光沢のある飴粕をかけてあります。
本来この狛犬は鹿島神宮の摂社に奉安されておりました。
▲県文「銅印」印文申田宅印
古来神印として重宝とされていたもので、社伝によりますと、光仁天皇の宝亀9年(778)朝廷より奉納、後に押手社に奉安されて、特に神職任符の際に押捺したと記されております。
▲県文「木造狛犬」
現在の社殿造営の折に、紀州(和歌山県)根来の平之内正信が残材を利用して作り奉納した一対の狛犬で、正信は江戸初期の名工として有名な建築家でありました。
▲国宝「直刀」金銅黒漆塗平文拵、附刀唐櫃
日本最古最大の直刀で、製作年代は今から約1300年前と推定されます。
常陸国風土記に、慶雲元年、国司等が鹿島神宮の神山の砂鉄で剣を作ったとあり、その剣であろうともいわれております。
古くは本殿内に納められていた神刀で、御祭神の神剣師霊剣の名も伝えられています。
▲「雪村筆百馬図」
雪村が、当宮に百日間参籠し描いた絵で、一枚ごとに「奉進納鹿島大神宮」と書いてあります。
この百馬図は簡素な筆使いにより一層馬の動きを見事にとらえています。
重文「梅竹蒔絵鞍」(表紙)
源頼朝が建久2年(1191)に奉納した神馬に付けられていた鞍で、戦乱が起こらぬよう祈願を籠めて奉納したと「吾妻鏡」に見えております。
▲県文「黒漆螺鈿蒔絵台」
上面に横六個縦五個計三十個の孔を有し、鉄鉾を立てて使用したもので、鹿島大神が出雲の伊那佐の小浜で大国主命と国譲りの談判の際、剣を抜いて波に逆しまに立て、その前に踞座された神話を具現して作られたと思われます。
鹿島神宮略年表
年号  事項
神武天皇元年   社殿を造立す。(社例伝記)
崇神天皇御代   神示により天皇は中臣神聞勝命に命じて大刀、鉾、鉄の弓、鉄の箭許呂、枚鉄、練鉄、馬、鞍、八咫鏡、五色の?を神の宮に納め奉らしめた。
(常陸国風土記)
倭武天皇御代(景行朝か)   大神中臣狭山命に宜り給うにより新たに舟三隻を造り献る」(常陸国風土記)
神功皇后御代   三韓征伐に鹿島の大神が守護し給いしことにより報賽として皇后御腹帯を奉納。これより安産の信仰起る。(鹿島長暦)
天智天皇御代造営に初めて使人を派遣これより修理絶えず年別の七月舟を造る。
(常陸国風士記)
大化5年  中臣鎌子、中臣部兎子等総領高向の大夫に請いて下総及那珂国を割きて神の郡を置く。(常陸国風土記)
大宝元年詔して神宮及仮殿を造る又造営の年期を定めて二十年とす(当神嘗式年御造営のはじめ)(鹿島長暦)
慶雲元年  常陸国司彩女朝臣トえて鍛冶佐備大麻呂等を率いて鹿島に来り神山の砂鉄を採りて剣を造る(現国宝「画刀」の製作年代と同時代である)(常陸国風土記)
神護最雲2年   御分霊を奈良に奉遷し春日杜を造立す。(帝王編年記〕
延長5年     鹿島神宮、名神大社、祈年祭に官幣案上の奉幣、月次祭、新嘗祭に預る。(延喜武)
建久2年     源頼朝神馬同鞍。(古文書)
仁治2年     当神宮炎上、但し本殿奥御殿は焼かず。自朝廷より春日、大原野、吉田の三社(当神宮御分社)に奉幣して鹿島社炎焼を謝す。(百練抄〕
慶長10年    御造営、徳川家康関ヶ原の戦勝報賽に奉納(現奥宮社殿是なり)(古文書)
元和5年     御造営、徳川二代将軍秀忠奉納により現在の本殿、石の間、幣殿、拝殿等造営成る。同時に僅か14年前奉納の本殿を引き奥宮社殿とす(古文書)
寛永11年    楼門廻廊忌垣百三十間造営。水戸藩主徳川頼房奉納。(古文書)
明治4年  官幣大社に列せられる。
明治43年 御本殿大修理。
大正12年 拝殿大修理。
昭和4年  今上天皇陛下行幸。
昭和29  年式年大祭勅使参向。奥宮社殿大修理。
昭和41年 常陸宮同妃両殿下御参拝。
      9月1日勅使参向式年大祭。
      同御船祭
昭和44年 皇太子殿下御参拝
昭和45年 本殿以四棟塗替工亭完成。
昭利49年 天皇皇后両陛下行幸啓。

由緒書



鹿島神宮

一、御祭神 武甕槌大神
一、鎮座地 茨城県鹿島郡鹿島町宮中
水郷筑波国定公園の一中心地をなす鹿島台地は怒濤逆巻く鹿島灘を東に配し、西に水煙茫々とひろがる北浦・霞が浦を望むことができる。 この台地の中央に数千年の歳月を重ねて大神は鎮まられる。
一、御事歴
神代の昔、天照大御神の命を受けた武甕槌大神は香取の経津主大神と共に皇孫の国たるべき日本の開国と建設とに挺身された。
とりわけ東国における神功はきわめて大きく関東開拓の礎は遠く大神にさかのぼる。
神武天皇はその御東征なかばにおいて思わぬ窮地に陥られたが、大神の神剣「師霊剣」により救われた。
この神恩に深く感謝された天皇は御自らの御即位の年、大神を鹿島に勅祭された。皇紀元年、即ち西歴紀元前660年の頃といわれる。
一、御社殿
当神宮の御社殿はその昔伊勢の神宮のように二十年毎に造営が行われた。現在の本宮は元和5年(1619)徳川二代将軍秀忠公により再建。奥宮は慶長10年(1605)初代家康公により本宮として奉納されたものを後の元和の大規模な造営の際に引き移したものである。
一、文化財
国宝 
「直刀」日本最古最大め直刀で師霊剣の名を伝える。茨城県では唯一の国宝である。
重要文化財 
本殿、石の間、幣殿、拝殿、奥宮社殿、楼門、仮殿、梅竹蒔絵鞍、
県指定文化財 
銅印、鐃、灯籠、景安太刀、木製狛犬四躯、陶製狛犬三躯、黒漆螺鈿蒔絵台、軍扇
一、摂末社
奥宮、息栖神社、沼尾神社、坂戸神社、高房社、三笠社、跡宮の七摂社とほかに十五の末社が境内外にある。
一、年中行事
1月1日   元旦祭
1月7日   白馬祭
3月9日   祭頭祭(防人の出立と帰還の往時をしのぶ鹿島立ちの神事)
5月1日   御田植祭
9月1日   例大祭
9月1日   神幸祭
〜2日    行宮祭・還幸祭(有名な提灯祭の後神輿が行宮に出御、町内は山車でにぎわう)
12月20日 宮贄祭
この他、中・小祭を加えれば年間七十数回もの祭事があり、12年に一度の午年の9月2日には壮麗な御船祭がある。
一、境内案内
大鳥居茨城県特産みかげ石製、高さは10m。
御神木 根廻り12m、高さ43mの巨大杉。実に1200年余の樹令を数える。
御手洗池 古来みそぎの斎場として著名である。
神域の水を集めて湧出する一昼夜の量は432キロリットル。狭霧のかかる朝夕などは幽玄境そのものである。
御神璽
「申田宅印」
御神璽「申田宅印」は、鋳銅製径4cm、高4.5cm、光仁天皇宝亀9年の奉納。当神宮の神職任符にも捺印される。県指定文化財。
樹叢
当樹林は照葉樹林の北限、サルオガセ、フウランなどの南限をなし六百余種の植物が繁茂する。その学術的価値は高く、県の天然記念物指定。
楼門
寛永11年(1634)水戸初代藩主徳川頼房公の寄進。
この楼門の秀麗な造りは阿蘇、筥崎と並んで日本三大楼門に数えられる。
要石
その昔、大神が天降りし御座石とも地震を起す大稔の頭を押えるとも又ここを中心に西北に扇形を為す要の地とするなど、古来幾多の伝説を秘める。
同様な伝説が御手洗池、三笠山の藤の花、海の音、根上り松、松の箸、末無川を加えて鹿島の七不思議と呼ばれる。
雪村百馬図
室町水墨画の最後を飾る一彗星、雪村周継が当神宮に百日間参籠して奉納した百馬図の一つ。一枚毎に奉進納鹿島大神宮の文字がみえる。

参拝のしおり



鹿島神宮

祭祀を形式の面から見ると、古くは伊勢の神宮のやうに庭上祭祀であつた。江戸時代になつて、家康公は社殿の造営を奉献したが、このときは本殿のみで、秀忠公の社殿奉建によつて、本殿のほか石の間、幣殿・拝殿の権現造が造営されたのである。しかし、その後も庭上祭祀の形式は踏襲され、殿上祭祀の形式をとつたのは、明治3年正月元日の「午刻大祭事」からのやうだ。

式内社調査報告



祭頭祭

現在の祭頭祭についてみると、氏子六十六字を南郷と北郷とに二分し、両郷より各一部落が、前年の祭頭祭の夜の神事でト定され、これを左方・右方の大頭と称し、その部落のものが祭りに奉仕することを許されるのである。すなはち、ト定されてから一年間、祭事準備期間があるわけで、選出された部落は、この間村内の安全祈願や本宮への日参、それに大総督(5〜7歳の童男)をはじめとする祭事役員の選出、行列囃の練習など、諸準備が行はれる。
3月9日の當日は、午前8時頃に左方・右方ともに鹿島に参集し、それぞれ予め定めておいた本陣(旅館がこれにあてられる)に詰め、大総督は衣冠、役員は陣笠羽織袴、囃人(子供〜青年)は色鮮かな祭衣に襷・鉢巻を着け、手には六〜七尺ほどの樫棒を持つ。
午前10時、神宮において出立祭が執行され、大総督以下祭りの役員が参列する。終つて、一旦本陣に戻つて更衣、午後1時より、今度は甲胃姿で肩車に乗つた大総督を先頭に、行列を組み、町端れの月讃社と年社に至る。ここから勇社活発な囃をはやし、ホラ貝を吹き、太鼓を打鳴らし、六尺棒を組んでは解き組んでは解き、町中を練り歩いて、午後4時過ぎに神宮境内へ繰込む。この間、左方と右方とが町中で出合ふと乱闘となるので、出合はないやうに道順を打合せておく。
午後8時から、春季祭が行はれ、こゝで翌年の當番がト定されるのである。

式内社調査報告



鹿島神宮

鹿島の森
空から見る社頭は、深い原始林の中に沈み鳥居の姿だけがひときわあざやかである。
街並は鹿島神宮の門前町である鹿島町の一部、表参道の樫並木が西へ延びている。
楼門
日本三大楼門の一といわれ、姿の美しさでは比類がないこの門は、水戸徳川家初代頼房卿の奉納により、寛永11年に完成した。
鹿島神宮の参道は、西より東へ向き、社殿は本宮、奥宮とも参道の南より北面する。参道の正面に社殿を置かない古代の礼法がここに存在するのである。
拝殿正面
拝殿前を横切る参道によって、社前がせまいように感じられるが、それは見かけのせまさであって、このように広く見ることができるのである。江戸時代末までこの拝殿前で年中の祭典が庭上祭として行われてきた。
拝殿前に二本並ぶ大竹のコモ包みは、3月9日祭頭祭に用いられる大豊竹である。
石ノ間
幣殿と本殿をつなぐ石ノ間は、地面と同じ高さに石を敷きつめ、殿内で庭上の拝が行えるよう造られている。石ノ間の名称を残して板敷の社殿が多いが、当宮の石ノ間は正式なものとして知られる。
本殿階部分
石ノ間より本殿へ登る階段部分を外側より見る。この本殿向拝を支える黒漆塗の柱と石ノ間の朱柱が一本化したのが権現造となる。
本殿
本殿の東側面と背後の御神木。千木は外そぎ、鰹木は三本。柱の上部より上は彩色され下部は黒漆塗りとなる。
御神木
本殿背後にそびえる御神木は杉の巨木で樹高43m、樹齢1200年と推定される。
根廻り12mは畳八畳敷の広さで、その大きさが想像できると思う。幹には多くの宿り木をつけ、葉末は長く神代杉の様相をみせる。
仮殿
仮殿は本宮の修造の折に仮の社殿となる建物で、平常は用いない。この仮殿は元和4年に造られ、同5年の造営に際し使用された。
仮殿とはいっても恒久的な権殿型式で、秀れた建造物である。現在、祓戸四柱の幣を大床に立てて前を祓所としている。神職は祓所より本宮へ参進の姿である。
奥参道
幽遂な樹叢の中を、直線に延びる奥参道は四季折々に美たしいが、梅雨に煙る杉木立は神森の深さを特に強く感じさせる。奥宮より帰る巫女の傘もしっとりと濡れて・・・・奥宮全景
本宮より東へ約四〇〇m奥に奥宮が鎮まり坐す。御祭神は武甕槌大神荒御魂にましまして、古来詣でるには物音を避け、柏手も忍び手に打つのを例とする。本宮と同様社殿は流造で北面する。ただし、千木、鰹木は付さない。慶長十年徳川家康公奉納の元本宮社殿を元和の造営に際し引き遷したものである。
御手洗池
みそぎ
御手洗池は古くより潔斎の池として著名であり、今も折にふれて神職のみそぎが行われている。
夏越祓
旧6月晦日には御手洗池畔で古例により夏越祓が行われる。
正月風景
数十万人の初詣を迎える鹿島神宮は、庭上に大篝を焚き、神酒を奨めて初春を祝う。
家内安全、商売繁昌、学業成就、企業隆昌、武道上達その他の祈願を籠める人々。一年の幸福を祈る人々などで社頭は賑やかである。
直刀(拵部分)
国宝指定の直刀拵の部分である。「黒漆平文大刀拵」という。鞘柄とも黒漆地に平文線で草原を駆ける唐獅子が彫られている。金具は金銅に瑞雲文が毛彫され、唐草文に透彫されている。上右より、柄、帯取、下は鐺(こじり)の各部分である。
直刀
直刀は2.5mに及ぶ長大な鉄剣で、製作年代は奈良時代。拵は平安時代の作と推定される。全長2.71m。この雄大な長剣は武甕槌神の御神刀である師霊剣の名称で呼ばれ、二代目の神剣として奉安されてきた。手前より直刀、拵、刀唐櫃の順。
祭頭祭当日
鳥居前
9月9日。晴姿を大衆の前に披露する。
楼門内
再び囃すのは二十余年後、棒を握る手に思わず力が入る。
例大祭
天皇陛下の御幣帛を献じ、神社本庁の献幣使を迎えて9月1日に執行される例大祭は古代より絶えたことがない。古くは4月、2月に行われた記録があり中世以降は7月に奉仕したが、明治初期に太陽暦の採用で9月(陰暦7月)と定められた。
御船祭
国道も狭らに進む神幸の列。12年毎の午年に奉仕する大祭典「式年大祭御船祭」は二千名の供奉員が五十隻の船団に乗って水郷を渡御する。
船列
初秋の水郷をゆく曳船は大漁旗をはためかせて、一路佐原市新島河岸へと進む。
御迎祭
潮来の対岸新島の加藤州斎杭に出迎えた香取神宮神職により祭典が奉仕され、前回の御船祭の年に生れた巫女四名が浦安の舞を舞う。 鹿島神宮の由緒
東路の果ての鹿島
鹿島神宮の創立は遠い昔のことであって、鹿島の地に鎮座されている。どうして、この鹿島の地が鎮座地に選ばれたのであろうか。そのためには、古代の鹿島はどのような土地であったのかを知る必要がある。
幸いにして千三百年ほど前に書かれた「常陸国風土記」には、鹿島を含めての常陸国(現在の茨城県の大部分)の地形や産物、伝承、そして鹿島神宮について書かれている。
これによって鹿島や北浦、霞ヶ浦辺の地形を見ると、現在とは大いに異っている。鹿島地方の南は、鹿島台地の突端の国末と言う部落で陸地は終り、その先は海であり、沖洲が点々と在り、西の北浦は「鹿島の流海」と呼ばれる海で、今の低地帯の陸地は海の底であった。霞ヶ浦も「信太の流海」と呼ばれる海で、遠く筑波の近くまでも海水は及んでいた。つまり鹿島は霞ヶ浦、北浦と言う大きな湾の入口にあったのである。
一方、古代の交通関係については、陸地の道路は開発されず、海と海岸線、川を交通路として利用することが多く、辺境の地に於ては特にこの傾向が強かった。
以上のことから、今の北浦、霞ヶ浦は、大昔は大きな湾であって、交通、経済軍事上、最も価値があり、その入口を扼す鹿島の地は、古代に於ては重要な地点であったことが分る。それであるから、東北の未開拓地に臨むこの東の要衝の鹿島の地に鹿島の大神が本拠を定められ、鹿島氏族が鹿島の宮を建て、西の要衝の香取には香取の宮が建てられたのである。
鹿島の宮にお祀りする神
鹿島神宮の御祭神は、武甕槌大神(タケミカヅチノオオカミ)である。
また健御賀豆智大神(タケミカヅチノオオカミ)、建布都大神(タケフツノオオカミ)、豊布都大神(トヨフツノオオカミ)、布都大神(フツノオオカミ)との別名を以て呼ばれ、更に、鹿島に坐す大神と言うところから鹿島天大神(カシマアメノオオカミ)、鹿島の大神と御名をたたえまつることもある。武嚢槌の武は勇猛の意味、甕(ミ力)はきびしい意味であり、槌(ツチ)は敬称である。また布都(フツ)は、物をフツと斬る勢いを言うが、このようなことから御祭神が如何に勇武な神であるかが、御神名からも推察することが出来る。
その御事蹟については古事記に書かれている如く、既にこの国を治められていた出雲の大国主命一族に対し、伊那佐の小浜に於て、天孫に国譲りの交渉をなされて見事にその大任を果された、我国建国の大功神である。
また神武御東征の際、皇軍が熊野路に於て苦しんだ際に、高倉下命(タカクラジノミコト)に夢告をもって、大神が国土平定に用いられた霊剣、フツノミタマノツルギを授けられ、皇軍はこの剣の霊威によって奮起したことが古事記に書かれている。
大神はこの鹿島の地に本拠を定め、東北の蝦夷の順憮と開拓につとめられたが其の後、大和朝廷が蝦夷の住む東北経略に二度にわたり約百年間を費した際に常陸の地はこれが労役と食糧調達にあたり、霞ヶ浦、北浦の湾は一大基地となり、鹿島の大神に加護を祈って出発した兵士たちは、或いは阿部比羅夫の指揮により船百八十隻の船団を組み、或いは陸路草を踏み分けて陸奥に向った。三代実録に陸奥の国に、鹿島神宮の御分社が三十八社あり、と書かれてあるが、これは約千百年の昔の書である。
大和朝廷の勢力範囲の接点から東北地方に住む東夷と呼ばれた蝦夷は、かつての支那(中国)に於ける南蛮北狄とか、東夷西戎と同じような脅威を大和朝廷は感じていたものであろうが、これに対する経略順撫軍は、上陸した要所くに鹿島の大神を祭り、その数が三十八社に及んだのである。
鹿島の大神の「武甕槌大神」と言う御名によって現わされる、勇武、決断力の御神徳は、前記のような古代の国譲り、霊剣、蝦夷経略などによって輝かしく現わされているが、もともと神々の御神徳は一二に止らずして、これを仰ぐ人々やその時代によって、さまざまに現われるものである。
鹿島の大神の、勇武、決断力はもとより、神功皇后が安産の御腹帯を奉られ、また藤原時代に歴代の皇后が珠玉を奉って都より安産祈願の奉幣使が鹿島へ下られたことなどから、千年以上も前に安産の信仰があり、大神の東北地方の開拓と殖産興業に力を致されたことから農業、商業、工業、漁業の信仰が生れ、奈良朝に東国の防人などが、筑紫(九州)までの道筋の平安を祈ったことから交通安全の信仰も古くから続いている。
神功皇后の奉られた御腹帯は「常陸帯(ヒクチオビ)」と呼ばれ、今は御本殿の中に納められ、千年程前、皇后の安産祈願のため献納になられた水晶の玉二十四顆は、現在神宮の宝物館に陳列されていて、奥深い鹿島信仰の証左として、今も尚古代の光を放っている。 創祀及び造営の沿革
当神宮の創祀は遠く神武天皇御即位の年と伝えられている。
鹿島の御祭神、武甕槌大神は、経津主大神(フツヌシノオオカミ・香取の御祭神)と共に中国地方から東国に進まれ、この鹿島の地を本拠地に定められて、北方の蝦夷を順撫されたが、大神の隠りまして後、その神子、神孫が私に奉斎していたが、神武天皇が神恩感謝の思召を持たれて、御勅祭になられたのであろう。
であるから、当神宮は国家的、民族的に重大な関係を持ち、殊に我が国の大和朝廷時代の東北展開に非常にかかわりの深い神宮である。 二千年以上前の崇神天皇の御代には、太刀十振を始め鉾、弓、鏡を始め二十七口の幣帛が当神宮に奉納されたと風土記に載っており、続いて天智天皇の御代には、御船三隻を造って奉納されたが、これが後世の御船祭につながっている。
奈良朝の頃から神社に神位を授けたり、勲等も授けられるようになったが、鹿島の御祭神に対しては、承和3年(836)には従二位勲一等を授けられ、同6年に正二位を授けられ、のち正一位に進んだが、この頃は都のあった畿内の神社が殊遇を受けた中で、東国辺境の地にあった当神宮が、このような取扱いを受けたと言うことは、朝廷の御崇敬が特に篤かったことが知られるのである。
右の神階は神社の御祭神につくものであったが、一方、神社そのものにつく、社格があった。社格制度化のはじめは、崇神天皇の御代に定められた、天社、国社であるが、この制度が集大成されたのは延喜式(九二七)で、式内社と式外社案上の幣の社と案下の幣の社、が定まり、明治4年には官国幣社の制が定められた。
鹿島神宮をこれらの制度からみれば、建国創業に大功のあった神を祭る「天社」であり、延喜の式に載る式内社、案上の幣に預る官幣の大社であり、千年以上前に書かれた国史にある「國史現在社」で、更に平安から鎌倉期に現われた一の宮二の宮制の中の、常陸国の一の宮である。また明治の官国幣社の制に於ては官幣大社であって、古代から何れの時代の社格によっても、鹿島神宮はその時代の最高の社格に列せられている。
更に、終戦後社格は廃されたが、当神宮は、例祭に天皇陛下の御使の勅使の参向を仰ぎ、陛下より御幣帛の奉奠がある「勅使参向の社」である。勅使参向の社即ち勅祭社は全国で十数社を数えるが、この中でも伊勢の神宮、鹿島、香取の両神宮、外五社は、1月1日、宮中での四方拝には、陛下は神嘉殿の庭上に於て、これらの神社を遙拝あそばされるが、まことに畏い極みである。
このように国からの崇敬の厚かった鹿島神宮であったが、大神を祀る社殿は、どのようなもの、どのような規模で、どのように変っていったのであろうか。
神を祭るのに、神聖な森の木に神の降臨を仰ぎ、或いは、神聖な土地の一画を周囲を石で囲んで、その中に神の降臨を仰ぐ、神籬、磐境の時期、即ち、無神殿時代があった。その後、天地根元造とか、素朴な本殿の出現を見て、神霊の常におわします所とされたが、鹿島神宮に於ても当然このような経過をたどって社殿の出現を見たことと思われる。
神社の社殿は通常人里から少し離れた常磐木の森の中につくられ、小高い所があれば、そこにつくられる。神聖で、静かで、朝日が森に射し込み、夕日が照り映える甘し所、良い所が選ばれる。
鹿島神宮の造営については、常陸風土記に、「天智天皇の御代(665年頃〕初めて使人を遣わして神の宮を造る。これより以来修理絶やさず」とあり、また日本後紀には嵯峨天皇の御代に、鹿島、香取、住吉の三社は二十年毎に全部つくり替えることが書かれている。
これらを見ると当神宮では、今から1310数年前に始めて国費を以て造営され、1070年ほど前から二十年毎に社殿が造り替えられる、式年造替の制が確立されていたことが分る。当時の社殿は割合い簡素な建物であったろうし、大体が建物の耐久年数を見て、造り替える年期を二十年としたものと思われる。当時国費を以て社殿を造り替えたのは、この鹿島、香取、住吉の外には伊勢の神宮のみであったことは、全国神社の中でも如何にこの四社が国家崇敬の的であったかそして、都から見れば遠く辺境の地にある鹿島、香取の両神宮が、これに浴したことは殊更にその感を深くするものである。
またこれら造営に要する用材については、三代実録の貞観8年(866)の記に「鹿島神宮の御造営用材は那珂郡にあるが、遠くて道も悪いので伏見と言う部落の木を用いる」と書かれてあって、神宮の神山の木を使わず他より充てたことが分る。このように鹿島神宮の造営は二十年毎に式年造替されたが、時代によっては国衙や幕府が造営の任に当った。
しかし、この式年造替も、戦国争乱の世にはどうしても滞りがちとなり、五十年、六十年と年期が延びた時代もあったのは止むを得ないことである。乱世の代鹿島では大永年間に、境内にあった御手洗涼泉寺の良海上人が広く勧進して浄財を集め、社殿を造営したこともあったが、この頃は伊勢の神宮も同様で、慶光院尼の勧進によって宮居を建てたことが書かれている。
やがて織豊時代を経て、関ヶ原の役を契期として徳川氏が天下人となるが、この関ヶ原に於て大勝するや、慶長10年、家康は鹿島神宮に社殿を奉建した。それより十四年後、二代将軍秀忠の神宮造営の下知が下され、前記家康奉建の社殿は奥宮へ移されて、奥宮の社殿となり、元の本社の位置に改めて秀忠奉建の社殿が造営された。
この社殿は、前の本殿のみの社殿と違って、本殿、石の間、幣殿、拝殿を連結する壮麗結構な社殿である。これと同時に、社殿造替の際、御神体を一時奉安する仮殿も造替されたが、現在、この秀忠奉献の社殿(本殿外三棟)、仮殿、家康奉献の奥宮社殿は、徳川頼房奉献の楼門と共に、国の重要文化財になっている。
かくして、伊勢と同じく千数百年間、二十年に一度の社殿造替の制は、二代将軍奉献の社殿の完成と共に終止符を打ったが、その社殿は歳月これに森厳さを加えて現在に至っている。
歴史の中の鹿島神宮
鹿島神郡
鹿島郡、いや「鹿島神郡」が成立したのは、大化五年(六四九)である。 「神郡」とは、その郡の大方が神社の神領であることを意味し、鹿島神郡は、そこに鎮座する鹿島神宮の神領であると見られていた。養老7年(723)の太政官符によれば、全国には八神郡があったが、当初に神郡が置かれたのは、延喜式で神宮号を持っている伊勢、鹿島、香取のみであった。
鹿島神郡について述べている風土記の香島(鹿島)神郡の項では、鹿島神宮の記述にその大半を費しており、古代の鹿島神宮の存在が如何に大きなものであったかが知られる。
建郡より百余年の後の、大和朝廷の約百年に亘る蝦夷攻略や、律令体制による租税や労役、徴兵などの負担に堪えかねた人々は、争って鹿島神宮の神賎となって、これらの負担から脱れることを望み、神宮の田畑を耕作し、時には社殿の修理、清掃などに従事する神賎の数も千人を超えた時もあり、朝廷がこれの多きに苦慮したこともあった。
皇威の蝦夷地に及ぶにつれて、遠く東北の地の要所には鹿島神宮の分社が三十八社も鎮祭され、その御神威は益々昂揚されたのである。
中臣藤原氏と鹿島神宮
古く神祇祭祀をつかさどった中臣氏の中で、中臣御食子は鹿島の宮に仕えていたと言われ、この御食子の子が鎌足である。
大化の改新などで功績のあった中臣鎌足は、その功によって天智天皇より藤原姓を賜わり、その子孫は皇室の外戚として堂上に勢威を張り、世に言う藤原時代を築いた。この藤原氏が、自分の祖神、天児屋根命が祭られている枚岡の社を氏神とせずに、武甕槌神(タケミカヅチノカミ)を祀る鹿島神宮を、氏族の氏神として崇めたことは、特記すべきことである。
そして、藤原氏は代々厚く鹿島神宮を崇敬して、当時の都であった奈良に、氏神である鹿島の大神を勧請し、併せて香取の大神と、中臣氏の祖神の天児屋根命同比売神を奉斎して、その首座に鹿島の大神を据え、春日神社を創立した。これによって、鹿島社崇敬に加えて、更にこの春日信仰が鹿島信仰につらなり、仁和三年(八八七)頃から春日社の祭日である二月上申日に、鹿島神宮へ奉幣する鹿島使の発遣を見るようになり、藤原氏と鹿島神宮との関係は、いよいよ緊密度を加えた。
鹿島使は、藤原氏の氏の長者によって氏人から選ばれ、内印の官符をたまわり鹿島使の一行は馬や船を利用して、遠く畿内から途中の道路の険しさや、風波にもまれ、東国の鹿島へ下向したが、その往復日数は四十日程度を要したようである。
一方、鹿島神宮の宮司は、古くから代々、鹿島に住む中臣氏の鹿島連が世襲していたが、延暦16年(797)には中臣氏の一族である在京の左大臣大中臣清麿の子の清持が、鹿島神宮の宮司に補せられ、その後は、鹿島の中臣氏と京から来た大中臣氏が交互に、或いは父子相継ぎ、或いは長期、短期に在職し、建長以後は鹿島にもともと住んでいた中臣鹿島連が宮司の職を世襲したが、このようなことからも、如何に神宮と中臣藤原氏とのつながりが深かったかを見ることが出来る。
藤原鎌足の出生の地と伝えられる鹿島の下生の地には、鎌足を祀る鎌足神社が建てられている。
鎌倉幕府と鹿島神宮
平安時代には、武者とか兵と呼ばれて貴族を守っていた武士たちが、中央政府の民政が有名無実化するにつれて、これら武士たちの姿が大きく浮び上って来た。やがて、武士たちは貴族の足もとをつき崩す対抗者となり、先ず平氏が中央に権力を握り、この貴族化していった平氏から源氏の天下となった。武士の一族のむすびつきの、精神的な中心となったのは、一族の氏神であり、また、彼らと関係の深い信仰する神、武神であった。そして、大社の信仰、崇敬を通じて民心を把握し、同時に神の霊験を感じて感恩の気持で土地の寄進などがあった。
鎌倉に幕府を開いた源頼朝は、武神としての鹿島神宮に対して、天下静謐のため社領を寄進し、これらの神領が他より侵されるや、下文によって神領の再確認と、これらの不心得の徒を制した。頼朝は、妻政子が子頼家出生の際に鹿島に奉幣しているが、非常に神異をおそれ畏んだ。
鎌倉幕府の公用日記とも言うべき東鑑に元暦元年正月、鹿島社の禰宜等、使を鎌倉に馳せ「鹿島大神の神霊京都におもむき、木曽義仲及び平家を誅せるを社僧が夢に見て、更にその翌朝、社殿大いに鳴動し、黒雲神殿を覆い、鹿、鶏庭上に群集し云々」とのことを言上するや、頼朝はこれを聞き、忽ち庭に降り、鹿島の方を遙拝し、信仰の誠をさゝげらる。
と載っており、建久2年(1191)にも兆異を注進されるや、鹿島を拝し、神馬と鞍を奉納されたが、この鞍は現在国の重要文化財として、神宮の宝物館に展示されている。
幕府はその後も、将軍頼経の病気平癒祈願、諸国飢饉のため天下泰平を祈る奉幣使の参向などがあったが、弘安5年(1282)には蒙古降伏祈願などによって社領の寄進もあった。この頃から、南北朝にかけて、神宮境内にあった護摩堂は、鹿島神宮へ国家安泰を祈願する武将たちの窓口となったため、やがて護摩堂の名も護国院と呼ばれるようになった。
こうして、公家藤原氏と密着していた鹿島神宮も、鎌倉期に入ると、藤原氏の氏の長者の実権が次第にうすれ、これに代る源頼朝及び鎌倉幕府の鹿島社崇敬の中に、そのつながりを深めたが、一方に於て幕府は、大掾支族の地頭、鹿島政幹を神領内の非違を検断する総追捕使に補任したことは、鹿島神宮の社内に武家の血を注入したと言う点で、注目すべきことであった。
延喜の式によって、諸国の官社に朝廷より毎年奉幣使を遣わされていたが、長寛以降は国司代より使を出しこれに代ることになり、鹿島の七月の大祭には前記の鹿島氏を始め、平氏一門の七郡七家の地頭が大使役となって、七年に一度ずつ巡年に大使役を奉仕した。この大使役は、文書に出ているものでは建長元年(1249)からで、総神官と在庁と列座の大祭が続けられてきたが、天正18年(1590)に大掾清幹が亡び、19年には、鹿島、行方の諸族も佐竹の軍の攻撃の前に亡んで大使役は遂になくなった。
戦国大名と鹿島神宮
南北朝の争乱以来、常陸国内に最も力を充実させて来た佐竹氏は、南方三十三館と言われた鹿島、行方の平氏大掾支族に対して、天正19年に或は謀殺し、或はその城を攻め亡ぼし、鹿島地方は神宮の神領を除いて佐竹一門の東義久の支配下に入るようになった。
これより前の天正18年、佐竹義宣は豊臣秀吉から領国の支配権を認められるや、鹿島神宮に対して社領安堵の書状を寄せたが、慶長元年、東義久はその子義堅に命じ宮中の宿屋を改定させ町割りをし、また、神官、社僧の居地を神宮の近くに移させた。
豊臣秀吉によって天下は漸く統一される気運となってきた。秀吉の小田原征伐には、鹿島神宮では使者をして祈祷の巻数を秀吉に献じたが、秀吉はこれを喜び神宮の社地に於て諸人の乱妨狼籍を禁ずる旨の朱印状を下した。この時、小田原征伐の先鋒を勤めた東国大名の雄たる徳川家康にも祈祷巻数を献じたことは注目すべく、後の徳川氏の鹿島崇敬に関する最初の一石を、具眼の社人が盤面に布石したとも考えられるほどである。
戦国時代の鹿島神宮の社人たちは、特定の勢力に傾くことなく、神勤専一に、少くとも外部からみれば戦乱の世を超然として、詣で来る数多の武将や庶民の願いを祈り続けて来たかにさえ見えるが、しかし、神宮の社人たちは肝心なそれぞれの時期に於ては、社内では衆知をあつめて対策の統一をはかり、なお衆議決せざるに至っては、神前にひれ伏して神慮をうかがったに違いないと思う。
慶長3年、秀吉の死後、鹿島神宮は急速に徳川氏との関係が密接になって来る。
徳川幕府と鹿島神宮
秀吉の死後、慶長5年7月、西国に兵起り、徳川家康が、将に出陣の途に就かんとした時、従軍僧の増上寺の住持は、西征のため神仏に加護を祈られんことを家康に進言した。よって家康は、武神たる鹿島神宮と浅草の浅草寺にそれぞれ一七日の祈祷をするよう使者を出したが、この戦が関ヶ原の戦である。
神宮では早速戦勝祈願をし、その神札を社人に持たせて9月14日関ヶ原附近まで行ったが、敵味方合戦中のため、家康の陣中に入ることが出来ず、翌15日敵が大敗するに及んでその夜、藤川の営中に参じて家康に献じたが、家康は大いに喜んでこれを受け、帰国後も重ねて天下安全の祈祷をするよう使者に命じた。
これにより二年後の慶長7年に、家康は、石田三成の文禄の縄入によって削られた神宮の神領五百石に、千五百石を新たに加えて、二千石として神宮に朱印状を下された。そして、この鹿島神宮の神領の朱印地二千石は、幕末まで変ることがなかった。
また別記造営の項にある如く、家康は関ヶ原の役の大勝に神恩を感謝して社殿を奉建し、その子の二代将軍秀忠も更に壮麗な社殿を鹿島神宮に奉建し、代々の将軍は祖宗の心を継いで神宮を尊崇した。
徳川水戸藩と鹿島神宮
水戸を領していた佐竹氏が秋田へ転封され、慶長十四年徳川頼房が代って水戸城主となったが、この水戸藩は徳川御三家の一で、表高三十五万石の名門である。初代頼房は神道を重んじ、特に鹿島神宮に対する崇敬は格別であったが、たまたま三代将軍家光が病気になった際、頼房は使を鹿島に出して将軍の病気平癒の祈願を依頼した。祈祷の甲斐あって将軍の病気も快癒したが、頼房は先に神宮へ遣した使者から神宮の楼門が大破している由を聞き、奉賽(御礼)のため新たに楼門、廻廊などを奉建した。
今に残る日本の三大楼門の一と言われるものがそれである。
頼房は、慶安元年に鹿島神宮へ参拝し、更に、将軍家より賜わった白馬も奉納したが、水戸藩二代光圀も敬神の遺訓を継ぎ、宝永4年には藩主綱條、更に天保5年には藩主斉昭及び母夫人の参拝を始め、公子、姫君などの社参があった。このように水戸藩主一族の参拝や、相互の交流の中で、鹿島大宮司家と水戸藩士との縁組みも行なわれ、また、藩主たちの扶桑拾葉集や大日本史などの奉納もあり鹿島の社人を主として、地方文化の一中心地をなしていた鹿島への文化の交流の一端を含めたものの現れの一と見ることも出来よう。安政2年に斉昭は、神宮の摂社の沼尾社に自筆の額を奉納したり、同四年には鹿島神宮の御分霊を水戸弘道館へ勧請して、鹿島神社を創立した。
江戸初期より幕末までの二百数十年間、水戸藩累代の藩主の鹿島神宮への崇敬心が、鹿島の社人と藩士たちとの間に学術文化の交流となり、やがて思想の交流ともなって、これが延宝五年(一六七七)鹿島の大宮司則直が、神宮寺、護国院を境外へ移転した神仏分離の断行や、幕末の争乱期に大宮司則文が尊皇擾夷をかかげる天狗党に同調し、これに連座して遠く八丈島に流鏑されるなどの背景となったものと考えられる。
現代と鹿島神宮
明治以後、国家神道と言う温床の中に育って来た神社は、昭和20年の終戦を機に、政教分離と信教の自由をかかげた神道指令の洗礼を受けて、他動的に再出発をした。
占領軍の発した神道指令を、神道に対する不当な弾圧であると一概に非難するのは難しいが、そこには神道が栄えてもよいと言う考えはなかったことは事実である。しかし、神社は祭典の復興、戦災神社の再建、参拝者の増加など、意外なほど潜在的な力をもっていた。
鹿島の大神は「武甕槌」の名の示す如く、勇武、決断力の御神徳と、和魂による平和、仁慈の徳と、荒魂による積極進取の神霊の作用を持っていられる。その御事蹟から見ても、出雲の浜に於ける大国主命との国譲りの段は、武力ではなくして話し合いによって成立したものであり、また熊野路に於て心を浄め身を正しぐした高倉下命に夢告を以て下されたフツノミツルギは、これによって敵を斬り伏せた剣ではなくて平国の剣である。東北の開拓もまた、武力では為し得なかった大業である。
鹿島の大神を氏神とする氏子の人達や、年と共に増加する崇敬者たちが、身を正し、まこと心を以て鹿島の社頭に祈るとき、大神は限りなき恩頼を垂れさせられ、そしてこれらの人々の心の中に鹿島信仰の火は燃え続けて絶えることはない。
鹿島神宮の祭
はじめに
古代の人間は、自分たちの命と生活を守るについては、今の我々とは比較にならぬほど無力であった。
大地の火山活動や、地震、落雷、洪水などの自然現象も、人々の生命と生活の圧迫となり、また定住性のない、飢えにおびえた狩猟生活から、農耕技術を覚えて一定の土地に定着し、一年中の食料の供給にも安定を得た中にも、天候不順や鳥獣、虫などの被害による凶作が、かれらの明日への生活をおびやかした。
こうした中で、古代人は自分にない能力を持ったものに驚きと恐れを感じて、それらをすべてカミと見たが、やがて文化が芽生え始めた中に、人間的な「神明」が現われ、更に祖神の出現を見るようになり、祭も逐次、こうした神々に対して色々な目的を以て行なわれて、人々の生活の中にその密度を濃くしていった。
そして、一族全員が祭の場に集り、その氏族の長が最高の祀職となって祭が行なわれたが、このための祭場の準備や、神の社の内外を掃き清めることなども神に対する奉仕として、広い意味ではこれらもまた、祭の一部と言うことが出来る。
祭は神に対して「まこと」を実行して、神の御守護を戴だくものであって、ひたすらなものである。
ひたすらなものであるが故に、自然の中に生き続けた古代の人たちから現代の人たちに至るまで、参列者は身も心も清浄にするため、祭の前には静座、調息し水を浴び、或いは手を洗い、口をそそぎ祭を迎え、奉仕した。
鹿島の古い祭
鹿島神宮は、社伝によれば神武天皇の御勅祭と伝えられているが、その当時の祭が、何月何日に、どのように行なわれたかは分らない。しかし、農耕民族であった我々の祖先が、古くから、その年の豊作を祈る春祭や、秋の収穫物を供えて神に感謝の誠をささげた秋祭などが行なわれて来たに違いない。
今から千二百数十年前に書かれた「常陸国風土記」に、鹿島神宮の祭について載っているが
又、年ごとの四月十日に、祭を設けて酒をそそぐ。卜氏のやから、男女集会ひ、日を積み、夜を重ねて、飲楽ぎ歌ひ舞ふ、云々
とあって、鹿島神宮の恒例定式の祭の内、四月の祭が古くから行なわれていたことが分る。
右の中で「日を積み、夜を重ねて、飲楽ぎ歌ひ舞ふ」とあるが、これは貞観8年(866)の太政官符に「絃歌酔舞して神霊を悦ばしめんとす」とある如く、神を祭るに絃歌酔舞するのは単なる余興ではなくして、もっと本質的に神と人との交渉を強めて、神の降臨に対する喜びが人々の祈りとなり、この祈りを神に通ずるための霊妙な意味を持つものである。
この風土記に述べられている祭以外に、毎年、日を定めた恒例の祭が行なわれていたことは推察出来るが、その後、延喜式(927)によって鹿島神宮は大社に列せられ、名神祭に預り、6月・12月の月次祭、新嘗祭には神祇官より幣帛がたてまつられることに定められた。
これらは公式の祭であるが、この外、私祭的には勿論、鹿島氏族の祭や、農耕に関する祭などが数多くあったことであろう。
奈良時代より平安期にかけて、中臣氏、のちの藤原氏が朝廷に勢威を張るにつれて、藤原氏は鹿島神宮を氏神として崇敬し、鹿島使を京より発遣するようになったが、こうしたことから朝廷、公家との関係も深くなり、これによって朝延で行なわれていた節会などが鹿島において祭典化されたものが見られるようになった。
司召祭、白馬祭、踏歌祭、相撲祭、重陽節会などであるが、この中でも白馬祭は、天福元年(1233)や、乾元2年(1303)の神宮文書に出て来て、白馬祭の古い由来を伝えている。
7月10日、11日に行なわれた祭は年中の大祭で、これには常陸大掾一門の七家の地頭が年番制によって鹿島の大祭使役を勤めて参向したが、これが始めて文書に出て来たのは建長元年(1249)で、総神官と在庁と列座の大祭が続けられたが、天正18年(1590)大掾支族が佐竹に亡ぼされ、大祭使役は止んだが、それ以後も7月の大祭は続けて執行された。
現荘も年中の祭で最も盛大な祭頭祭も、古くから行なわれていたものと思われるが、この祭は鹿島長暦に正平15年(1360)3月、姻田遠江守時幹、畠山道誓に従って官軍を河内に攻む。
金剛山の乾なる津々山の営中にあり。四月祭の頭役に当るを以て、道誓に請ふて帰国す。
とあって、一軍の将が遠く軍旅にあっても、鹿島神宮の祭の頭役に当っていたので、あえて囲みを解いて帰国し、神宮の祭に奉仕した事実は、如何にこの祭の奉仕が重大であり、また一面、当時の武将たちが鹿島神宮に対して、如何に崇敬心が厚かったかを知ることが出来る。
このように鹿島神宮の中世以前の祭は、恒例、臨時の祭が数多く行なわれてきたことは確かであって、古書、神宮文書に出てきた祭は、恒例の祭としては4月の祭、6月・12月の月次の祭、1月7日夜の白馬祭、7月の大祭、4月(江戸時代は2月、現在は3月9日)の祭頭祭、新嘗祭などであるが、鎌倉期に書かれたと思われる「社例伝記」には、この外に神宮の末社十社の春秋の祭、沼尾、坂戸、息栖の宮の年中四度の祭が出てくる。
古代から中世までの鹿島神宮の祭については、始め鹿島氏族だけでの祭が、建国の大功神として、また大和朝廷の蝦夷対策、順撫の際の鹿島の大神の御威徳による朝廷の御崇敬、公家中臣藤原氏とのつながりから、延喜式以降は中央の管理も加わり、更に建長以後は武家の神役奉仕や、神宮の内に武家の要素の注入などもあったが、鹿島神宮の祭の本質は変ることなく、乱世を乗り越えて現在に引継がれている。
江戸時代の祭
江戸時代になると当神宮、及び関係社家などの諸記録によって、年中祭事の内容が俄然はっきりして来る。この時代には年間九十数度の祭が行なわれたが、この中でも元旦祭が大祭として、一ヵ年中の大祭の模範として丁重盛大に執行された。
上代、日本間有の神道を以て行なわれた祭も、外来思想の流入によって仏教、陰陽道などの影響を受け、祭の中にも逐次その色彩を濃くしていった。即ち、仏教渡来後、鹿島神宮に於ては早くも天平勝宝元年(七四九)に神宮寺が建てられ鎌倉期にはこれが神宮境内に移建され、神宮の周辺には五ヶ寺を始め多数の寺が建ち、これらの寺は神宮より配当を受け、江戸時代は前代に引続き社僧が神前に読経するなど、神仏習合によって神仏混淆の祭が行なわれた。
特に大祭である祭頭祭に於ては、明年の当番部落をト定する行事は神宮寺で執行され、従来地頭の勤めていた祭の顔役も江戸時代には寺僧が勤めるようになり新発意と仏語で呼ばれる両部落の隊長に従って神事を勤める左方、右方の部隊は神宮に参拝して後、神宮寺へ詣でた。
その他、常陸帯神事などにも仏教色が強く入り、司召祭などにも社僧が神職と共に列立し、また神楽所に於ても大般若経を読経するようになった。しかし、延宝五年(一六七六)に大宮司の強い意志によって、神宮寺と護国院が境外に移されて以来、神宮寺を始め諸寺は次第に衰微し、幕末争乱の期に殆んどが廃寺となった。
一方、陰陽道は平安朝から鎌倉以後民間へ流布し、大衆の信仰に食い入ったが国家にあっても天変地異などの生じた時は陰陽寮に占わせ、神社へ奉幣使を立てた。
古来朝廷と関係の深かった鹿島神宮では、こうしたことから陰陽道と習合した祭が見られる。即ち、1月4日の祭は、始め「御占祭」と呼ばれ、江戸末期に・「歳山祭」となったが、この祭には太占神を招神し、アメノハハカギの枝で亀の甲を焼き、その状態から、その年の吉凶を占って、これを朝廷へ上奏したのである。
また3月21日から22日朝にかけて行なわれた北星祭は、陰陽道祭の中の北極祭から来たものと思われる。この祭には多くの燈をともし「天地も輝くばかりに」と形容されたように、一万燈祭礼とも言われ、拝殿に机を構えて北極星を祀る祭であった。
この外に追儺祭もあったが、これも元は陰陽道からのものである。
明治以後の祭
明治元年の神仏判然令によって、全国神社の社僧は還俗させられ、権現などの仏語による神号も廃され、仏像を神体とすることが禁ぜられ、更に、仏像、仏具は総べて神前、境内から撤去されて、神仏は完全に分離された。
鹿島神宮に於ても、これによって、社僧は還俗し、本殿の御内陣から法華経や仏像、仏具を取出して、楼門の木像と共に焼き捨てられたが、明治2年には神祇省より役人が来て、これを検分した。
こうしたことから、神宮の祭の面でも仏教色の濃かった大旋度が廃止され、祭頭祭でも僧侶を除いて執行され、従来この祭の中で行なってきた差符も神宮の権殿で執行されるなど、祭からも仏教色は完全に除かれたが、この結果、神仏混淆によってむしろ仏教の強い影響下に置かれていた神社と祭が、独立の祭場として本来の祭として復古、確立されたものと見られる。
右の外に鹿島神宮に於ては、明治以後、庭上の祭が殿内の祭に変ったことは、祭の大きい変革と言うことが出来よう。
鹿島神宮では、伊勢の神宮と伺じように式年造替の歴史の中で、本殿は古来二十年毎に造り替えられていたが、この間、臨時の施設として雨儀用の拝殿らしきものは建てられたこともあるだろうが、正式の拝殿は無かった。徳川秀忠奉献の社殿(現在の本殿、石の間、幣殿、拝殿)が建ってからも、伊勢と同じように、宮司以下祭員は神から遠ざかった場所、即ち社殿の前の庭上に着座して祭を執り行なって来たのである。
宮司が庭上で拝礼していたのが、社殿に進入して拝をするようにかったのは、明治3年以降である。
その後、明治4年に鹿島神宮は官幣大社に列せられ、官祭を仰せつけられたがこのために祭典は全国的に統一され、画一的となって、祭典には神職は拝殿に着座するようになった。同時に神宮では、古くから行なわれていた特殊な祭典、神事が数多く姿を消していった。
昭和20年の終戦を境として神社と国家との関係は切り離され、全国神社を包括する神社本庁が設立されてから、鹿島神宮も神社本庁の「神社祭祀規程」と「神社祭式」によって祭が行なわれていて、別項の年中行事に示された通りである。
その中で、例祭は諸祭の内で最も重儀であり、鹿島神宮は全国でも数少い「勅使参向の社」として、9月1日の例祭には勅使の参向があり、天皇陛下の御幣帛が神前に奉られる。
3月9日の祭頭祭は、神宮の祭で最も盛大で、午前十時の出立祭から、一ヵ年間に亘って準備と諸行事をすませた左方、右方の大頭の両部隊は、鎧冑、祭衣姿で棒を持ち、ホラ貝を鳴らし、太鼓を打ち、町中を囃して練り歩き、午後四時頃に境内に繰り込むが、勇壮絢欄として、祭歌と大歓声は神苑も、どよめき渡る神事である。この祭は遠く三韓調伏と五穀豊穣を祈る祭であり、その勇壮な隊列は奈良時代に鹿島の神に武運と道中の安全を祈って鹿島より出発した、常陸国の防人と言われる兵士たちの出立になぞらえたものと言われる。
更に当神宮では、十二年毎の9月2日に式年大祭の「御船祭」が午年に盛大に執行されている。この祭は、大昔、神功皇后三韓征伐の時に、鹿島の大神が皇船を守護されたことから起った祭で、船による御神幸である。昔は、御神輿が神幸される出立の祭を「出陣の祭」、還幸の祭を「凱旋の祭」とも言い、この祭の縁由にふさわしい名がつけられていた。
9月2日朝、馬に乗った甲冑武者たちによって守護される御神輿を中心にして組まれる行列は二千余の人数で、陸上行列は大鳥居前より発進して北浦湖畔の大船津まで行進し、これより大船団を組んで潮来の対岸の新島岸に至り、ここで香取神宮の宮司以下により祭が執行され、帰路につき、大船津から再び陸上行列で還幸されるが、その模様は筆舌につくし得ない豪華勇壮なものである。
鹿島七不思議 要石(カナメ石)
奥宮の南、300mほどの所、玉垣をめぐらした中にある。地上約15cmほど現われ、径三十センチほどの石で「この石は大地の底まで通っており、いくら掘っても掘りきれない」と言われている。古来「御座石(ミマシノ石)」と呼ばれ、何の石か分らず「山の宮」と言われて崇められて来たが、恐らくは古代の社の礎石ではなかったろうか。
御手洗池(ミタラシ池)
奥宮前の坂を下りきった所にあり「この池は大人が入っても、子供が入っても、水は乳の辺までしかない」と言われている。
大昔は、神宮の森の北側は入江になっていて北浦(大昔の鹿島流海〕に続き、舟で詣でた人々は此処で上陸し、手を洗い身を清めてから神宮へ参拝したので、この名が付けられたが、古来神職の潔斎する池である。
末無川(スエナシ川)
神宮の東三キロの地点、高天原の東北に清水が湧き、池をつくり、その水が東の海岸に小川となって流れている。しかし「この川の水の流れる末は、いつの間にか見えなくなってしまう」と言う。
藤の花
三笠山(境内)の藤の花を言い「藤の花が多く咲く年は豊作、少ない年は凶作である」と伝えられている。
鹿島神宮年表の正徳3年(1713)の記に「今年御神前の藤花一枝も開かず、五穀不熟」と書かれている。
海鳴りの音
神宮の東は太平洋である。この海波が磯にくだける音、「海鳴りが上の方(北)に聞える夜は、翌日は晴、下の方(南)に聞えれば翌日は雨」と言われているが、この海鳴りは冬の朝と夜に殊によく聞えるし、この自然の天気予報はよく的中する。
根上り松
神宮の境内、特に高天原の砂地に生える松は「幾度切っても、また芽が出てきて枯れることがない」と云われている。
松の箸(ハシ)
「鹿島の松で作った箸は松ヤニが出ない」と言われている。
これらの言い伝えは鹿島の地に古くから語られていて、ひっきょう鹿島神宮の御神徳や霊験をたたえ崇めたところから出たものであろうが、これに科学的な解釈をつけることは不要のことであり、我々現代人は、おおらかに古代の人々の素朴な伝承を、ほほえましく受けとっていてよろしかろうと思う。

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