鹿島神宮
かしまじんぐう


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【由緒】

鹿島神宮の御祭神「武甕槌大神」は、神代の昔、天照大御神の命を受けて香取神宮の御祭神である経津主大神と共に出雲の国に天降り、大国主命と話し合って国譲りの交渉を成就し、日本の建国に挺身されました。
鹿島神宮御創建の歴史は初代神武天皇の御代にさかのぼります。神武天皇はその御東征の半ばにおいて思わぬ窮地に陥られましたが、武甕槌大神の「布都霊剣」の神威により救われました。この神恩に感謝された天皇は御即位の年、皇紀元年に大神をこの地に勅祭されたと伝えられています。その後、古くは東国遠征の拠点として重要な祭祀が行われ、やがて奈良、平安の頃には国の守護神として篤く信仰されるようになり、また奉幣使が頻繁に派遣されました。さらに、20年に一度社殿を建て替える造営遷宮も行われました。そして中世〜近世になると、源頼朝、徳川家康など武将の尊崇を集め、武神として仰がれるようになります。
現在の社殿は徳川二代将軍の秀忠により、また奥宮は徳川家康、楼門は水戸初代藩主徳川頼房により奉納されたもので、いずれも重要文化財に指定されています。
鹿島神宮の例祭は毎年9月1日に行われますが、うち6年に一度は天皇陛下の御使である勅使が派遣される勅祭となり、さらにそのうち2回に1回、すなわち12年に一度の午年には、水上の一大祭典である御船祭も斎行されます。

公式HP



【文化財】

国宝
直刀・黒漆平文大刀拵(ちょくとう・くろうるしひょうもんたちごしらえ) (附 刀唐櫃)(工芸品) 通称「?霊剣」。昭和30年6月22日指定。
長大な直刀で、柄(つか)・鞘を含めた全長は2.71m、刃長は2.24mを測る。制作年代は定かでないが、刀身は奈良時代から平安時代、拵えは平安時代の作と見られている。現存する伝世品(出土品でない)の日本刀の中では古例の1つであり、また刃長の点では最大の作品とされる。長大な刀身を作るために、途中4か所で刀身を繋ぎ合わせるという極めて珍しい手法を使っていることが判明しており、技術的にも貴重な存在である。外装(柄・鞘)は、黒漆塗りの上に平文(ひょうもん、金銀などの薄板を貼って文様を表す技法)や金銅透かし彫りの金具で装飾を施した古様な技法によるもので、正倉院の「金銀鈿荘唐大刀」の流れを汲むものとされる。
重要文化財(国指定)
本殿、石の間、拝殿、幣殿 4棟(附 棟札2枚)(建造物) - 本殿は明治34年3月27日指定、他3棟は明治44年4月17日指定。
摂社奥宮本殿(附 棟札1枚)(建造物) - 明治34年3月27日指定。
楼門(建造物) - 昭和41年6月11日指定。
仮殿(建造物) - 昭和51年5月20日指定。
梅竹蒔絵鞍(附 四手蒔絵居木一双)(工芸品) 鎌倉時代の作で、蒔絵の和鞍の中で最古のものである。社伝では『吾妻鏡』建久2年(1191年)の記事[原 34]にある源頼朝寄進の軍陣鞍とするが[101]、通常の軍陣鞍とは様式が異なっており、祭事に使用したものと推測されている。昭和34年6月27日指定。
国の史跡
鹿島神宮境内 附 郡家跡 - 指定対象は次の4か所。昭和61年8月4日指定、平成元年・11年・13年・17年・20年に追加指定。 鹿島神宮境内
摂社坂戸神社境内
摂社沼尾神社境内
鹿島郡家跡
選択無形民俗文化財(国選択)
鹿島の祭頭祭 - 昭和51年12月25日選択。
茨城県指定文化財
石造燈籠(茨城県指定文化財)
境内の社叢
(茨城県指定天然記念物)
有形文化財 木造狛犬 2躯(彫刻) 江戸時代初期、元和5年(1619年)の作。寄せ木造り、漆箔で、高さは阿型が77.3cm、吽型が80.3cm。昭和33年7月23日指定。
木造狛犬 2躯(彫刻) 鎌倉時代の作。寄せ木造り、漆箔で、高さは各72cm。昭和40年2月24日指定。
黒漆螺鈿蒔絵台 1基(工芸品) 鎌倉時代末期。昭和33年7月23日指定。
銅印 1顆(工芸品) 平安時代の作で、印文は「申田宅印」。「申田」の意味には「神田」という説と「神璽」という説がある。暦応4(1341年)を初見として、古文書に押印された例が見える。昭和33年7月23日指定。
陶製狛犬 3躯(工芸品) 室町時代の作と見られる。昭和33年7月23日指定。
石造燈籠 1基(工芸品) 江戸時代初期、元和5年(1619年)の作。搭高256cm。昭和33年7月23日指定。
鐃 1口(工芸品) 平安時代前半の作の三鈷鐃。昭和33年7月23日指定。
軍配 1口(工芸品) 室町時代の作。昭和33年7月23日指定。
太刀 銘景安 1口(工芸品) 平安時代末期、備前刀工(古備前派)の景安の作と見られる。初代水戸藩主の徳川頼房の寄進による。身長は77.5cm。昭和36年3月24日指定。
草花双鳥円鏡 1面(工芸品) 室町時代の作。昭和45年(1970年)に盗難に遭った(未発見)。昭和40年2月24日指定。
十一面観音御正体 1面(工芸品) 鎌倉時代初期の作。昭和45年(1970年)に盗難に遭った(未発見)。東南に昭和40年2月24日指定。
鹿島神宮文書 18巻(古文書) 元暦2年(1185年)の源頼朝下文から明治4年(1871年)の神祇官達書に至る、総計250点の古文書群。巻子で18巻に仕立られている。平成22年11月10日指定。
天然記念物 鹿島神宮樹叢 - 昭和38年8月23日指定。
鹿嶋市指定文化財
有形文化財 楼門回廊 2棟(建造物) - 昭和57年3月20日指定。
また、神幸祭で奉納される各地区の山車数台が鹿嶋市指定有形文化財に指定されている。
その他
悪路王の首像・首桶 蝦夷の悪路王の首と首桶を、江戸時代の寛文4年(1664年)に木造で復元し奥州の藤原満清が奉献したもの。悪路王とは、平安時代に坂上田村麻呂が征伐した蝦夷指導者のアテルイを指すとしている。


【元社】

鹿島神宮の本源地として下記の説がある。
@坂戸の社(さかとのやしろ) 現在の境外摂社坂戸神社とする。
A沼尾の社(ぬまおのやしろ) 現在の境外摂社沼尾神社とする。
B潮来市大生の大生神社は鹿島の元宮であると伝えている。


鹿島神宮

かしまじんぐう 茨城県鹿島郡鹿島町。
旧官幣大社、(現、別表神社)。香取神宮とならび東国の大社で、国定公園日本水郷の歴史的中心である。建国創業神話に活躍する武甕槌命を祀る。『記紀』によると、出雲国に赴いて大国主命を説得して国譲を実現し、神武天皇の大和入りの途次、熊野の地に布都霊剣を下して行路の賊を平らげた。この剣は鹿島神の神霊で、今は国宝に指定される巨大な直刀である。『延喜式神名帳』に名神大社に列し、常陸国の一の宮である。
古来数少ない神宮の称号で呼ばれている。
藤原氏の祖鎌足は鹿島の地で生まれたと伝え、やがて奈良に春日大社が創祀されるとその第一殿に鹿島の神が迎えられる。また東国・東北地方の開拓に神威を顕はし、『常陸国風土記』『延喜式神名帳』などに数多くの鹿島の御子神社の記載がある。安房・上総の地に忌部氏、下総・常陸に中臣氏(藤原氏の祖)といずれも本来祭祀にたずさわる氏族が栄え、閉発を進めながらその神を祀る古代の姿を伺うことが出来る。後世武神として尊崇を受け、鎌倉幕府は源頼朝以降歴代の将軍が社領を寄進し、徳川家もこれにならった。元和5年(1619)造営された本殿・石の間・拝殿は重要文化財である。古くは20年一度の造替の制があった。社殿の構造はいわゆる権現造で、極彩色の施された華麗な建築である。神社建築には珍しい北面する社殿であるが、東北地方開発の歴史に深いかかわりをもつ社であったからであろうと推定される。西方に楼門が立ち、その西に素材のまま組立てた鹿島鳥居がある。本社の東方深い社叢の中に摂社奥宮が祀られ、鹿鳥の荒御魂を祭神としている。慶長10年(1605)の造営になる旧本殿(重要文化財)である。社前にある末社高房神社は本宮の祭典に先立ってまず拝礼するのを例としている。例祭は9月1日、神幸祭がある。13年に一度午年には鹿島祭とも御舟祭とも呼ぶ式年大祭を行う。
神輿は大船津に出て御座船に移り、潮来の町に至って香取の大神の出迎えをうけて祭典を行う大規模な神事である。明治以前は7月の行事であったが、太陽暦に改めて9月となった。平年は大船津の仮宮まで神幸する。3月9日に祭頭祭がある。棒祭とも呼び、神領五三ヵ村のうち祭頭に当たっ牝二カ村の青年男子が定めの衣装で、八尺の樫棒を打合わせ、囃歌をうたって神宮に詣でる。古くは2月初申の日の祭で、この日次年の当番をト定する。「鹿島立ち」の諺を生んだ防人の出たちに因んだ祭という。
勅祭杜に定められている。分社は非常に多い。

神社辞典



鹿島神宮 名神大月次新嘗

鹿島は郡名に同じ、和名鈔(郷名部)鹿島、○祭神武甕槌命、相殿左天児屋根命、右経津主命、(社伝)○鹿島郷に在す、例祭月日、○式三、(臨時祭)名神祭二百八十五座、常陸國鹿嶋神宮一座、〇当国一宮也、(一宮記)O日本紀神代巻下、是後高皇産霊尊更曾諸神、選当遣於葦原中國者、■曰、経津主神是將佳也、時有、武甕槌神、此神進曰、豊唯経津主神独為丈夫而吾非丈夫者哉、其僻氣慷慨、故以即配経津主神令平葦原中國、云々、」古事記、(神代段)於是伊邪那岐命、援所御係之十拳剣斬其子迦具土神之頸、次著御刀本血、亦走就湯津石村、所成神名、次建御雷之男神、亦名建布都神、亦名豊布都神、云々、」旧事紀、(陰陽本紀)建甕槌之男神、亦名建布都神、亦名豊布都神、今坐常陸國鹿島大神、即石上布都大神是也、
此外にも、武甕槌命の御名見えたれど爰に略す、さて日本紀神代巻にて、武甕槌命と経津主命は別神なる事著しく見えたれど、同紀神武巻、及古事記等の文にては、一体分身の姿なるに依て、古事記傳五にいへることともあれど、何れにまれ当社の主神は、武甕槌命なる事明かなれば、彼別体同体の論ひは暫く置て、とにかくにいはず、
鎮座
常陸國風土記云、天地草昧巳前、諸祖天神、(俗云、賀昧留彌賀昧留岐)會集八百万神於高天之原、時諸祖神告云、今我御孫命、光宅豊葦原水穂之國、自高天原降来大神、名称香島天之大神、天則号曰香島之宮、地則名豊香島之宮、
神位 勲位
続日本紀、宝亀8年7月乙丑、内大臣從二位藤原朝臣良継病、叙其氏神鹿島社正三位、延暦元年5月壬寅、奉授勲五等、(事は封戸の条に出す)続日本後紀、承和3年5月丁未、奉授常陸國鹿島郡從二位勲一等建御賀豆智命正二位、同6年10月丁丑、奉授坐常陸國鹿島郡正二位勲一等建御加都智命從位、
神戸 封戸 社領
続日本紀、天平寳字2年9月丁丑、常陸國鹿島神奴二百十八人便爲神戸、」延暦元年5月壬寅、陸奥國言、祈祷鹿島神、討発凶賊、神験非虚、望賽位封、赦奉授勲五等封二戸、○当代御朱印高二千石
社職 氏人 把笏
続日本紀、天平18年3月丙子、常睦國鹿島郡中臣部二十姻、占部五姻、賜中臣鹿島連之姓、」宝亀11年10月丁酉、授常陸國鹿島神社祝正六位上中臣鹿島連大宗外從五位下己類聚國史、弘仁11年8月甲午、令常陸国鹿島神社祝禰宜把笏、」続日本後紀、天長10年4月丁丑、常陸國鹿島大神祝外從八位上勲八等中臣鹿島連川上外從五位下、」承和12年7月丁卯、常陸國言、依去年2月27日符、補任鹿島大神宮権宮司、庶務之勘、不異正任、而奉幣朝使、只給正任当色、不給権任、祭礼之場、同官異色、望請、准拠正任、将預給例者、聴之、立爲恒例、」臨時祭式云、常睦國鹿島神宮司准從八位官(以封戸物充之)
修理
臨時祭式云、凡諸國神社随破修理、但常睦国鹿島神社正殿、廿年一度改造、其料便用神税、如無神税、即充正税、
神賎
続日本紀、宝亀4年6月丙午、常陸國鹿島神賎一百五人、自神護景雲元年立制、置一処、不許與良婚姻、至是、依旧居住、更不移動、其同類相婚、一依前例、」同11年12月壬子、常陸國言、脱漏神賎七百七十四人、請編神戸、許之、神司妄認良民、規爲神賎、假託霊異、巳侵朝章、自今以後、更莫申請、

神社覈録






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