現在の社殿は昭33年の大噴火により被害を受け同年再建されたもの。 |
阿蘇山上神社 阿蘇山上神社由緒記 本宮 当神社は元官幣大社阿蘇神社の奥宮なり 御祭神 古来阿蘇神社(本宮)一の宮・二の宮・五の宮の三柱 の神の荒魂を祀る。いずれも阿蘇噴火口に鎮まれり 北の御池(噴火口)一の宮 健磐龍命 中の御池(噴火口)二の宮 阿蘇都比当ス 南の御池(噴火口)五の宮 彦御子命の御神霊 由緒 社記に曰く、欽明天皇14年3月(西暦552年) 阿蘇山火起って天に接す阿蘇宮の御三社を祀り社家の内笠忠基をして奉仕せしむ。之を天宮祝と云う。 古来朝廷の尊崇篤く、国家有事の際には特使を派 して奉幣祈願が行われた。平安初期より、神霊池 (噴火口)に異変ある度に九州鎮守府太宰府より、 祈祷を厳修した事が史書に記載されている。 社殿 現在の社殿は昭和33年の大噴火により被害を 受け同年再建されたものである。 神域 阿蘇噴火口(神霊池)を中心として八丁四面とし て古来穢れを忌み、登山者は心身を清浄にして登拝 するを例とした。 社頭掲示板 |
阿蘇山上神社 阿蘇山頂の火口湯溜まりは、古より「神霊池」とよばれ、阿蘇神のご神体とされてきました。山上神社は火口を遥拝する拝殿のみが佇みます。歴史的に麓の阿蘇神社「下宮」対して「上宮」とよばれてきました。古代、火口は国家祈祷の対象となり、その変異は太宰府を通じて都の朝廷に報告され、阿蘇神の評価を大きく高めました。現在は、6月上旬に活動の平穏を願って御幣を納める「火口鎮祭」がおこなわれています。 山上神社の社殿は、旧内務省神社局技師として活躍した角南隆の設計によって、昭和33年に木造社殿建築を鉄筋コンクリート造で再建されたものです。 公式HP |
阿蘇山上神社 由緒:当神社は阿蘇神社(熊本県阿蘇郡一の宮町宮地)の奥宮である。 噴火口は古来より神霊池として崇められ、左記の如く、阿蘇神社三柱(一の宮・二の宮・五の宮)の神として祀られている。 北の御池(噴火口)一の宮 建磐龍命 中の御池(噴火口)二の宮 阿蘇都媛命 南の御池(噴火口)五の宮 彦御子命 社記には、「欽明天皇十四年三月(552)阿蘇山火起りて天に接す。阿蘇宮の中三社を祀り、社家の内笠忠久をして奉仕せしむ。これを天宮祝と云う。」とある。 平安時代初期より神霊池に異変ある度に、九州鎮守府太宰府から京都の朝廷に奉進があり、各社寺に国家安泰の御祈祷が命じられたことが国史に記載されている。 当神社へは特使が派遣され奉幣祈願が行われていた。 現在の社殿は昭和33年の大爆発により被害を受けたため、同年に再建されたものである。神霊池である噴火口に向かって遥拝するかたちで建てられている。 伝説(左京ケ橋 蛇腹) 噴火口(神霊池)への登山者は心身を清浄にして登拝するを例としていた。 当山上神社裏手より噴火口に至る徒歩道は往時唯一の火口への路であり、必ずこの橋を渡らなければならなかった。 昔、左京某と云う侍がこの橋を渡ろうとしたところ、子蛇が橋のたもとにいたので、武士の行く手を遮り、不届きな奴とばかりに、血気にはやり刀を抜いて斬り捨てようとした。すると忽ち雲が涌き風起り、一匹の龍となって天に昇った。 さすがの左京もこの一大異変に恐れをなし、それが原因で早死したらしい。 以来この橋を左京ケ橋と称するようになったという。 心悪しき人が渡ると前面の岩が大蛇に見え、渡ることができないという。事実岩の形態は蛇腹というにふさわしい。また、未婚の男女がこれを渡り潔身の証にしたともいう。 社頭掲示板 |