隣接する寿樂寺の境内附近は、白鳳期の古瓦を出土する古寺院趾である。 付近には多数の遺物や祭祀遺跡(建石など)が発見されており、その頃より当神社の芽ばえがあったと思われる。 明治2年高山県の『飛騨國式内式外社取調書上』には高田神社を所在未詳とし、翌3年9月高山県社寺方市村橡山・山崎櫻桃両人により太江村白山社が式内高田神社に擬定された。 |
高田神社 式内社 金幣社 高田神社 御祭神 主神 高魂命 相殿神 白山比命 建御名方命 賀茂別雷命 天津彦根命 御由緒 当神社の境内近くに五千年前縄文時代中期の聚落跡と見なされる五番屋敷遺跡がありまた多数の遺物や祭祀遺跡(建石など)が発見されており既にその頃より当神社の芽ばえがあったことがわかる 社名の「高田」タカタは高台にある水田を意味し現在地の西方50m余りの湿田には古墳時代祭祀に使用されたとみられる土器が数多く出土していることからその頃には神饌田もあり神社としての形態が整っていたものと考えられる。また当神社を中心に環状に配されている二十一基の古墳は御祭神との関係を示すこの土地の氏族の墳墓と考えられることから当神社はこの氏族の氏神であり日本書紀や三代実録新撰姓代録等に見られる敏達天皇6年(577)飛騨にも「日奉部」(ヒマツリベ)が置かれその伴造(トモノミヤツコ)が萬物の繁栄の祈願をこめて始祖神の「高魂命」をこの土地に祀られたと考えるのが自然である。 更に当神社の隣にある寿楽寺附近で白鳳期の古瓦が出土し近くに釜谷古窯跡もあることから古い寺院の存在が判明してそれは当神社の神宮寺的存在であったことが推定され萬物すべての生成発展をつかさどる高魂命を祀る当神社は当時広くこのあたり一帯の篤い信仰を集めていたと考えられる。 当神社の御神威の発揚について正史に見られるところでは文徳天皇実録によれば仁寿元年(851)正六位上に三代実録には清和天皇貞観9年(867)従五位上を授けられ更に醍醐天皇延長5年(927)につくられた延喜式には2月の祈年祭に官祭の班幣を戴く飛騨国式内八社の一つに列し国幣の小社とされている。 中世になり御醍醐天皇の建武の中興の御偉業に功績のあった飛騨国司姉小路家綱卿は当神社を崇敬し境内には「十楽観」(館)を設けられた それは平安京にならい野中に賀茂神を祀り小島城を築いてその山々を東山 北の峰を北野嵯峨山 城下の細江川を賀茂川と名づけられた地名がいくつか現存していることから飛騨国統治の中枢にされたことを物語っている。 またその館跡が現存する今日においても例祭の御神幸には当時の偉容を伝える武者姿が警護に当り火縄銃を発射して供奉しているが古書には神職が国司の姿をして佩剣したとある近世になり白山信仰の勢力が飛騨にも伸びて当神社は白山社と改称され元禄検地帳には白山権現宮の名が見える。 しかし江戸時代文化年間当時の神道の中心的存在であった京都吉田家の役人の調査により高田神社であることが確認され社号碑を建てて旧に復することになった。その後明治3年9月高山県は正式に式内社高田神社と称号する事を認め明治5年には郷社に列せられたそして昭和51年には岐阜県神社庁長参向の金幣社の指定を受けている 当神社には国司姉小路家一族の刀剣や甲冑など武具の宝物も多数伝わり随神と小島城主時光公所有とされる冬瓜蓑朱兜は古川町指定文化財であり御神木五程杉は天然記念物に神楽獅子舞は県無形民族文化財に指定されている特にその舞中の采振りは独特のものとして評価され神前のみで舞われることになっている 社頭石碑 |
高田神社 文化財 兜(朱塗漆冬瓜形) 指定区分 古川町重要文化財 指定年月日 昭和42年3月31日 所有者 古川町大字大江 高田神社什物 由来 当兜は戦国時代のものを江戸中期に改装したもので、毎年の例祭に着用したため、一部破損しているが、当初は大業物であったという。 無形文化財 指定区分 岐阜県無形文化財 指定年月日 昭和42年3月31日 所有者 古川町大字大江 高田神社氏子 特色 獅子が「ざい」振って舞うのが特色である。 古川町教育委員会 社頭掲示板 |
高田神社 御祭神の使い雉の由来 高田神社御祭神は私達祖先が天地すべてを生み育てる根元の力をタカミムスビノミコト高魂命と称え始祖神として尊び敬ってきた、この神のお使いが雉です。 水穂国日本は天照大神の子孫が治める国と定められたが出雲国は容易に服従せず此に祖神高魂命の御加護を得られた、雉は特命により、出雲国に派遣されると先に派遣されていた天稚彦の裏切り矢で射殺される。雉の胸を貫いた血染めの矢は天上に舞上り高魂命のもとに至るとそれを投げ返されその返矢に当たって天稚彦は死んだ。 その後出雲国は統一されたが神のお使いとして命を捧げた雉の功を称え古代高家(太江古代名)氏子は雉の捕獲射殺を堅く禁じその掟を今日まで守り続けている。 因に当神社は遠く飛鳥時代敏達天皇御代此地に日奉部が置かれ祖神鷹魂命を高田と奉斎された延喜式国幣小社であります。 昭和59年4月28日建立 社頭石碑 |
高田神社 古代より中臣氏、藤原氏との由縁深き高家(大江)の里は朝廷に帰一し、中世の初期、藤原氏の後裔である姉小路氏の所領となる。その後このあたりは、飛騨の十楽観(館)の飛騨国司姉小路氏と共に「飛騨の細江」と讃えられた処である。飛騨の姉小路家は字名として今も残るミダ洞の麓に、堂塔を建立し代々菩提所にされていた。 社頭石碑 |
高田神社 飛騨国司姉小路家綱卿は建武中興に大功があり伊勢北畠氏土佐一條氏とともに南朝三国司と称される。当神社を崇敬し境内には十楽観(館)を立て飛騨国統治の中枢とされた。平安京にならい野中には賀茂神を祀り上賀茂下鴨小鳥城を東山に賀茂川北野嵯峨などと名づけられた地名がいくつか今なを残る。国司姉小路家はその後尹絢 師言 持言 勝言 煕絢 宗煕 貞煕 ■絢 清綱 清俊の各卿が継承され更に楠流小鳥城主時光公まで続く、当神社に奉納された刀剣甲冑■薙刀馬具火縄銃等は宝物として今に伝わり例祭には当時をしのぶ武者警護などがある。建武中興563年祭に当たり姉小路氏250年間にわたる治世に氏子一同その偉業を讃えてこの碑を建てる。 昭和62年4月吉日 社頭石碑 |
高田神社 当神社は古来の地名である高家(「郷」たいえ)高田(「字」たかた)に位置する。境内近くに発掘された四、五千年前縄文時代中期の聚落「御番屋敷」から多数の遺物と共に「本宮建石」の祭祀遺跡が出土し、既に其の頃より高田神社の芽生えがあった。高田の水田からは古墳時代の祭祀土器が多数出土し、其の頃には神饌田もあり、神社の形態が整っていた。又、当神社を中心に環状配置された21基の古墳は、御祭神の関係を示す氏族の墳墓と見られ、日本書紀、続日本紀、新選姓氏録にある敏達天皇6年(577)2月1日には日奉部が置かれ、飛騨日奉部造(みやつこ)が萬物繁栄の祈願をこめて始租神「高魂命」(たかみむすびのみこと)を此処高田に祭祀された。更に、参道の左近には、飛鳥時代飛騨最古の「高家寺」の遺跡が発掘され、当時「神宮寺」として篤い信仰を集めていた。続日本紀は、天武天皇朱鳥元年(686)10月9日壬申の乱で大津皇子謀反に組した新羅沙門行心を飛騨伽藍(高家寺)に移すと記す。当神社は聖武天皇天平年間(729-749)祭官制により官社、桓武天皇延暦17年(799)遠隔地のため國幣社となり、文徳天皇實録仁寿元年(851)1月27日叙正六位上、清和天皇貞観9年(867)10月5日叙正五位上を授かり(続日本紀は、これに先立ち、当神社神職飛騨日奉部若善、貞観4年太政大臣家扶・左京職、同六年正六位を授かると記す。)、醍醐天皇延長5年(927)延喜式、飛騨國式内八社國幣小社に列す。中世、後醍醐天皇建武中興御偉業に功績ある飛騨国司姉小路家綱卿は、当神社を崇敬し、当神社境内に隣接して平安京に倣い、別館「十楽観」を造営し、飛騨國統治の中枢とされた。これら歴史を跡付ける数々の遺跡は、古来より高田神社が当地にあったことを証す。歴代遺物も伝承し、今日に於いても、例大祭御神幸は、当時の偉容を伝える鎧武者姿が警護し、火縄銃を発射して供奉する。古書には、神職は國司の姿をして佩剣したとある。近世白山信仰が浸透し、元禄年間白山権現宮とするが、文政年間に強い自覚を促され、旧に復す。明治5年郷社、昭和51年岐阜県神社庁長参向金幣社となる。 特殊神事 神楽獅子舞釆振り 文化財 神楽獅子舞 岐阜県指定無形民俗文化財 冬瓜菰朱塗兜 飛騨市古川町指定文化財 随神 飛騨市古川町指定文化財 岐阜県神社庁 |