飛騨一宮水無神社
ひだいちのみやみなしじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】水無神社 飛騨国 大野郡鎮座
          (奥宮)飛騨一宮水無神社【奥宮】

   【現社名】飛騨一宮水無神社
   【住所】岐阜県高山市一之宮町宮下5323番地
       北緯36度5分7秒,東経137度15分6秒
   【祭神】御歳神
       (配祀)大己貴命 三穗津姫命 応神天皇 高降姫命 神武天皇
       須沼比命 天火明命 少彦名命 高照光姫命 天熊人命 天照皇大神
       豊受姫大神 大歳神 大八椅命
   【祭神諸説】大己貴命 『一宮御本縁』
         高照光姫命 『御名帳頭註』『一宮記』
         神武天皇 『飛騨八所和歌裏書』
         八幡神 『元禄検地水帳』
         天火明命『神名帳考証』
         御歳神『三澤記』『神名帳叢説』
         水神『先代旧事本紀』

   【例祭】5月2日 例大祭
   【社格】一宮 旧国幣小社
   【由緒】仁寿元年(851)正六位上
       元慶5年(881)従四位上「三代実録」
       建保2年(1214)神領回復
       建保以後社僧を置く
       弘安4年(1281)地頭朝高が洪鐘を寄進
       天文23年(1554)後奈良天皇震筆の紺紙金泥大般若経を奉納
       慶長12年(1607)高山藩主金森長近が拝殿造営
       安永2年(1773)境内が百姓一揆の大集會に使はれる
       安永7年(1773)社殿造営
       安政5年(1858)攘夷祈願の勅祭
       明治4年国幣小社
       昭和20年7月約一ケ月間熱田神宮が当社へ動座

   【関係氏族】
   【鎮座地】この地に継続して鎮座する

   【祭祀対象】本来は飛騨川を祀る
   【祭祀】古来より継続して祭祀されている
   【公式HP】 飛騨一宮水無神社
   【社殿】本殿銅板葺流造
       幣殿・辮備所・拝殿・神饌所・透塀・築地塀・参集所・授與所
       神門・手水舎・神馬舎・絵馬殿・勅使館・社務所・倉庫・會館
       講堂・宮司室

   【境内社】白川神社・稲荷社・祖霊社

古来、飛騨国一ノ宮として名高く、創始年代は詳らかではない。中世鎌倉時代には社領は付近十八 ケ村に達し、社家十二人と社運が隆盛であったが、戦乱にかかわって荒廃をみた。
平治元年(1159)以來の慣例として、当社は御大典と伊勢神宮式年遷宮には一位の笏を献上する。


由緒

古来、飛騨国一ノ宮として名高く、創始年代は神代にありと社伝にもあるが詳らかではない。史上にあらわれるのは平安初期、貞観9年(867年)神位を授けられた記事にはじまる。中世鎌倉時代には社領は付近十八 ケ村に達し、社家十二人と社運が隆盛であったが、戦乱にかかわって荒廃をみた。江戸時代に入って歴代の領主、代官、郡代(天領時代)の尊崇をうけ、また、一般の厚い信仰にささえられ、明治4年5月14日、太政官布告によって国幣小社に列せられ、昭和10年より国費をもって十年の歳月を要する造営がなされ今日の社殿が完成した。
昭和21年2月官制廃止後は神社本庁に所属し現在におよぶ。社名の水無は『みなし』(水成)または、『みずなし』とも読み、俗に『すいむ』と音読することもあるが、水主の意味である。社前を流れる宮川の川床があがり、流れは伏流して水無川となり、水無川、水無瀬河原、鬼川原(覆ケ川原)の地名となっている。この宮川の源流位山は日本を表裏に分ける分水嶺になっており、水主の神の坐す神体山として当神社の奥宮と称している。この霊山には一位(櫟)の原生林があり天然記念物とされ、平治元年(1159年)には飛州一宮神主から位山の一位の御笏を献上したことがみえるのをはじめ、一宮神領、位山の一位をもって謹製した笏を歴代天皇御即位に献上するのが例となって今日に至っている。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




飛騨一宮水無神社略誌

一、 御祭神
水無神 御歳大神を主神として
相殿 大己貴命、神武天皇、応神天皇外十一柱
末社 延喜式内外十八社及び国内二十四郷の産土神
一宮稲荷、白川社(御母衣ダム水没の白川郷より奉遷)
一、 御由緒
神代の昔より表裏日本の分水嶺位山に鎮座せられ、神通川、飛騨川の水主、また水分の神と崇め農耕、殖産祖神、交通の守護(道祖神)として神威高く延喜式飛騨八社の首座たり。
歴代朝廷の崇敬厚く、御即位、改元等の都度霊山位山の一位材を以って御用の笏を献上する。
明治維新、国幣小社に列し、旧来より飛騨一宮として国中の総社(総座)なり。本殿以下二十余棟建築凡七百坪は昭和十年起工、国費を以って改築せらる。
飛騨はもとより美濃、越中、木曽に及んで分社、縁社二十余社を有する。
一、 祭祀
例祭 5月2日神幸祭、当社醸造の公認濁酒授与、神代踊、其の他奉納
節分祭 2月節分の日、追儺神事
生ひな祭 4月3日、日本唯一の生びな行列の供奉は圧巻
夏越祭 6月30日、大祓式、茅輪潜に神事
除夜、元旦祭、年越詣
一、 特殊神事
(一) 神代踊、当社にのみ現存する独特の神事にして毎年五月の例祭及試楽祭に神社前と御旅山で行はれ無形文化財として指定せらる。
(二) 闘鶏楽、飛騨国中の神社にて特殊神事として行はれているも往古当社より伝授されたるものなり、神代踊と共に氏子達百五六十人が揃いの衣裳を着け、円陣をつくり踊る古風幽雅な神事なり。
一宮神楽、雅楽に類するもので国中各神社へ伝授する。
(三) 一宮獅子、例祭、試楽祭のみ奉仕する。

社頭掲示板



走田神社

◇御祭神と御神徳
水無神として、御年神を主神に外十四柱を祀る。水無神の名はすでに延喜式に記され、清和天皇の貞観九年(八六七年)従五位上の神位を授けられた国幣社で、代々飛騨一宮と称し、飛騨国中の宗祀と仰がれた。
表裏日本を二分する分水嶺に座して、水源と交通の要衝を鎮め「作神様」としても美濃、信濃、越中など広い地域にわたって農業を奨励し民生の安定を進められた神様で、縁故地に多くの分社を擁する。従来より御神徳を慕って、開運厄除、交通安全、商売繁昌、学業成就、安産、初宮詣などさまざまな願をもって参拝する人が多い。
他に飛騨国中の産土神八十八社を鎮祭する摂末社がある。
◇神馬
稲喰の馬という木造の神馬二頭が神馬舎に安置され、左甚五郎の作といわれる黒駒は極めて素朴な製作であるが、両眼がくり抜かれている。秋の刈入時になると毎夜田圃に出て稲を喰い荒すので両眼をくり抜いたところ、それ以来野荒しが全くやんだという。そして、その神馬の解体は破損しなければ不可能であるといい伝えている。
◇御由緒
古来、飛騨国一ノ宮として名高く、創始年代は神代にありと社伝にもあるが詳らかではない。
史上にあらわれるのは平安初期、貞観九年(八六七年)神位を授けられた記事にはじまる。中世鎌倉時代には社領は付近十八ヶ村に達し、社家十二人と社運が隆盛であったが、戦乱にかかわって荒廃をみた。江戸時代に入つて歴代の領主、代官、郡代(天領時代)の尊崇をうけ、また、一般庶民の厚い信仰にささえられ、明治4年5月14日、大政官布告によって国幣小社に列せられ、昭和10年より国費をもって十年の歳月を要する造営がなされ今日の社殿が完成した。
昭和二十一年二月官制廃止後は神社本庁に所属し現在におよぶ。
社名の水無は『みなし』(水成)または、『みずなし』とも読み、俗に『すいむ』と音読することもあるが、水主の意味である。社前を流れる宮川の川床があがり、流れは伏流して水無川となり、水無川、水無瀬河原、鬼川原(覆ヶ川原)の地名となっている。
この宮川の源流位山は日本を表裏に分ける分水嶺になっており、水主の神の坐す神体山として当神社の奥宮と称している。
この霊山には一位(櫟)の原生林があり天然記念物とされ、平治元年(二五九年)には飛州一宮神主から位山の一位の御笏を献上したことがみえるのをはじめ、一宮神領、位山の一位をもって謹製した笏を歴代天皇御即位に献上するのが例となって今日に至っている。
◇ひなまつり
(4月3日)
春のおとずれの遅い飛騨は一月おくれの“ひなまつり”を迎える。当日は飛騨一円から選ばれた美女達が生きびな様として祭りの主役をつとめ神前に奉仕する。それは十二単に身をつつみ、とおく平安絵巻をしのばせる全国でも珍しい伝統行事として県内外からの参拝者を多く集めている。この祭には協賛して特産品販売などもおこなわれます。
◇島崎正樹宮司歌碑
島崎正樹は、明治の文豪藤村の父である。明治7年11月13日水無神社宮司として赴任し、学問、詩歌の道にもすぐれ在任中高山中教院の教導職(中講義)として多くの若者を指導した。
彼は藤村の著書「夜明け前」の主人公青山半蔵その人であって、宮村の晩秋を詠める短歌一首が碑となっている。
きのふけふ
しぐれの雨と
もみぢ葉と
あらそひふれる
山もとの里
◇特殊行事
飛騨人の総氏神である一宮水無神社の例祭は、古くは陰暦8月15日、明治以降は9月23日に行われていたが、昭和36年より5月2日に執り行われる事になり今日に至っている。
其の祭礼には、氏子の人達によりつぎのような特殊神事が奉納され、当社で醸造された濁酒が一般参拝者に授与される。
一、神代踊り(県指定文化財)
当社独特のもので起源は明らかでない。田楽の転じたもの或は、飛騨楽など解釈されている。踊子は男子で服装は黒紋付に羽織、角帯姿で袴を着けず、白足袋、紙緒草履、菅の一文字笠で踊る。それに四人の女装した上臈が加わる。
二、闘鶏楽(鳥毛打)
俗称「カンカコカン」とも云い、当社を源流として、飛騨一円に伝承している特殊神事芸能である。
三、獅子舞(伊勢神楽)
飛騨各地で奉納されているものの代表である。
◇白川神社
合掌造りの里、白川村は、最近(明治時代)まで大家族制が残されていた最後の秘境であった。
この白川村の尾神、福島の里は昭和三十三年電源開発のため御母衣ダムの湖底に沈み、その産土神が、祖先の地を失い、永遠に離れ、しかも離散することになった氏子達により、此処飛騨の神々の総座の地に遷され昔を偲ぶよすがとなった。
◇大原郡代父子寄進石灯籠
安永騒動(百姓一揆)を鎮圧した大原代官は、其の功により布衣郡代に昇進したが、騒動鎮圧で非業の死を遂げたり遠島追放で多くの犠牲者を出し、又、新検地によって重税に苦しむ農民のうらみをかい、晩年はみずからも眼病をわずらうなどして神仏に頼る日々で、安永8年(1779)に灯籠一対を寄進したのが今に遺る。
◇大原騒動大集会の石碑と
非業の死を遂げた両神主の墓
大原騒動は飛騨一円をまき込む日本近代史に残る一大農民一揆であり、農民哀史でもあった。この一揆の悲しい終焉の地になった当神社は農民最期の砦として大集会場になり、其の鎮圧にむかった捕吏によって凌辱され、神主ともども大きな犠牲をはらった。
両神主の墓
伝えによると両人の遺族が重刑(傑)に処せられ梟首になった父の首を夜半そっと持ち帰りここに葬ったとされる。
◇絵馬殿
棟札は慶長12年(1607)、高山城主金森長近の寄進によるものが初見で、安永7年(1778)大原騒動で当神社神主山下和泉、森伊勢両名が処刑(磔)改易されるや、信州より梶原伊豆を迎え、其の復興をはかり従来の両部神道より唯一神道に改め社殿も一新したが、拝殿(絵馬殿)のみは取壊しをまぬがれた(紙魚のやどり)。やがて、明治の官制時代を迎え、時の高山県知事宮原積は飛騨国中より拠金を募り社殿の造営をおこない従来の入母屋造りに代え神明造りに統一した際、不釣合いとなって取壊されたが氏子達はこれを惜しみ保管。明治12年(1878)浄財を募って元の位置に復元したが、昭和29年(1954)境内拡張のため、かつての社家跡(山下和泉家屋敷)に移築され現在に至っている。大原騒動安永2年(1773)飛騨の百姓一揆と因縁のある遺構が此処に建つのも一つの奇縁と言えよう。
◇水無神社の大杉
(県指定天然記念物)
樹齢凡そ800年、この大杉(老杉)は、神杉として郷土の歴史とひとのいのちについて声なき声をもってかたりつづけている。
◇ちばかの桂
樹齢凡そ500年、目通り九メートル、標木といわれ、又その昔、宝をうめたしるしとも、恋の標結とも伝える。
後れ居て恋ひつつあらずは
追ひし及かむ
道のくまみに標結へわが背
◇拗の木
昔境内大鳥居の横に目通り径1m50、高さ数十mもある桧の大樹があり、社家や民家の日蔭になるので里人たちが伐って普請に使おうと相談して、いよいよ斧入れをすることになった。すると、一夜の中に幹はもとより梢に至るまでねじ曲ってしまった。里人は驚いて伐木を止め神に詫びたという。
又、今から200年前の明和9年8月18日に大洪水があって、宮川筋には非常な被害があった。高山市の中橋は流失し、市内だけで家屋や土蔵が八十九棟も流された。その年の11月16日に安永と改元されたが飛騨では元伐山が休山となり、その翌年は幕命で地改めが行われることになった。それに反対して起ったのが大原騒動で、そのため中橋の架替がおくれ、漸く五年目の安永五年に従来の手すり橋から高欄擬宝珠の大橋ができたのである。時の代官大原彦四郎は、その工事にあたり宮村へ一の宮の大桧を橋材としてさし出すよう命じた。しかし騒動で多くの犠牲者を出した村人は素直にさし出すことをいやがった。そこで氏子の中に気転のきく者がいて有名な拗の木を示し、神意で一夜の中にねじれてしまいましたと復命したので、杜のほかの桧も伐ることが沙汰止みとなった。
その後この拗の木は枯れてしまったが、いわれのある木であるとして枯れたまま保存。昭和二十九年絵馬殿の移転によって現在地に移し保存されている。
◇御旅山(神楽岡)
御座山ともいわれ、神体山・位山の遙拝所とされ、古墳状の人工丘をなしている謎の多い丘陵である。
春は、つつじが咲き乱れ、四季松籟の緑陰に囲まれ宮盆地を一望にできる展望台でもあります。
5月2日の例祭には当神社の御旅所として御神幸があり、伝承芸能の神代踊り、闘鶏楽、獅子舞の奉納のほか、名物のどぶろくが参拝者に振る舞われます。
◇銀杏の木(公孫樹) 天然記念物
樹齢凡そ800年、乳頭が垂れ、やさしい母親の面影があり、樹幹にイチイ、ナラ、ケヤキ、クルミなどのやどり木を抱き、古来より子授け、安産、縁結びの御神木として霊感を授かる人が多い。
◇熱田神宮の御動座(戦時中の疎開)
大東亜戦争が熾烈になり、戦禍が本土におよぶようになった末期。昭和20年(1945)7月より敗戦に至る僅かの期間であったが、戦禍を避け関係者により密かに御動座(遷座)になったことは有史以来のことでもあった。

由緒書






絵馬殿(拝殿)の由来

一、慶長12年(1607) 
飛騨の国守となった高山城主金森長近の造営
(当社棟札 一宮拝殿造営定書 飛州志)
一、安永7年(1778)
百姓一揆が安永2年に起り大原騒動と称し、当神社の社家も農民に加担、連座し改廃され信州より迎えた神主梶原家熊は両部神道を改め、唯一神道とし従来の仏像、仏具はもとより社殿の多くを取壊し改めて造営するにあたりこの社殿のみ取壊しを免れた
一、明治3年(1870)
高山県知事宮原積は入母屋造りの従来の社殿を神明造りに建替えた。その時この建物は建替用として取壊したのを氏子は自分たちの大切な拝殿として保管した。
一、明治12年(1879)
氏子は保管中の拝殿再興を願出、広く浄財を求め元の位置に復元した。
一、昭和29年(1954)
十年代国の管理の下昭和の大造営がはじまったが終戦で国の管理から放れ、現在地に移築した。
一、昭和53年(1978)
宮村重要文化財指定、屋根銅板葺替(従来柿葺)
昭和54年1月 飛騨一宮水無神社
宮村教育委員会

社頭掲示板



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