粒坐天照神社
いいぼにますあまてらすじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】粒坐天照神社(名神大) 播磨国 揖保郡鎮座
          (旧地)天津津祀神社

   【現社名】粒坐天照神社
   【住所】兵庫県たつの市龍野町日山 463
       北緯34度51分49秒、東経134度32分25秒
   【祭神】天照国照彦火明命
   【例祭】10月12日例大祭
   【社格】旧県社
   【由緒】推古天皇2年(594)正月1日的場山の山頂附近に降臨
       嘉祥4年(851年)従五位下
       貞観元年(859)正月従四位下
       応永の乱で羅災
       嘉吉元年(1441)嘉吉の乱で兵火に羅災
       文明3年(1471)現在の日山の里に赤松則重が神域を拓いて遷座
       文明5年(1473)焼失
       後約100年の間日山山下の一山寺に仮偶
       天正9年(1581)蜂須賀正勝今の地に再建
       天正13年(1585)福島正則社殿造営
       慶長9年(1604)4月17日炎上
       慶長17年(1602)社殿社記等悉く焼失
       寛永3年(1626)造営
       明治7年2月郷社
       明治7年日山神社と改称
       明治12年粒坐天照神社に復称
       明治15年2月県社
       昭和20年本社殿焼失

   【関係氏族】
   【鎮座地】最初、現在の的場山の山頂附近に奉齋
        後小神の地に遷座再建(今の古宮(フルミヤ)神社の宮地)
        文明3年(1471)現在の日山の里に赤松則重が神域を拓いて遷座

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「三社権現」と称していた
   【社殿】本殿流造
       幣殿拝殿・絵馬殿・仁王門・神輿庫・社務所

   【境内社】菅原神社・大神宮・薬司神社・厳島神社
   【境内図】 境内図

社伝に依れば、推古天皇2年(594)正月1日関村(現、龍野市小神)の伊福部連駁田彦(本姓、五百木連火明命之裔)という正直な長者の邸裏のよく茂つた杉社の上(的場山の山頂附近)に、異様に輝くものが出現したが、それは容貌端麗な童子姿の天照国照彦火明命の使であつたと云う。この神使が駁田彦に神勅し種稻を授けた。駁田彦は神勅を尊び畏み社を建立奉齋し、その授けられた種稻を、自己の持田及び近隣の水田に蒔いた処、一粒万倍し以後播磨の穀倉地帯になった。
養和元年(1181年)に射楯兵主神社に播磨国16郡174座の大小明神社を合祀し、播磨国総社・府中社とした際に粒坐天照神社はこれに合祀されておらず、この時点で社殿消失、祭祀が中断されていたものとされる。
天津津祀神社は粒坐天照神社創建の地で、的場山の中腹にある。応永の乱による兵火にかかって全焼したたため、この神社を山麓の小神に遷したのが古宮神社である。ところが、文明3年(1471)になってこの古宮神社の社殿が炎上したため、広い社地を求めて日山に遷座した。これが現社地である。しかし、当社の火難はさらにつつき、その2年後にまたもや火災に遭ったため、再び古宮神社の地に還ったという。やがて天正9年(1581)、龍野城主だった蜂須賀小六によって再び日山に戻された当社は、それ以降、ずっと現社地に留まっている。


由緒

人皇第32代崇峻天皇、第33代推古天皇の御代、播磨国現在の龍野市に伊福部連駁田彦という長者があり、人格者で近くの住民に篤く信頼されていた。この彦の邸の裏によく茂った杜があって、推古天皇2年正月1日にこの社の上に異様に輝くものが現われた。彦がこれを見つめていると忽然として容貌端麗な童子の姿となって曰く、「我は天照国照彦火明命の使である。天火明命の幸御魂はこの地に鎮まり、この土地と人々を守り給うて既に千年を越ゆ。今汝の正直、誠実なるに感じ給い天降りまして神勅を授けようとされている。神勅を奉戴し新しい神社を造営して奉祀せよ。
すなわち、今ここに種稲を授け給う。これを耕作すれば汝の田のみならずこの里全体に豊かに稔り、この土地は永く栄えてゆくであろう。」と。ここで使者の童子はまた忽にして昇天して去り、あとに種稲が残されていた。駁田彦がこの神勅を尊み奉戴することを誓うと彦の田のみならず近くに一夜にして千頂もの水田ができた。駁田彦が中心となって神社を建立奉斎し、またこの水田に授かった種稲を耕作すれば大豊作となり一粒万倍したという。以後この土地は米粒を意味するイイボ(粒、揖保、飯穂、伊穂などいろいろな文字をあてている)の郡と呼ばれ播磨の穀倉地帯となった。駁田彦を始め人々は嬉び感謝し、この神社を粒坐天照神社と称して氏神と崇め今日に到っている。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年



粒坐天照神社

延喜式に揖保郡7座の一つと記載され、宍栗郡一宮町の伊和神社垂水の海神社とともに播磨3大社の1つです。
神社縁起によると推古天皇2年(594)当地の有力者が神託を受け、的場山(台山)の頂に祠を建て農業の守護神天照国照彦火明命を祀ったのが始まりです。そのとき一粒の稲の種と水田を授かり、これを耕作したところ大豊作となり、一粒万倍したという。以後此の土地はイイボ(粒、揖保、飯穂)の郷と呼ばれる穀倉地帯となりました。室町時代の嘉吉の乱(1441)の兵火で社殿が焼失、揖西町小神に遷座しました。天正9年(1581)竜野城主となった蜂須賀小六正勝が日山の現在地へ遷座、続いて城主になった福島正則が社殿を造営しました。寛文12年(1672)に信州から城主として着任した脇坂家の藩主も尊崇厚く、神域が拡大され、数多くの境内末社を勧請合祀しました。
平成6年には神社創立1400年祭を執行しています。
神社は再三の火災に遭い、現在の神殿・拝殿・祝祀殿は昭和37年(1962)に、拝殿、社務所は同56年に建立されました。
2月24日、5日は菅原道真公を祀る菅原神社の祭礼(天神祭)、7月14、5日は1年の健康を祈念する輪抜け祭、10月には秋祭があってにぎわいます。氏子は龍野、揖西、揖保川三町の3300世帯です。
龍野史談会

社頭掲示板



粒坐天照神社

粒坐天照神社の概略
鎮座地 兵庫県龍野市龍野町日山
主祭神 天照国照彦火明命
社格 旧県社
延喜式内揖保都七座(大三、小四)の一座で名神大社である
文徳天皇嘉祥4年(西暦851年)神階従五位下を賜う
清和天皇貞観元年(西暦859年)神階従四位下を賜う
神紋 五七の桐
境内地 8580坪
本殿 流造12坪の神殿を始め幣殿、祝詞殿、拝殿その他柱内計55坪
氏子 3300世帯(平成6年2月調)
例祭 10月13日
境外 摂社及祭神
天津々祀神社(奥宮) 天照国照彦火明命
古宮神社(中宮) 天照国照彦火明命
境内摂社及祭神
大神宮 天照大御神 天津児屋根命 品陀和気命
菅原神社 菅原道真命 伊弉諾命 伊弉冊命 八衢彦命 八衢比売命 保食神
境内末社及祭神、
瑜伽神社 手置帆負命
東三社 稲荷神社 倉稲魂命
    稲荷神社 倉稲魂命
    薬司神社 少名毘古那命 大名持命
巌島神社 市杵島姫命
西二社 琴平神社 大物主神 
    瑜伽神社 手置帆負命
西五社
    佳吉神社 上筒男命 中筒男命 底箇男命
    愛宕神社 火産巣日神
    恵美須神社 事代主命
    秋葉神社 火迦具土命
    稲荷神社 倉稲魂命
粒坐天照神社縁起
人皇第32代崇峻天皇、第33代推古天皇の御代播磨国現在の龍野市に伊福部連駁田彦(イフキベノムラジフジタヒコ)という長者があり、人格b者で近くの住民に篤く信頼されていた。この彦の邸の裏によく茂った社(モリ)があって、推古天皇2年正月1日にこの社の上に異様に輝くものが現われた。彦がこれを見つめていると忽然として容貌端麗な童子の姿となって曰く、「我は天照国照彦火明命の使である。天火明命の幸御魂はこの地に鎮まり、この土地と人々を守り給うて既に千年を超ゆ。今汝の正直、誠実なるに感じ給い天降りまして神勅を授けようとされている。神勅を奉戴し新しい神社を造営して奉祀せよ。
すなわち、今ここに種稲を授け給う。これを耕作すれば汝の田のみならずこの里全体に豊かに稔り、この土地は永く栄えてゆくであろう。」
と。ここで使者の童児はまた忽にして昇天して去り、あとに種稲が残されていた。駁田彦がこの神勅を尊み奉戴することを誓うと彦の田のみならず近くに一夜にして千頂もの水田ができた。駁田彦が中心となって神社を建立奉斉し、またこの水田に授かった種稲を耕作すれば大豊作となり一粒万倍したという。以後この土地は米粒を意味するイイボ(粒、揖保、飯穂、伊穂などいろいろな文字をあてている)の郡と呼ばれ播磨の穀倉地帯となった。駁田彦を始め入々は嬉び感謝し、この神社を粒坐天照(イイボニマスアマテラス)神社と称して氏神と崇め今日に到っている。
粒坐天照神社1400年のうつり変り
推古天皇2年(西暦594年)に尾張氏の一族伊福部連駁田彦が建立奉斎したのは彦の屋敷裏の杉の社の神霊降臨の地であった。今でいう的場山の頂に近い所である。延喜式巻十神名帳にも名神大社(播磨七社の内)と記されている。当時の官社で一宮町の伊和神社、垂水の海神社とともに播磨三大社の一つと呼ばれ当国屈指の大社として朝廷の尊崇が厚かった。文徳天皇嘉祥4年(851年)に神階従五位下を賜わり、更に清和天皇貞観元年(859年)に従四位下を賜わった。然るに後小松天皇の御代応永の乱(1400年頃)に赤松氏一族が亀山に籠城の際寄手の兵火にかゝって全焼したので、大神(今の小神)の地に遷座し、もとの焼あとには祠を造って天祇神社(天津津祀神社)と称した。その後山名氏、赤松氏の崇敬を受けたが後土御門天皇文明4年(1471年)に社殿炎上し、樋山村(現在地、龍野市日山)に広い神域を拓いて遷座した。ところが2年後に再び火災に逢い大神にある旧宮地にお還しし、樋山の境内地には神域として保持するため菅原神社を勧請した。その後正親町天皇天正9年(1581年)龍野城主蜂須賀小六正勝が再度現在の宮地に遷座した。大神にあった旧社殿は古宮神社と呼ばれており天祇神社とともに境外摂社として現在も地元民に崇敬者が多い。更に天正13年に福島正則が竜野城主となって社殿を造営したが、その際本殿正面に福島正則の氏神熊野権現、右に品陀和気命(八幡宮)左に天津児屋根命(春日神社)を祀り、当地の氏神粒坐天照神社を境内末社にお遷しして三社大権現と改称した。然るに天正15年福島正則がお国替で当地を去る時に熊野権現を新任地へ遷して去ったため、当時の別当は本殿正面に天照大御神をお祀りした。天照大御神を中央に八幡宮、春日神社を相殿で祀る形式を三社託宣形神社と称し当時よく行われた様式であるが、氏神は末社として現在の大神宮の社に祀られたまゝであった。大神宮と菅原神社の前に手水石が.あるのはその名残である。また神仏混合のため境内に寺院大日山普光寺があった。寛文12年(1672年)に脇坂安政竜野城主となり以後歴代城主や氏子崇敬者の尊崇厚く神域も次第に拡げられ、数多くの境内末社を勧請合祀してきた。しかし度々火災に逢い地域の経済力も衰え一時は微々たる社殿となった時期もある。降って明治元年(1868年)神仏分離が行われ普光寺は境外へ移し明治7年には粒坐大神を本殿に迎え、三神を今の大神宮へ遷し奉って日山神社と改称したが、明治12年(1879年)に粒坐天照神社と社号を旧に復し今日に及んでいる。昭和20年に不幸にして本社殿が再度類焼の災に逢ったが、まず神殿、幣殿、祝詞殿は昭和37年に再建された。続いて平成6年(1994年)が当神社創立1400年に当たるのでその式年記念事業として、最初に拝殿と社務所が昭和56年(1981年)に遷座四百年記念をかねて建て改められ、続いて絵馬殿の屋根の葺き替え、すべての境内神社社殿の点検修理、玉垣の補修、一の鳥居の分解再組み立て、石段手摺の設置、東三社鞘殿の建設、土俵西の排水工事と随身門の改修を行い、最後に菅原神社と大神宮の北側に石崖の建設を終わり、創立1400年をめでたく迎えることができた。現在では農業特に米作りの神を主祭神とし、十四の末社に神道の中心に坐す天照皇大神を始め食物管理、調理の神を始め学問文筆、交通安全、戦争、厄除、医薬、商業、防火、火の管理、思慮分別、工業職人の神、安産、裁縫、日常生活の守り神と二十五柱の神々を奉斎してある。
祭神に関する伝承
天照国照彦火明命(アマテルクニテルヒコホアカリノミコト)
天照大御神の太子である正哉吾勝勝速日天之忍穂耳命の御子にして瓊瓊杵命の兄君におわす。篤農特に米作りの神にして穂赤熟命の字も当てる。尾張氏の祖神と云われている。
天照大御神(アマテラスオオミカミ)天照皇大神とも申し上げる
伊弉諾・伊弉冊二神の御子の中、伊弉諾命が橘の小戸にて御禊の際、左の御目を洗い給いし時になりませる姫君で、月夜見命、須佐之男命とともに三貴子と呼ばれる神々の中第一番の御子。光華明彩、父大神のあと天の下を照し給ひ高天原を統べ給いし神道の中心の神。皇室の祖神として伊勢神宮、内宮に祀らる。
天津児屋根命(アマツコヤネノミコト〉
高衢産巣日神の御子で才気渙発、高天原の重大会議に必ず参画され議して成らざるなしといわれる。春日神社の祭神,思慮分別の神。品陀和気命(ホンダワケノミコト)
仲哀天皇、神功皇后の御子で応神天皇におわす。厄除と戦争の神で各地に八幡神として祀らる。
菅原道真命(スガワラミチザネノミコト)
野見宿禰の後裔.学問文筆の神で天満宮として各地に祭らる。
伊弉諾命・伊弉冊命.(イザナギノミコト.・イザナミノミコト)
八百萬神の勅を受け大八州、六つの.小島と多くの神々を生み給ひし夫婦の神。国産みと黄泉の国の伝説がよく知られている、伊弉諾命は防火の神で伊弉冊命は安産の守り神におわす。
八衢彦命・八衢比売命(ヤチマタヒコノミコト・ヤチマタヒメノミコト)
道祖神として知られ庶民日常生活の守護神で夫婦の神。
保食神(ウケモチノカミ〉
国津神で調理の女神、誤解がもとで月夜見命に斬らる。天照大御神、いたく惜しみ手厚く弔意を表ぜらる。
手置帆負命(タオキホオイノミコト)
天照大御神が天宕戸に隠れ給いし時、再びお迎えする為、木を伐り御殿を建て、その後笠や棚を作るを業とし給う。大工、樵、材木商を始め職人の神とさる。手置とは手や指を拡げて長さを測る意。
倉稲魂命(ウカノミタマノカミ)
須佐之男命の姫君で食物を庶民に配分し給う神である。
市杵島姫命(イチキシマヒメノミコト)
須佐之男命の姫君で裁縫に長ぜられ、衣服裁縫の神としであがめられている。厳島神社の祭神。
大物主神(オオモノヌシノカミ)
瓊瓊杵命とも大国主命の和魂ともいわれ海上航行、交通安全守護の神である。
上筒男命・中筒男命・底筒男命(ウワヅツオノミコト・ナカヅツオノミコト・ソコヅツオノミコト)
伊弉諾命の御子で兄弟神、海上渡航と海戦の守り神におわす。
火産巣日神又の御名火迦具土命(ホムスビノカミ・ホカグツチノミコト)
火の神で伊弉冊命が最後にこの神を産み、身を焼かれて崩じ給いしという。
事代主命(コトシロヌシノミコト)
大国主命の御子、国譲りの議にてこの国土を皇孫に譲り給えと主張し給う、通称恵美須大神で商売繁盛の神として祭らる。綿津見神は、梅上支配の神としての御名である。
少名毘古那命(スクナピコナノミコト)大名持命(オオナモチノミコト=大国主命の又の御名〉
天津神と国津神であるが兄弟の契を交され力を協せて医薬の知識とマジナイを教え傷病に苦しむ数多くの大衆を救い給いし医薬の神また、少名毘古那命は安産と婦人病の守り神ともいわれる淡島神社の祭神で、大国主命は出雲の神ともいわれ縁結びめ神でもある。
境内の建造物、奉納品、文化財等
先述の各社殿の他
絵馬殿、随神門、舞殿、社務所、手水舎、神馬舎など、また鳥居五基、神馬一体、神牛一体、狛犬七対
石燈籠五十基以上、釣燈籠、二対、手水石四基、土俵一面、井戸四ケ所
絵馬百二十点以上、記念碑五基、玉垣多数
石の建造物では、寛文六年の鳥居が最古で、燈籠、狛犬、手水石等、各年代のものがある。
絵馬額の中には、竜野城主奉納が確認できるものが五点。その他年代が確認できる最古のものは、元文のものであるが、それより古いと思えるものが多い。古い竜野のたゝずまいや、昔の服装、風俗を示すもの。厳島神社勧請の際、本社の絵馬を模写したもの。大相撲の掲額、伊勢参宮記念、詩歌、裁縫の社中の掲額、柔道々場奉納のもののほか、個人、団体が献じたものが数多く、奉納の縁起、構図、色彩等変化に富み、中でも鉄砲術の額はその道の人によく知られている。
記念碑には、松尾芭蕉などの句碑のほか、全国に作られた神力稲の発見者圓尾重次郎の顕彰碑が有名である。
湧泉信仰の語り伝え
神霊降臨の地、天津津祀神社は山頂近くにもかかわらず、傍に常に清水のわいている小泉がある。昔から神道祭紀には水が欠かせないものである。また古宮神社の囲りにも絶えず湧水がありこの水は肌のあれや、疵に特効があって、地元民はこれを嬉び信仰の対象とし、その偶像として境内の巨岩に注連縄(シメナワ)を張っている。また日山の現在地では本殿の西に湧泉があり、雨が降り続いても溢れず、干天が続いても洞れず、いつも澄んだ清水を湛えている。農業の守護神である天照国照彦火明命は農業に不可欠の水も併せて守られている証しとされ、湧泉信仰の対象の神とも信じられている。天津津祀神社がアマガミサマと呼ばれているのも故あることである。

由緒書



粒坐天照神社

人皇第32代崇峻天皇、第33代推古天皇の御代、今のたつの市に伊福部連駁田彦という長者あり。邸の裏に杜がありて、推古天皇2年(594)、輝くもの現われる。曰く、「我は天照国照彦火明命の使である。天火明命の幸御魂はこの地に鎮まり、この土地と人々を守り給うて既に千年を越ゆ。今汝の正直、誠実なるに感じ給い天降りまして神勅を授けようとされている。神勅を奉戴し新しい神社を造営して奉祀せよ。すなわち、今ここに種稲を授け給う。これを耕作すれば汝の田のみならずこの里全体に豊かに稔り、この土地は永く栄えてゆくであろう。」と。昇天して去り、あとに種稲が残されていた。
 この神勅を尊み奉戴することを誓うと、一夜にして千頂もの水田ができた。
 駁田彦が中心となり神社を建立奉斎し、またこの水田に授かった種稲を耕作すれば大豊作となり一粒万倍したという。
 以後この土地は米粒を意味するイイボ(揖保)の郡と呼ばれた。人々は嬉び感謝し、この神社を粒坐天照神社と称して氏神と崇めた。

兵庫県神社庁



粒坐天照神社

縣社粒座天照神社
鎮座地 龍野町日山
【播磨鑑】樋山村 昔ハ在小神村故ニ大神村ト云へり
【特選神名牒】伊保庄日山村(揖保郡東栗栖村大字日山)
【神祇志料】伊保庄日山村天神山にあり
祭神 天照國照彦大明命
由緒 傳へいふ推古天皇2年4月1日關村の長者駁田彦なる者(揖西郡揖西村ノ内小神村は往古關村と稱せしと口碑に傳ふ)に神託ありて稲種を授け賜ひしを水田に蒔きしに其秋豊熟して一粒萬倍す因つて報賽の爲め創立せし神社なりといふ、稲種萬倍の縁に依りて伊保郡伊保庄と稱す清和天皇貞観元年從五位下勲六等より從四位下となり嘉吉元年兵火に罹りて炎上し文明、明應、永禄年間度々造營ありしも又兵火の爲め回録す天正年間揖西村小神村より遷座して三社権現と改稱し慶長7年社殿焼失せしかば寛永3年之を造營す明治7年2月郷社に列し同15年2月縣社に昇格す同24年幣殿を新築し同27年社務所を新築せり

兵庫県神社誌



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