往昔異国の軍船が当国へ渡来した時、当神社の大神等が松ヶ原の岡(今の陣ヶ岡)に於て、霊験を顕わし夷賊を退治したという。 楊瀬神社は現在相殿として合祀されている。もと安島浦の村落内、大湊神社の御膳水井戸のあつた所に鎭座していて、天正年中社殿等の荒廃により、大湊神社へ合祀したという。 |
大湊神社 この大湊神社は延喜式内社で祭神は、事代主神少彦名命外5柱で、三保大明神とも号せられ後悔、漁業の守護神として、崇敬されています。永禄年間(1558〜1569)朝倉義景は一門の祈願所と定めたが、天正年間(1573〜1591)織田信長の兵火にかかり、社殿はことごとく焼失しました。元和七年(1621)福井二代藩主松平忠直公が武運長久、国家安全の祈願所として再建されたのが現在の大湊神社の本殿であります。この本殿は桃山様式を取り入れた一間社流れ造の柿葺で、中には伊邪那岐命のけやき一木彫の座像が安置されており、建物とともに県指定の重要文化財となっております。 社頭掲示板 |
大湊神社 大湊神社の御祭神 三保大明神(三尾大明神) 事代主神 少彦名神 相殿(式内 楊瀬神社) 天正年間に合祀されたと伝えられる。 大物主神 三穂須々美神 b 合祀 (明治45年6月より、合祀(「ゴウシ」=あわせてまつる)。) 天照皇大神 伊邪那岐神 伊邪那美神 応神天皇 御祭神について 当神社の御祭神は事代主神・少彦名神等で、三保大明神(三尾大明神)とも号せられ、三尾君の祖神とも伝えられている。三尾君とは古い時代にこの土地を拠点に力を持っていた豪族であり、六世紀前半に即位した継体天皇にも関係する名称である。(詳しくは、当サイトの[雑学]継体天皇を参照) 事代主神・少彦名神等は後になってそう云われるようになったのであり、元来は三尾大明神であったのではないであろうかと思われる。三保は三尾に通じ、水尾にも通ずる。 また、古い記録によると、三尾大明神や事代主神・少彦名神等と並べられて彦太押信命(ヒコタオシノマコトノミコト)や石衝別命(イシツクワケノミコト)も御祭神名として記載がある。 石衝別命とは磐衝別命・磐撞別命などとも表記せられ、『日本書紀』によると、垂仁天皇が山背(やましろ)に幸し、山背大国不遅の女(むすめ)綺戸辺を召し生ませた子で、三尾君の始祖とされている。また『古事記』によれば山代大国淵の女、弟苅田刀弁を召し生ませた子であるといい、羽咋君と三尾君の祖という。 石衝別命の六世孫が、継体天皇の母・振媛(ふりひめ)。 彦太押信命とは彦太忍信命・比古布都押信命などとも表記せられ、『日本書紀』によると孝元天皇の妃伊香色謎命の腹に生まれ、武内宿禰の祖父に当ると見える。 式内大湊神社の由緒 当社は白雉年間勤請と伝えられます。延喜式内の古社でありまして、往昔異国の軍船が当国へ渡来した時、当神社の大神等が松ヶ原の岡(今の陣ヶ岡)に於て、霊験を顕わし夷賊を退治し給われしことが、後文武天皇の叡聞に達し、大宝元年2月23日三頭の勅使が当浦に下向されて、三千七百石余の社領を御寄進賜わりました、夫より当社を弓矢の神様と崇め参拝祈願の人々は神前に矢の羽を奉納されることとなりました。殊に海上守護の神様と仰ぎ当港へ輻輳する船舶は必ず当社に参拝されて船の危難除に神前の矢の羽を願いうけて海上安全を祈願する人々が絶えなかったと記されています。 文治2年の秋、源義経公が奥州へ下降される途中当地に止宿され、当社へ参拝されまして家臣亀井六郎重清の兜一領を神前に奉納、一門の武運と海上の安全を祈願いたしました。(兜今ニ宝蔵ス) (公の宿舎は時の庄屋久末七平宅 当社の神主は松村豊尚の代と伝えられています) 後永禄年間朝倉義景公の参拝を賜わり一門の祈願所に定められまして社領など加増せられました。天正年中迄は社家七軒にて社務が執行なわれていましたが、織田信長当国発向の砌 当社の社殿は兵火に罹り社領は又悉く没収されるところとなりましたので、慶長年間迄毎年2月20日より陣ヶ岡に於て、神主村役人等が相集り海上に向って怨敵退治の二タ手(ふたて)の矢の神射式が十日間盛大に執り行なわれましたが、神主等が無禄となりましたので七家の社司の内六家まで余儀無く餘業に転じ、このため当社の特殊神事として古くから伝えられました行事も行ひ難く遂に中絶の巳む無きに至りました。古老の伝えるところによれば天保の頃まで朧げながらもその古実の遺風をとどめ海上に向って 「ヤヤノオカカノカドサンテ シュー」 と一声に唱えて矢を射られたと 又この状形を詠まれた歌に 弥生三日浜のわらべの歌声に ややのおかかのかどさせと呼ぶ (天保3年古老の記録) 右の神事が行なわれたと伝えられる陣ヶ岡の遺跡に今も儀式に用いられた名称が地名、字名となって残されています。 その後福井藩主松平忠直公が当社の由緒等御取調べになりまして、社殿の御造営 並びに高二拾石の御社領が寄進され領内大社十四社の内の祈願所に定められまして、一門の崇敬厚く、ここに漸く社務も復興しましたので、古実に因みまして、それより嵩村を御旅所と定め毎年2月20日、21日(現在は3月20日、21日)の両日に改め神領拾ヶ村を各村送りで神事祭が行なわれるやうになりましてより現在尚奉仕されておりますのが、お獅子さまで親しまれてきました当社の春の御渡の神事であります。こうした信仰を中心とされた行事のもとで、神領雄島の村の広大な土地の支配が行なはれました荘園時代の古い制度の名残が偲ばれ、村内の文化の中心地であったかがうかがわれます。 明治8年旧敦賀県より郷社の社格を賜わり、同41年幣帛供進社に指定せられました。同45年6月、元無格社大神宮祭神 天照皇大神・伊邪那岐神・伊邪那美神、元境内社八幡宮祭神 応神天皇を合祀しました。 旧HP http://www.net24.ne.jp/~oominato/01/index.html |
大湊神社 当社は白雉年間勤請と伝えられます。延喜式内の古社でありまして、往昔異国の軍船が当国へ渡来した時、当神社の大神等が松ヶ原の岡(今の陣ヶ岡)に於て、霊験を顕わし夷賊を退治し給われしことが、後文武天皇の叡聞に達し、大宝元年2月20日三頭の勅使が当浦に下向されて、三千七百石余の社領を御寄進賜わりました、夫より当社を弓矢の神様と崇め参拝祈願の人々は神前に矢の羽を奉納されることとなりました。殊に海上守護の神様と仰ぎ当港へ輻輳する船舶は必ず当社に参拝されて船の危難除に神前の矢の羽を願いうけて海上安全を祈願する人々が絶えなかったと記されています。 文治2年の秋、源義経公が奥州へ下降される途中当地に止宿され、当社へ参拝されまして家臣亀井六郎重清の兜一領を神前に奉納、一門の武運と海上の安全を祈願いたしました。(兜今ニ宝蔵ス) (公の宿舎は時の庄屋久末七平宅 当社の神主は松村豊尚の代と伝えられています) 後永禄年間朝倉義景公の参拝を賜わり一門の祈願所に定められまして社領など加増せられました。天正年中迄は社家七軒にて社務が執行なわれていましたが、織田信長当国発向の砌 当社の社殿は兵火に罹り社領は又悉く没収されるところとなりましたので、慶長年間迄毎年2月20日より陣ヶ岡に於て、神主村役人等が相集り海上に向って怨敵退治の二タ手(ふたて)の矢の神射式が十日間盛大に執り行なわれましたが、神主等が無禄となりましたので七家の社司の内六家まで余儀無く餘業に転じ、このため当社の特殊神事として古くから伝えられました行事も行ひ難く遂に中絶の巳む無きに至りました。古老の伝えるところによれば天保の頃まで朧げながらもその古実の遺風をとどめ海上に向って「ヤヤノオカカノカドサンテ シュー」と一声に唱えて矢を射られたと 又この状形を詠まれた歌に 弥生三日浜のわらべの歌声に ややのおかかのかどさせと呼ぶ (天保三年古老の記録) 右の神事が行なわれたと伝えられる陣ヶ岡の遺跡に今も儀式に用いられた名称が地名、字名となって残されています。 その後福井藩主松平忠直公が当社の由緒等御取調べになりまして、社殿の御造営 並びに高二拾石の御社領が寄進され領内大社十四社の内の祈願所に定められまして、一門の崇敬厚く、ここに漸く社務も復興しましたので、古実に因みまして、それより嵩村を御旅所と定め毎年2月20日、21日(現在は3月20日、21日)の両日に改め神領拾ヶ村を各村送りで神事祭が行なわれるやうになりましてより現在尚奉仕されておりますのが、お獅子さまで親しまれてきました当社の春の御渡の神事であります。こうした信仰を中心とされた行事のもとで、神領雄島の村の広大な土地の支配が行なはれました荘園時代の古い制度の名残が偲ばれ、村内の文化の中心地であったかがうかがわれます。 明治8年旧敦賀県より郷社の社格を賜わり、同41年幣帛供進社に指定せられました。同45年6月、元無格社大神宮祭神 天照皇大神・伊邪那岐神・伊邪那美神、元境内社八幡宮祭神 応神天皇を合祀しました。 公式HP |
楊瀬神社 当社は大物主神、三穂須々美神を祀る式内社であります。 天正年間に至り社殿が大破しましたが復興の途なく、当大湊神社に合祀されたと伝えられています。その宮跡をヤナギ屋敷と唱えていましたが、今は民家の敷地となっています。 その傍わらに大井戸がありまして此の井戸の水は如何なる旱魃と雖も涸れることがありません。是を以って当社の御膳水とされていました。その縁を以って今に堂川と呼ばれています。此辺りに神座石と称する石がありまして、この地より鳥居燈籠などの破損したものが堀出だされ、古くは大湊神社の御輿渡行の節、この旧跡へ御駐輦されたことが伝えられています。 明治九年旧敦賀県より楊瀬神社の称号を賜わりました。 HP http://www.net24.ne.jp/~oominato/01/s_1/07.html |
楊瀬神社 楊瀬神社勧請等不詳。天正年間社殿等大破二相成、本社大湊神社工合祀シタルト、古老ノロ碑二傳ハル。往古ヤナギ屋敷ト唱(今ヤマ屋敷トモ云テ、民家ノ敷地トナル)其傍ラニ大ナル井戸(此井戸ノ水如何ナル旱魃卜雖モ曽テ涸ルコトナシ。平生是ヲテ当社ノ御膳水トス。其由縁ヲ以テ御膳水井戸ト云、又堂川卜云)、是邊二神坐石ト唱ル石有リ。又其地ヨリ破損シタル灯籠ノ類、鳥居杯ヲ掘出シタル事アリ。「(中略)然ル処、旧敦賀縣ノ時、當社ノロ碑及社地ノ旧跡等取調ノ上、明治九年二月楊瀬神社ノ號ヲ賜ル。 大湊神社 神社明細帳 |