大湊神社
おおみなとじんじゃ


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【由緒】

創立の年月不詳。 白雉年間(650〜)の勧請と伝え延喜式内の古社である。
往昔異国の軍船が当国へ渡来した時、祭神安島浦三保大明神が現在の陣ヶ岡の地松ヶ原の岡にて於て霊験を顕し夷賊を退治されたという。
此の事が後日文武天皇の叡聞に達し大宝元年(701)2月20日三頭の勅使が当地に下向され、3,700余石の社領を寄進された。
これより弓矢の神として崇め諸人が参拝祈願の際に弓矢を奉納する様になった。
殊に海上守護の神としても仰がれ、当浦や三国港等に寄港する船舶は必ず参詣し船の危難除に神前の矢羽を願い受けて海上安全を祈願したという。
文治2年(1186)の秋、源義経が主従と共に奥州へ下降に際し当地に止宿して参拝し家臣亀井六郎重清の兜一領を奉納し一門の武運と海上安全を祈願した。
永禄年間(1558〜)朝倉義景は一門の祈願所に定めて参拝し社領を加増した。
天正年中(1573〜)迄は社家7軒で社務が執り行われてきたが織田信長の兵火にかゝり社殿は焼失し社領も没収された。
このことから慶長年間(1596〜)まで毎年2月20日より10日間陣ヶ岡で神主や村役人が集り会場に向って怨敵退治の「二タ手の矢」の神射式が行われてきたが、神主等が無禄になり7家の社司の内6家までが他の職に就いて特殊神事は中絶した。
しかし古老の伝では「ヤヤノオカカノカドサシテ シュー」と一声を唱えて矢を放つ神事は天保の頃(1830〜)まで細々と続けられたという。
第2代福井城主松平忠直は当社の由緒等を調べ、社殿の造営と20石の社領を寄進し領内大社14社の内の祈願所に定めた。
代々藩主の崇敬も篤く社運は隆昌し社務も復興した。
嵩村を御旅所として神領十ヶ村を各村送りでする神幸祭は「お獅子さま」で親しまれる春の御渡り神事等郷内の文化の中心であった当社は、明治8年2月10日旧敦賀県に於て郷社に列せられ、同41年4月26日幣帛供進神社に指定された。
同45年6月8日同浦道間瀬垣内にあって天照皇大御神・伊邪那岐尊・伊邪那美尊を祀る無格社大神宮及び品陀別尊を祀る境内社の八幡神社を合併合祀。

相殿 楊瀬神社
 式内社である当社は、天正年間(1573〜)大破し復興の途が立たず大湊神社に合祀されたという。
その宮跡をヤナギ屋敷と呼んでいる。
此の屋敷の傍にどのような旱魃にも涸れない大井戸があり大湊神社の御膳水となっていた。
この縁から堂川とも称した。
またこの地に神坐石という石があり往昔は大湊神社神輿渡御の節は駐輦されたと伝えている。
宮地からは鳥居・燈籠などの破片が掘り出された。
このような旧跡の遺物や口碑を調査の上明治9年2月楊瀬神社の称号を賜った。
 社宝の安島浦三保大明神寄進状は大宝元年で御神徳の往昔の故実を記し、元和7年(1621)松平忠直の寄進状には安島・梶・崎・宿の4浦と平山・西谷・嵩・覚善・滝谷・米ヶ脇の6村の神領等が記されている。

福井県神社庁



大湊神社

式内大湊神社縁起 号中古三保(三尾)大明神
御祭神
三保(三尾)大明神 石衝別命 事代主神 少彦名神
相殿
大物主神 三穂須々美神(元式内楊瀬神社)
合祀
天照皇大神 伊邪那岐神 伊邪那美神 元大神宮
仝 応神天皇 元八幡宮
鎮座地 福井県三国町安島
例祭
4月20日春の雄島祭
10月20日秋祭
神幸祭 3月19〜21日お獅子祭
御由緒
当社は白雉年間勧請と伝えられます。延喜式内の古社でありまして、往昔異国の軍船が当国へ渡来した時、当神社の大神等が松ヶ原の岡(今の陣ヶ岡)に於て、霊験を顕わし夷賊を退治し給われしことが、後文武天皇の叡聞に達し、大宝元年2月20日三頭の勅使が当浦に下向されて、三千七百石余の社領を御寄進賜わりました、夫より当社を弓矢の神様と崇め参拝祈願の人々は神前に矢の羽を奉納されることゝなりました。殊に海上守護の神様と仰ぎ当港へ輻較する船舶は必ず当社に参拝されて船の危難除に神前の矢の羽を願いうけて海上安全を祈願する人々が絶えなかったと記されています。文治2年の秋源義経公が奥州へ下降される途中当地に止宿され、当社へ参拝されまして家臣亀井六郎重清の兜一領を神前に奉納、一門の武運と海上の安全を祈願いたしました。(兜今ニ宝蔵ス)(公の宿舎は時の庄屋久末七平宅当社の神主は松村豊尚の代と伝えられています)
後永禄年間朝倉義景公の参拝を賜わり一門の祈願所に定められまして社領など加増せられました。
天正年中迄は社家七軒にて社務が執行なわれていましたが、織田信長当国発向の砌当社の社殿は兵火に罹り社領は又悉く没収されるところとなりましたので、慶長年間造毎年2月20日より陣ヶ岡に於て、神主村役人等が相集り海上に向って怨敵退治のニタ手の矢の神射式が十日間盛大に執り行なわれましたが、神主等が無禄となりましたので七家の社司の内六家まで余儀無く余業に転じ、このため、当社の特殊神事として古くから伝えられました行事も行ひ難く遂に中絶の巳む無きに至りました。古老の伝えるところによれば、天保の頃まで朧げながらも、その古実の遺風をとどめ海上に向って
「ヤヤノオカカノカドサシテシュ」
と一声に唱えて矢を射られたと又この状形を詠まれた歌に
弥生三日浜のわらべの歌声に
 ややのおかゝのかどさせと呼ぶ
  (天保3年古老の記録)
右の神事が行なわれたと伝えられる陣ヶ岡の遺跡に今も儀式に用いられた名称が地名、字名となって残されています。
その後福井城主松平忠直公が当社の由緒等御取調べになりまして、社殿の御造営、並びに高二拾石の御社領が寄進され領内大社十四社の内の祈願所に定められまして、一門の崇敬厚く、こゝに漸く社務も復興しましたので、古実に因みまして、それより嵩村を御旅所と定め毎年2月20日、21日(現在は3月20日21日)の両日に改め神領拾ヶ村を各村送りで神幸祭が行なわれるやうになりましてより現在尚奉仕されておりますのが、お獅子さまで親しまれてきました当社の春の御渡の神事であります。こうした信仰を中心とされた行事のもとで、神領雄島の郷の広大な土地の支配が行なわれました荘園時代の古い制度の名残が偲ばれ、郷内の文化の中心地であったことがうかがわれます。
明治8年旧敦賀県より郷社の社格を賜わり、仝41年幣帛供進社に指定せられました。
仝45年6月元無格社大神宮 祭神天照皇大神伊邪那岐神伊邪那美神元境内社八幡宮祭神応神天皇を合祀しました。
相殿 式内楊瀬神社由緒
当社は大物主神三穂須々美神を祀る式内社であります。
天正年間に至り社殿が大破しましたが復興の途なく、当大湊神社に合祀されましたと伝えられています。その宮跡をヤナギ屋敷と唱えていましたが、今は民家の敷地となっています。その傍わらに大井戸がありまして此の井戸の水は如何なる早越と雖も曽って澗れることがありません。是を以って当社の御膳水とされていました。その縁を以って今に堂川と呼ばれています。此辺りに神座石と称する石がありまして、この地より鳥居燈籠などの破損したものが掘出だされ、古くは大湊神社の御輿渡行の節、この旧跡へ御駐輩されたことが伝えられています。
明治9年旧敦賀県より楊瀬神社の称号を賜わりました。
○社殿(県重要文化財指定)
本殿正面六尺奥行五尺の小さなこの神殿は、柿葺(こけらぶき)で流造り向拝の柱は、樫材が用いられておりますが建造物の柱梁等には濃彩な文様装飾が施されていて桃山風のなごりをとどめております。本殿完成の棟札に、元和7年、願主越前藩主二代忠直、大工石井備中守宗行の銘があります。
鞘堂は文政2年に建造されました。
○拝殿正面五間奥行三間の一重入母屋造りで銅板葺の床板張りに造られております。本殿と同時に藩主忠直公の造営でありまして、桃山風のなごりをとどめております。記録によれば正徳5年延享4年文政2年明治10年にそれぞれ修復されておりますが、最近とくに屋根の部分が甚たしく破損しましたので、昭和47年度より文化財補助事業として施工することとなり、その監理は東大名誉教授工学博士藤島亥次郎先生の指導のもとに復元されたものであります。(県重要文化財)

由緒書



太古の出雲系祭祀と高志の津々浦々の譜

太古の出雲系祭祀と高志の津々浦々の譜
「高志」であり「越」とも呼ばれてきた古代の北陸地域は、水稲作に極めて適した低湿地帯の平野と半島の韓人たちが認知していたものと考えられる。特に六、七世紀の越前は、朝鮮半島から渡来する渡来人たちには、誰彼なしに日野川、足羽川、九頭竜川などの扇状地に水稲耕作地を開田へと転用していったものと推考することができる。
即ち日本列島に渡来してきた人々の生活の形態が、越の国である北陸地域の社会基盤を次第に変革し、日本海沿岸の地域から水稲稲作を農業基盤の社会へと推移していったのであろう。
即ち初期大和政権へと社会機構が生れつつある以前は、出雲文化が日本列島の古層として列島各地に伝播し、波動し続けていたと思われる。その地域として日本海沿岸の越の国も含まれるのである。出雲系の神話であったり、信仰の形態であったり、風習とか、大和地域以上に住民の暮らしの中で伝播していたように古代史を推考させられる事例に、私たちの集落の歴史風土が暗示している。即ち『出雲国風土記』もその一例にあげられる。
また大和政権以前の弥生時代中期頃には、『乗鯨神來』第六号で記載した福井県坂井市(旧大石村)春江町井向出土の井向一号銅鐸に表現されている文様は、弥生時代中期頃の今から二千年以前の弥生人の日本海沿岸に生きた海人の暮しの姿を描いているものである。特にこの銅鐸が本県から出土したことで、大陸交易と極めて深い関わりを暗示している物件と云える。
越の国の弥生時代の前、中期頃の交易は、海民たちの日本海沿岸と対岸に押し寄せてくる大陸文化の数々の不思議な天国てあり、高天原の時空に接し、九州や出雲州の人々は、新しい時代の列島を夢みて、日本海沿岸の北海に活動する「高志」、「古志」、「越」と呼ばれる地域の海民と交易し、越の州の人々の文化を出雲地域の人々も旺盛に関心を高めあっていたものと推考できるのてある。それは、恰も幕末から明治の時代の欧化主義のように西欧文明の受容に国をあげて対処し、一にも二にも西欧文明への開眼に無我夢中の世相を生んだ。そして文化はすべて西欧文明を軸に地球の世界を消耗させ、自然を傷めてきたことも事実である。 近代の日本列島は、日本海を視野に入れず常に西欧文明の受け入れロは、太平洋となり日本列島に表と裏の二つの地域を生み、日本海は、眠りについている。しかし今こそ太古の日本海のごとく対岸の大陸の地の利を有効に活用して、共に活気ある東洋でありアジア的エネルギと仏教などの世界に秀でた創造の魂と哲学をぜいたくに駆使した世界とならねばならない。そのことを太古の出雲と越の歴史の関わりが、現今の私たち日本列島に投げかけているのである。
古代出雲の神々が求めた水のよう流れる美保の女神
即ち大和の国に政権が確立しない時、出雲国の文化は、越州の広い地域と日本海沿岸の交易を地の利として深く関わっていたことを、『出雲国風土記』が物語っているのである。その太古の出雲神話の中で、出雲の国造りの際にヤチホコの神である大国主命は、出雲に国引きしたい地域として韓半島では、新羅の国。てあり、日本列島では、高志の国を出雲に国引きしたいとも記されてこと。てある。即ち「高志の都々(ツツ)の三埼(ミサキ)』から出雲国に引き寄せることが理想であった。この「都々」は、大湊神社の歴史とも関わり深い能登半島の通称「珠洲岬」を指しているとも云われている。それに古代の能登半島は、勿論越前でもあった。この能登半島の北の先端に近い処に珠洲岬があり能登の須須神社が鎮座されていて、そこには出雲国島根郡美保郷の美保神社に祀られている大国主命と奴奈宣波比売命の間に生まれた御穂須須美命を主祭神としているのである。即ち大国主命が、越の国に住んでいた美麗な女神の奴奈宣波比売命を尋ねて越の国に出かけたことを『出雲国風土記』は詳細に描写している。そしてこの女神を嬰(めと)って生まれた神様は女神の御穂須須美命であった。この女神は、能登の珠洲岬の須須神社にも祀られているが、不思議なことに当社の相殿として太古の時代から戦国の朝倉時代が終焉するま。て安島浦の堂川に鎮座した楊瀬神社の祭神が『出雲国風土記』の中で述べられている御穂須須美命なのである。しかもこの神様の女神像が大湊神社に現存し、鎌倉時代初頭の木彫として文化財指定の物件として保存されているのである。
母神が越の美麗な容姿であったようにその御穂須須美命の女神も、極めて美しい女神様の容姿を刻み込んだ優品と云えよう。それに御穂須須美命は、全国的にも極めて稀有な女神様として祀られている。その意味からもこの神様の像容は貴重な物件でもある。それにこうした御穂須須美命が、越前では大湊神社の相殿の式内社楊瀬神社の主祭神として太古より奉斎されてきた歴史的背景にも注目できよう。即ち越州と出雲との文化的な関わりが、太古から密に結ばれていたのであろう。
従ってその結果として大国主命系神々を祭祀する文化が北陸地域の津々浦々に深く関わり合っていることである。即ち越と出雲との海上交易による歴史がこの両者の間に結ばれてきたものと推考できる。
更に楊瀬神社の旧境内は、今でも地下からの湧き水が出る処で写真(三頁)の如く昔からこの湧水は、眼の疾患によく利く霊水として用いられ、楊瀬神社の社殿と深く関わった霊水で、その社殿の辺りから湧水することから堂川と呼んで現在に至っている。
それにこの湧水は、如何なる旱魅。てあっても澗れることなく、大湊神社の御膳井戸水として少なくとも千年以上の古い時代から楊瀬神社の霊水であったのであろう。
このように楊瀬神社の祭神が先づ御穂須須美命を中心に出雲系の祭神を祀っている処が多いの。てある。即ち出雲と越の州の太古からの歴史的な祭祀となって遣存しているものと判じられるのである。その意味では大和地域の祭祀文化と歴史的な時間のながさが異なっているのである。
それにこの楊瀬神社の霊水のことを「天乃真名井」即ちアマノマナイと呼び『出雲国風土記』の中にも出雲にアマノマナイ神社が、数社存在したことが記されているが、この霊水は、龍神、信仰とも密接に深く関わっているものと思われるのである。
また龍神ばかりでなく蛇神とも結びついた霊力に長けた湧水で、深い信仰を保持してきた天乃真名井であったと言える。

式内大湊神社神主 松村忠祀






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