戦乱などによって中世にはかなり衰微していた。江戸時代には山王宮(通称おさんのさん)とよばれていたが現在の社殿は天保の大飢饉のとき難民救済の事業として、三国湊の豪商内田惣右衛門らが境内整備とともに改築を行い、天保10年(1839)に完成したもの。 毎年、5月19〜21日に行われる福井県の三国祭は、北陸三大祭として知られ、約10万人ほどの観光客で賑わう。 |
三国神社 男大迩天皇(継体天皇)は、御即位前三国湊に宮居を定められ、治水のほか多年の御蓋力があつて、この地より起たれて帝位に即かせられた。崩御の後、その御旧縁をもつて朝廷より天皇の御神霊を三国の地に鎭め祭らせ給ふこととなつたが、これが式内三国神社の創祀である。三国神社は、その後次第に衰退し神官も絶え果て、わづかに正智院の僧が大山咋神とともに守護するところとなつたが、浦人挙げて大山咋神の神威を仰いで山王権現と唱え、三国神社の旧号は隠滅するところとなつた。 式内社調査報告 |
三国神社 この神社は古代においては延喜式にその名を見られる式内社である に、白山千手寺の正智院が大山祇命を奉祀したところ厚い信仰を受け、近世になり、境内を広げ、大造営を行い、山王宮と称した。 明治期に入り、継体天皇を合祀し古名の三国神社と復称した。毎年5月20日に行われる祭礼三国祭は北陸三大祭りの1つととされ、4m大の人形をのせた山車が曳かれ多くの人で賑わう。 社頭掲示板 |
三国神社 祭神 大山咋命 継体天皇 延喜式所載の式内社である。 天文9年(1540)湊の住人・板津清兵衛が高柳村より流れて来た御神体を拾い上げ正智院に納める。 天文13年(1544)院主・澄性小社を建立。 さらに、永禄7年(1564)澄性の弟子・澄元國中を勧進し桜谷を開き社地を開発・山王宮を建立する。 この山王宮の祭神が先に高柳村より流れ来た御神体・大山咋命(山王権現)である。 明治2年山王宮を桜谷神社と改める。 明治5年興ケ丘にあった、水門宮の御神体・継体天皇を桜谷神社に合祀をする。 さらに、明治18年に三國神社と改称し、現在に至る。 公式HP |
三国神社 県指定文化財 紙本墨書 木立神社立願文 一巻 三国の人たちが、福井藩第十六代藩主松平存嶽の徳を慕い.春嶽を祭神とする木立神社を建立した際、春嶽自身が神に願をかけるために書いた文章。左の太刀はその折に奉納されたもの。 太刀(銘、守次)一口 この太刀は手法等からみて、南北朝の作と推定される。 町指定文化財 本殿向拝の群猿像及び奉納神馬像 江戸末期に活躍した当町の名工、志摩乗時と島雪斎の手によるものである。 福井県・三国町 社頭掲示板 |
三国神社 社傳によれば、當社の鎭座の次第は左のとほりである。三國山王社は、中世期三國湊の惣氏神と崇められた観音堂の別當正智院が、大山咋神を感得して奉祀するところとなり、天文9年(1540)頃より本格的に社殿が整備され、浦人から盛んな信仰を受けるに至つた。永禄年間(1558-70)一向一揆の兵乱により荒廃したが、幕末天保7・8年(1836.7)に至り、現在地櫻谷山を開地して大規模な社殿造営が行はれ、天保10年3月新社殿に遷座した。これが、眞言宗性海寺末正智院を別當とする日吉山王社である。一方、男大迩天皇(継体天皇)は、御即位前三國湊に宮居を定められ、治水のほか多年の御蓋力があつて、この地より起たれて帝位に即かせられた。崩御の後、その御旧縁をもつて朝廷より天皇の御神霊を三國の地に鎭め祭らせ給ふこととなつたが、これが式内三國神社の創祀である。三國神社は、その後次第に衰退し神官も絶え果て、わつかに正智院の僧が前記大山咋神とともに守護するところとなつたが、浦人挙げて大山咋神の神威を仰いで山王権現と唱へ、三國神社の旧號は隠滅するところとなつたといふのである。 維新後の明治3年12月、山王社では福井藩に封し、社名を式内古名に復し三國神社と改称したい旨願ひ出た。しかし、藩はこれを許さず、別當正智院に復飾を命ずると共に、鎭座地の名にちなんで櫻谷神社と称するよう命じた。櫻谷神社が希望どほり三國神社と改称する許可を得たのは、明治18年5月のことである。 社頭掲示板 |