三国神社
みくにじんじゃ


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【由緒】

『神社明細帳』『福井県神社誌』に「男大迹天皇(継体天皇)が、坂井中高向から三国の地へ御移住になって、治水・排水の難事業を克服されて開港の精華を得られたのは、宝算49年の御時であったと伝えられている。
 小泊瀬天皇(武烈天皇)が崩御された時に大伴金村大連等の御迎えを受けられて天位におつきになった。
 三国の地は、久しく御潜龍になられた御旧縁の地であるからと継体天皇が崩御の後、朝廷より、神霊を鎮め祭られたのが三国神社で、三国山に鎮座された。
 しかし、時移り乱世となって兵燹の災に罹ること両度にて社域荒廃し、神官も絶え果てて、三国山に隣接する正智院の修験僧が守護するようになってから三国神社の社号は傍へ置き忘れられてしまった。
 大山咋命を、正智院の感得によって天文9年(1540)頃から山王山(旧三国山)に奉斎し、山王権現と唱え奉った。
権現の神威が著しかったので氏子を始め一般の信仰が、盛んになった。
 天保7・8年(1636・37)に旧社殿が老朽化したので、桜谷山の東方を新たに開拓して、神社殿を造営して、天保10年(1639)3月11日遷座した。
 この社が、昔の三国神社であり、中世の山王宮であり、今の桜谷神社である。
 三国神社の旧社地の三国山には、大き巌を居き鳥居を建てて古蹟として残されている。
 水門神社は、継体天皇御在位中に三国の人々が天皇の御恩徳を景慕し、寿像を彫刻して御宮所の趾に一社を建て、秘に祭祀したのがはじまりである。
 大永3年癸未(1523)に性海寺十世弁雄が水門神社の荒廃を痛み、石材に神像を刻み、石造りの祠に納めて御神徳を顕彰した。
また、文政5年壬午(1822)に田中文吉が誠心をもって歓進して拝殿を建立し、船形の神輿を造って8月15日の祭典には、水門口まで渡御されることとなった。
 慶應元年(1865)に越前の大守松平慶永卿が桜谷神社へ参拝の後に水門神社に奉幣されたので、人々は御祭神の御神徳を称え奉って、神殿を改築する議が明治5年に起り、準備が進められたが、往古の三国神社は、朝廷が男大迹天皇を祭祀された旧社であるから、今社殿を建立して人々の信念を二つに分つのは恐れ多いこと故“神慮を伺うべし”ということになって“問ひ奉りし”が、“相殿に鎮座すべし”とのことにて、神殿建設の議は、沙汰やみとなった。
 朝倉家以来松平家に至るまで代々の藩主の崇敬が篤く、奉納、寄進の品々や古文書など社宝として保存されていたが、永禄年間(1558−70)の火災に焼失してしまった。
 明治8年4月30日に県社に列せられ、明治41年4月26日に神饌幣帛料供進の神社に指定された。
 明治11年に明治天皇が北陸道御巡幸の際、「井上馨参議が代拝された。」と記載してある。

福井県神社庁



【三國神社例大祭】

三国祭は毎年5月19日から21日まで行われる三國神社の例大祭である。中日の20日には、巫女、まとい、武者、獅子、太鼓、鉾、旗など神社関係一行と大小の神輿を中に挟んで、計6基のヤマが三國神社鳥居下から順に町内を巡行する。
  現在約30の町内が、単独あるいは数町合同で合計18基のヤマを所有している。地区を神社から近い順に4つの部に分け、一、二の部から各2基、三、四の部から各1基、計6基のヤマが毎年出る。ヤマを出す当番区を「やまばん」といい、町内によって3年毎、6年毎、8年毎にめぐってくる。
  ヤマは露天二層から成り、上段に巨大なはりぼて人形を飾り、下段には囃子方が乗る。ヤマの左右には大型の木製車輪が付き、後方下部には舵取りの小型車輪が1輪と合計3輪で動く。人形は桜町区のしだれ桜以外は武者人形が多く、毎回新たに人形師が趣向をこらす。
  囃子はヤマの正面に平丸太鼓1個と小型締太鼓2個、後方に大人たちの篠笛と三味線各2、3人、太鼓類を受け持つヤマ担当区の小学生男女が花形である。曲は長唄や端唄の部分を囃子用に編曲したものである。

福井の文化財






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