国神神社
くにつかみじんじゃ 所在地 社名

















   【延喜式神名帳】国神神社 越前国 坂井郡鎮座
          (現在社)国神神社【旧地】

   【現社名】国神神社
   【住所】福井県坂井市丸岡町石城戸町1-2
       北緯36度9分1秒、東経136度16分19秒
   【祭神】椀子皇子 (配祀)振姫命 応神天皇 (合祀)有馬晴信
   【例祭】10月15日 例大祭
   【社格】旧県社
   【由緒】当初の由緒不詳
       天正4年(1576)現在地に遷
       元禄8年有馬家より社守料五十石
       明治7年11月県社
       明治19年式内高向神社を合祀(後旧地に復興)
       同41年神饌幣帛料供進神社指定
       昭和23年6月28日福井大震災により焼失
       同37年現社殿再建

   【関係氏族】
   【鎮座地】往昔国兼村にあり
        中古丸岡の山に遷す
        天正4年(1576)現在地に遷

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「神明社」と称していた
   【社殿】本殿神明造
       幣殿・拝殿・社務所

   【境内社】稲荷神社

継体天皇第ニ皇子此の地に降誕、地名をとり椀子皇子と号す。御胎衣をこの岡の南に埋めて神明宮と崇拝した。
もとは北方500mの現在の丸岡城の地点にあつたのを、天正4年(1576)、築城のために南の方現在地にへ遷座した。


国神神社

国神神社由緒略記
御祭神 椀子皇子
相殿  振姫命、応神天皇、有馬晴信の霊
神紋  密輪鉾
例祭  10月16日
当神社は延喜式神名帳登載の古社で、1200年以前の創建である。第26代継体天皇未だ皇子の頃、味真野皇子と申し奉り、此の磨留古乎迦に御在座し、近江の国高島の郡三尾の堅械が女を倭媛と迎えられ、御腹に二男二女を産み給ふ。
第二の皇子、此の乎迦に御降誕、即ち地名を以て御名を椀子皇子と称し奉る。御産湯水此の乎迦の東の森に在り、御胎衣を乎迦の南の森に埋めて神明宮と崇奉る。磨留古乎迦を中略し磨留乎迦、後に丸岡と改める。
御父君味真野皇子と共に、当時芦の生い茂る越の(越前)の大湿地を憂ひ給ひ、水の口(後の三国港)を切り開き、満々と停蓄せる水を海に排水せしめ、以て坂井、吉田、足羽の各郡は大平野となり、九頭竜、足羽、日野の河川をも整え、国土の経営に力を尽くされた。
武烈天皇崩御、御継嗣なかりし為、起ちて天位に即かせ給ふ。時に御年58才、おくり名を継体天皇と申し上ぐ。
椀子皇子尚も当地に留まりて、坂井平野の開拓に意を注ぎ、以て国土開発の守護神として御聖徳に感謝、歴代領主を始め、近郷近在より厚く尊敬さる。
天正4年、柴田伊賀の守勝豊、豊原西の宮に在る城をこの丸岡に移し築城するに際し、当神社を南の森(現在地)に遷座、社領等の寄進あり。元禄八年有馬家、日向の国延岡より入城、代々社守領五十石を付置す。
明治維新後神社名神明宮を国神神社に改める。
明治7年県社に列され、同41年神饌幣帛料供進神社に指定される。
昭和23年6月28日、福井大震災により御社殿樹木等総てを消失、灰燼に帰すも、同37年現社殿を再建、同57年宝物殿の新築、同61年玉垣の増改築、平成4年社務所、氏子会館の建設あり。
境内地坪数1213坪
氏子戸数2000戸
宝物
天国宝剣  伝、天国作 本多飛騨守重昭公奉納
稻潟檀金千手観音 本多家守護観音
白山曼陀羅の画 伝、室町時代
刀剣二振 越前国下坂貞次作、陸奥守天道作
能面七面 慶長10年石田公寄進
古文書三通 有馬永純公黒印書

由緒書



国神神社

人皇二十七代継体天皇皇子ノ頃故有テ當國二御在座、味眞野皇子ト申奉、此磨留古乎加二御在座シ、妥ニ三尾ノ君堅械力女ヲ倭媛ト申奉ル、御腹ニ、二男二女ヲ産給フ。第二ノ皇子此乎加二降誕在リ、則地名ヲ以テ御名椀子皇子ト號シ奉ル。御産湯水此乎加ノ東ノ麓二在リ。御胎衣ヲ乎加ノ南二埋メテ神明宮ト崇奉ル。磨留古乎加ヲ中略シテ丸岡ト號ス。
其後、歳暦千七十年ヲ経テ天正四丙子年、柴田伊賀守勝豊、豊原山上西ノ宮ニアリ。霞ヵ城ヲ丸岡二移シ築ク。其當社ヲ南ノ麓二遷座有テ、神領若干寄附アリ。 其後、城主安井左近家晴・青山伊賀守・今村掃部・本多飛騨守。元禄八年、有馬家入城アリテ代々社守料五十石付置シ、営繕ハ勿論祭式二至迄、備有之。明治七年十一月縣社二列セラル

神社明細帳



国神神社

由緒沿革『神社明細帳』に「磨留古乎加(まるこおか)に居住された、味真野皇子(継体天皇)(御后倭姫)は、第二皇子の御名に地名をとって椀子皇子と命名された。産湯の水は、乎加(おか)の東の麓の清水を用い、御胎衣は、乎加の南に埋めて神明宮と崇めまつった。
その後、千七十年の星霜を経た天正4年(1576)に柴田伊賀守勝豊公が豊原の西の宮にある豊原城を丸岡に移築した時に、社領を寄進し、当社を南の麓に遷座した。 天正10年(1582)以後、安居左近家晴公、青山伊賀守宗勝公、今村掃部守盛次公、本多飛弾守成重公などの歴代城主の崇敬と寄進があった。
元禄8年(1695)に日向国の延岡から入封された有馬清純公から明治維新まで八代の城主は、社守料五〇石を付置し、社殿の営繕は勿論のこと、神社護持に努められた。
明治7年11月18日に県社に列せられ、同41年4月26日に神饅幣串料を供進する神社に指定されたLと記してある。
昭和23年6月28日の福井大震災によって、杜殿・樹木など倒壊焼失したが、同37年7月15日に本殿(神明造)幣殿・拝殿を造営し、再建された。同57年に再建20周年の記念事業として宝物殿を新築し、玉垣が建立された。今上陛下の御大典を記念して、平成4年に社務所兼氏子会館を建設した。
高向神社は、継体天皇の御母振姫命と應神天皇とが祀られている。欽明天皇の御代(540頃)には高向村に鎮座されて、八幡太神と言われていたこともあったが、明治3年に高向神社と改称し、同19年に本社に合祀した。また、霞城神社(祭神有馬晴信公)も、福井大震災の後に、本社に合祀した。

福井県神社庁



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