創祀の由緒は「養老元年3月、泰澄大師が麻生津から白山登拝を思ひ立ち、大野に到着したとき、南の方の林、清水湧き流れ出る所に十日ばかり過ごし給うた。同年6月18日白山禅定、同年9月に再び篠座に還り給うたとき、虚空に聲があつて我は大己貴命なり。かかる林泉の勝地であるから常に心を樂しませて降遊するとのお告げがあつた。泰澄大師は一つの祠を営み、影降の尊容を刻んで安置申し上げた」とある。 「式内社調査報告」にはかって境内に樺神社(椛神社)(祭神は木花咲夜姫命)があって大野郡式内神社九座の一つであるという口碑があった。往古から篠座大明神の傍に鎭座して「長堂」と呼ばれていたが、明治25年5月20日篠座神社に合祀された。 |
篠座神社 神人一如 本社・篠座大明神 大己貴大神 (大国生神の最初名) 国津神の祖神(大地主神) 越前大野原の産土神 縁結び・商工農平安の神 医薬・醸造・建設の神 相殿・豊受姫神・少彦名命・木花開耶姫命 安産の神 創建・養老元年(717)・延喜式内社 ●神とは、この国土をつくり固めなし、国と民生を安定するようにと、その御意志を発する。宇宙の根本主体のことであり、人間がいつも感謝の誠を俸げ、拝礼し、恩恵をいただけるようにと、崇め祈る存在でです。 (以下略) 社頭掲示板 |
御霊水 境内社 磐坐神社 赤鳥居に向かって石設を降りると右に広がるのが天女ヶ池。その一隅に湧く御霊水は、眼病に霊験があり年中県内外より多くの参拝者が訪れる。 島の中の磐坐神社の御祭神は市杵島比売命、水の神、芸能、財宝の神とたたえられ、芸能、商業にたずさわる人々の崇敬は篤い。天降る天女の神は後に弁天さまに見たてられている。 平安時代に、牛ヶ原の弁天さまも、この社に合祀、爾来、旱ばつの年には必ず、当社まで舞楽を奏し、行列して雨乞い(踊り)が統いたと云われる。 社頭掲示板 |
篠座神社 沿 革 延喜式神名帳に掲載される古社。 戦乱により一時荒廃するも、大野城主金森長近により再興され、歴代藩主より厚い保護を受ける。 明治8年に県社列格。 大野原を領く産土神として崇敬され、殊に御霊泉の清水は、癒しの神水として奥越前(大野市・勝山市)をはじめ、県内外の参拝者らに広く親しまれている。 由 緒 『養老元年に泰澄大師が麻生津から白山登拝を思い立ち、大野に到着したとき、南の方の林、清水湧き流れ出る所(篠座)に十日ばかり過ごされた。白山登拝の後、 再び篠座に還られたとき、虚空に声があって「我は大己貴命なり。かかる林泉の勝地であるから常に心を楽しませて降遊する」とのお告げがあり、泰澄大師は一 つの祠を営み、影降の尊容を刻んで安置申し上げた…。』 御 霊 泉 「ふくいのおいしい水」にも認定されている御霊泉の清水は、癒しの御神水として広く親しまれています。 社記には「大巳貴尊の御仁慈より眼病に苦しむ者を救はむとしてこの霊泉を湧出せしむ」とあり、古くから眼病に霊験が高いことで知られる御神水は、「篠座目薬(しのくらめぐすり)」とも謳われています。 目を清める際は、左目、右目の順でお清め下さい。 また夏越大祓(6月30日の午後7時半 斎行)では、霊泉の清水にて半年間の穢れを祓います。 篠座神社と和歌 社記によれば、篠座神社の神苑は「此地納涼の好地として文人墨客の嘆美する所で、夏季の雅遊園遊会は殆ど凡て此処に催された」といい、当時の風情を感じさせる歌が今に伝えられています。 「 こゝろみに 浮世そゝがん 苔清水 」 境内に残る松尾芭蕉が詠んだと伝えられる句碑。 「篠座の森にて 小竹倉(しのくら)の 御井の真清水むすびつゝ あかすも今日は遊くらしつ 」 田中 大秀 ※田中 大秀(たなか おおひで) 江戸時代後期の飛騨の国学者。 天保から弘化にかけて越前国を訪問した。 弘化3年(1846)に篠座神社を訪れた。橘曙覧の師匠。 「 咲花の にほひも久にさかえよと 守りやすらむ 篠座の神 」 岡田 輔幹 ※岡田 輔幹(おかだ すけもと) 越前大野藩の漢学、国学者。文化10年(1813)、江戸時代唯一の大野郡志である『深山木(みやまぎ)』を著す。 「 篠座や しのにみたれて幣袋 とりあへぬまで 散さくらかな 」 佐々木 弘綱 「 春風は さくらが枝にふきたえて しづかに花の にほひぬるかな 」 佐々木 信綱 明治13年4月20日、佐々木弘綱(当時52才)、信綱(当時8才)親子が、訪れた折に詠んだ歌。『加越日記』に記される。 ※佐々木 弘綱(ささき ひろつな) 幕末・明治時代の国文学者。東京大学文学部古典科講師。物語類などの古典解釈と歌道の普及につとめた。 ※佐佐木 信綱(ささき のぶつな) 歌人・国文学者。佐々木 弘綱の長男。幼少より父に歌学・国学を学ぶ。 『白山行程記』に記される篠座神社 福井藩士が弘化四年(1847)に書いた『白山行程記』には、 『朝の内は、城下町内をそれぞれ見物に行き、中でも城下を一里ほど離れたと思われる所に、篠座宮の社があった。境内は三丁余り(330m)もあるだろう。両側に松杉が生い立って、清い清水もあり、とても佳い風景である・・・』 (『口訳 白山行程記 幕末の白山登山紀行』 著者 村井加代子 より一部抜粋) 等々、白山登山を終えて、大野城下町見物で篠座宮に訪れる当時の様子が記されています。 奥越前(大野市・勝山市)に参拝・観光の際には、どうぞお立ち寄り下さい。 公式HP |
篠座神社 創立年代不詳。 『神社明細帳』に「創草詳ナラズト雖モ、大野郡式内社九座ノ一ナリ。元亀年間(1570〜72)朝倉氏兵燹ニ罹リ焼亡、元和年中(1615〜23)当群前城主金森氏再建、爾来世々ノ城主修繕尊崇アリ。明治五年十一月郷社ニ列シ、同八年縣社ニ列ス。明治四十一年四月二十六日神饌幣帛料供進神社指定済」と記している。 当社の草創について、昭和27年4月発行の『由緒略記』に「養老元年(717)三月泰澄大師が、白山登拝の途路篠座を経て、同年6月18日に白山禪定後9月に再び、篠座に遷り給うた時、虚空に声があって“我は大己貴命なり。かかる林泉の勝地である故 常に心を楽しませて降遊する”とのお告げにより祠を営み、尊容を刻んで安置申し上げた」という。 神域は、千古の老杉が繁茂し、霊泉滾々と湧き出で目を病む人々来たりて神水を頂き、神威を奉斎絶ゆることがない。 昭和61年から五ヶ年計画で社殿の補修・燈籠・狛犬・手水舎・神馬舎・玉垣等々境内整備が進められている。 境内社について『神社明細帳』は「磐座神社祭神稲田姫命。」「樺神社祭神木花咲夜姫命。」両社共「由緒、大野郡式内神社九座の一なり」と「少彦名神社祭神少彦名命、明治25年5月20日樺神社と相殿、昭和10年1月29日に本殿合祀」「八幡神社祭神譽田別尊由緒不詳」亦「大野篠座町鉄砲台 稲荷神社祭神豊受姫、嘉永6年(1853)3月土井能登守新田野開拓の守護の為勧請。明治42年1月6日本殿合祀」「大野春日町字西土居 磐座神社祭神市杵嶋姫命、文政年度(1818〜29)に本願寺清水町に宮沢由左エ門勧請。 明治41年12月8日本殿合祀」と記してある。 磐座神社は、昭和22年に旧に復し、昭和63年に本殿・拝殿等を改築した。 福井県神社庁 |