須波阿須疑神社
すはあずきじんじゃ 所在地 社名

















   【延喜式神名帳】須波阿須疑神社 三座 越前国 今立郡鎮座

   【現社名】須波阿須疑神社
   【住所】福井県今立郡池田町稲荷 12-18
       北緯35度53分10秒、東経136度20分44秒
   【祭神】倉稻魂命 大野手比賣命 建御名方命 太田命 大己貴命
  右殿 建御名方命  正殿 倉稻魂命  左殿 大野手比賣命 を祀る。

   【例祭】6月9-10例祭 9月16日 例祭
   【社格】旧県社
   【由緒】往古勝戸郷の辺に在大野手止比売を祭り小豆明神と称した
       武烈天皇御代右殿建御名方命は郷内野尻村より移祀
       霊亀2年(716)9月7日正殿倉稲魂命山城国飯盛山より影向
       延徳3年(1491)朝倉貞景公社殿再興
       天正2年(1574)一向一揆によって拝殿等は焼失

   【関係氏族】
   【鎮座地】往古勝戸郷の辺に在大野手止比売祀る
        中古今の地に移し稻荷の神と健御名方命を合祭

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【参考HP】 須波阿須疑神社
   【社殿】本殿流造
       拝殿・楼門・社務所

   【境内社】池田郷御魂社・秋葉神社

広い境内を持ち、山の西麓に鎮座している
諏訪神・建御名方命は、武烈天皇の御代池田郷野尻から移祀したと伝えられている。大野手比賣命は、池田郷の地主神で一説には、勝戸郷に鎮座していた勝戸神社が印内村に移し祀り、その後、当社へ合祀された伝。稲荷神・倉稻魂命は、元正天皇の霊亀2年(716)9月7日建御名方命と大野手比賣命の託宣によって、 山城国飯盛山から影向されたと伝。


須波阿須疑神社

池田惣社
須波阿須疑神社
参拝の栞
鎮座地 福井県今立郡池田町稲荷
例祭日 6月10日 陰暦時は4月2の卯
         終戦時まで5月15日
氏子崇敬者 池田町内一円
旧社格   県社・式内社
池田惣社 須波阿須疑神社 三座
御祭神
左殿「あづき」の神
正殿「いなり」の大神
右殿「すわ」の神
御啓示
浄明正直勤務追進
慎莫怠矣
寿命福徳
開運除災
誠心直道二天一流
●御祭神
正殿 倉稲魂命(うがのみたまのみこと〕
「お稲荷さま」と申し上げる五穀豊穣・諸願成就を掌る生活守護の大神である。大宝律令制定のころ地主神の須波阿須疑の大神の御神託に依り、元正天皇霊亀2年9月7日辛巳(716)山城国飯盛山より影向された。この御日柄を「御稲荷御日」と称し村人達は当日払暁に初穂を捧げ参拝している。太陽暦以来は11月7日と定められている。現存する天文19年当社年中行事略記にも「御稲荷御日」と記してある。按ずるに北陸第一の「お稲荷さま」で通称「池田の御稲荷様」と親しまれ崇められている。
左殿 大野手比売命(おほぬでひめのみこと)
「あづき」の神と申す大和系の姫神である。この地、草分けの地主大神で山畑農耕の小豆生産神信仰とも関係が深い。応神天皇が吉備国小豆島の島玉神として彼の地「池田の森」で御親祭になったお立派な姫神であるが上古煙滅し、この姫大神を奉齋していた神社は全国で当社のみであった。彼の地香川県小豆島に於ては当社の御分霊を拝戴し昭和40年2月11日応神天皇御親祭に由緒ある寒霞渓山上(神懸山)に社殿を建立し阿豆枳神社を公認している。
右殿 建御名方命(たけみなかたのみこと)
「すは」(諏訪)の神と申す出雲系の武神である。武烈天皇の御代(五世紀末)郷内野尻村より移り給うと伝えらる。蓋し四・五世紀頃足羽川流域に繁栄した「生江の民」の氏族の祖神であって男大迹皇子(継体天皇)の越前平野開拓事業に功績を立てた池田町住民の祖神である。
別宮 大田命「お稲荷さま」の摂神
寿命福徳の守護神として崇められている。
別宮 田中社「お稲荷さま」の摂神
医道・禁厭の法を定められ、不可思議な霊力の神として崇められている。
●社名の起原
須波阿須疑の名称が最初に記録されているのは延喜式神名帳(905)の越前国伊萬太千(今立)郡の条に須波阿須疑三座と登録されている。三座とは、倉稲魂命・建御名方命・大野手比売命の三柱の大神の御前に、それぞれ三組のお供物を盛るという意である。八世紀初頭、地主大神「すわ」「あづき」の御神託により「お稲荷さま」を影向しているが、それ以前すでに「すわあづき」二柱の社名が起り敬愛されていた。班田収授の法が実施される頃お稲荷さま(倉稲魂命)の御鎮座により一層生活守護の大神様として「池田のお稲荷さま」が有名となり尊崇されたのである。
●池田のお稲荷さま
お稲荷様(倉稲魂命)はイザナギ・イザナミ二神の御子神で人間生活の守護神として尊崇されている。稲束を持ち和魂・荒魂・幸魂・奇魂のお働きが神変不可思議で時には農夫の姿をもって現われ、少女・白狐の姿にも化身して現われ給う神である。伊勢外宮さまの豊受大神と御同体といわれ又空海(弘法大師)が密教の護法神として特に崇めた大神である。当社御鎮座以来郷内氏子に崇められ国司・武将達のただならぬ崇敬の跡を残し、江戸時代の村々明細書(村鏡)等には部落の社の他に、惣社稲荷大明神と記載し、当村には社、御座無く候、稲荷に坐すと付記している。池田郷四十八ケ村の産土大神である。これらの御由緒、御霊験は北陸地方第一で「池田のお稲荷様」と畏敬されている。
●本殿  三間社流造・桧皮葺・昭和16年11月6日国宝指定(文部省)
郷村自治行政の始まりとも言うべき池田勘解由左衛門尉遠江守平朝臣時忠公(山田居館)は敬神の念篤く神慮を畏み当杜の復興に尽し主君朝倉貞景公(一乗谷城主)の力を得て室町文化の粋を集め、御土御門天皇、延徳3年(1491)再建したのが現存の本殿である。凡そ500年昔の木造建造物で和様・唐様・天竺様の三様式が混然と融け合った「優美」な室町中期を代表する社殿となっている。典雅な手法で神の心を建築に表現し、日本の文芸復興期を代表する冴えた図案化彫刻など特に価値高く評価されている。越前の守護大名朝倉氏が建築史上残した唯一の現存物である。
●拝殿  東西五間・南北八間・萱葺
今より凡そ300年前、元禄2年(1689)再建。天正2年9月の一向一揆で焼失した面影を残し、能舞台がある珍しい様式で再現されている。
●稲荷の大杉  目通り10m・県下北陸第一の大杉である。天然記念物(県指定)
倉稲魂命の影向の神離〔ヒモロギ)と伝へられ何時しか荒魂大杉大明神と称えられ古くから伊弉諾命・伊弉再命を祀る神憑木となっている。本殿の東八十三間の御山の中に在る。
●お旅所  参道入口の南にある。
天正2年9月(1574)一向一揆以後、礎のみとなった田中社の旧跡である。毎年春の例大祭には神輿渡御が行われる。 ●おとの池  南北八間余・東西六間余
神への供えものを洗った池である,「塔の池」か「当人(頭人)の池」か或いは「高所にある用水の池」か語原はわからないが大変古い響を感ずる池の名である。神の化身の大蛇が潜み不浄の者が引き込まれるとか、大蛇が少女の姿で現われたとかいう物語を残している。
●池田郷みたま社  境内社

昭和23年5月15日奉鎮以後合祀489柱
●楼門朱塗赤山門・桧皮葺
嘉永3年(1850)再建
終戦時まで反橋(お枕橋)の東にあった。
●大鳥居  朱塗・往昔 高さ三丈、宝暦5年再建の時、高さ二丈一尺
丹朱は古代日本の祭祀思想による一種の「避邪」としてのマジカルな色で古代習俗の実際を伝えているものである。
◆お枕橋 (反橋)石造
神の化身の「大蛇」が枕にして本殿に達していたという昔物語を残している。
●社頭一里塚 道祖神(岐神)を祀る。
欅と「よの木」、川石と山石を抱き合わせて神を祀っていた。美濃・府中・今庄・福井街道への起点でもあり、終点ともなった交通の要路である。
●宝物
(イ)お三面 翁・八幡・春日
二重の箱に入れられ内箱は鎌倉時代の鹿皮張り漆かためになっている当時の最高級品で、地方に在るのは珍らしい。(文化庁鑑定)
(ロ)能面
天神(重美国指定) 元亀2年正月吉日 野尻千世熊丸 寄進の銘がある。室町時代の日本の代表的な作品で米国メトロポリタン博物館へも文化庁が出品している。
中年女(県指定)室町時代
若女     同
翁(黒式)   鎌倉時代
(ハ)空海大師の自作像 木彫 御長七寸
淳和天皇天長年中(820年代)空海白山参籠の帰路当社に詣で自作の像を納む。
(ニ)稲荷諸神曼陀羅 一軸
明応元年(1492)池田勘解由左衛門尉遠江守平時忠公の寄進。中世に於ける神道美術史上貴重なものである。(京都国立博物館鑑定)
(ホ)獅子頭 一ツ
「御神五番廻り」に使用したもの。鎌倉期の木彫である。(文化庁鑑定)郷内所々に語り継がれている獅子岩・おみき岩・神道・お休み所などの名残りと関係が深い。昔、四月二ノ卯の例祭日に先立ち、申日より子日まで庄内村々を廻った。出発からお戻りまで一歩も同じ道を踏まず古道を通る慣わしであった。
●境内四至
拝殿よりお枕橋(反橋)まで一町四拾弐間、横七間半、拝殿より山頂まで三町余、根幅五拾五間。荒魂大杉大明神を奉齋する「お山」を背景に参道は池田盆地の中央に延び、足羽川のせせらぐところ田中社の旧跡を残し、その全景は山ノ宮(奥宮)野ノ宮(若宮)の形態を有する原始自然神道の典型的様相を呈している古社地である。所謂「池田稲荷の神奈備の森」である。山頂(小杉様の峯)に立てば、水海川・魚見川・足羽川流域を一眺に、遠景は部子山・白山・冠金草への連峰がめぐり、このふる里「池田」の山と川に生命をつないだ太古の人々の住居趾の取りまく真只中に境内がある。ふかみ山・市畑・西の森・王子の森・月ケ瀬・湖・古稲荷の森・広瀬・田祝・生田・照島など麓一帯に広がる開田は池田の地名にふさわしい農耕地であり、過去幾度かの天災地変に変遷して来た河川流水を思ふ時、祖先の苦労が、その汗が現身に甦ってくる。池田郷総鎮守神の御鎮座地としてふさわしい境内地である。
●「池田」・「稲荷」の地名の起源
池田惣社記(天保3年、勅補大宮司正五位平朝臣高起、謹識)によれば円融天皇、天延年中(975年頃)地主大神(大野手比売命)の神縁により国守、斎藤加賀守吉信「勝戸」(かつべ)を改めて、「池田」(いけだ)の庄(当時三十六邑)としたと記している。なお、古くから当社に伝承されている「神賀諄詞」(かむほぎののりごと〕にもこの由来が述べられている。そこで古くは勝戸(かつべ)と言われたことになるが、その音韻を調べると「徒歩」かち)でのみしか行けない山越えの片鄙な集落」という意になる。
遠い昔は乗馬も籠も通行不可能な山越えの里であったので国府(武生)の人々が名付け、その名をもって国府の台帳に記載されてしまったのだと考えられる。「池田」(いけだ)とは「ものが生々と生育繁茂し、開拓された住みよいところ」という意味が含まれている言葉である。「いける」とは穴に土を入れてならしたり、花や草木の生命を水や土にかこってつなぎ保つ時に使う言葉である。この郷の祖先が山野を生かし豊穣歓喜に溢れ土地を賛美した時自然に発声した時の地名である。
「稲荷」(イナリ)とは元来アイヌ語の「イナウニ」から来る「神を祀るところ」という意味の地名である。古文書ではこの大字を「印内・院内」と記しているが、これは中世時代の神仏習合思想に基いた神主・社僧などの居住家屋につけた名称である。往昔、村号は無かったが土地柄そのものの名称は『いなり』であった。従って「池田のお稲荷さま」として大衆に親しまれ遠近に崇敬され、その名の有名になっているのも、その証拠の一つである。「院内」を稲荷村に改めたのは延宝元年(一六七三)で福井藩主三代光通公の時で福井奉行加々江刑部右衛門殿の下知による。

由緒書



須波阿須疑神社

池田惣社 須波阿須疑神社ごあんない
     相殿  太田命   稲荷大明神
    左殿 大野手比売命 「あづきの神」と申し上げる
御祭神 正殿 倉稲魂命 「いなりの大神」と申し上げる
    右殿 建御名方命 「すわの神」と申し上げる
     相殿  田中社   稲荷大明神の摂社
境内地 1491坪  例祭6月10日
御由緒
上古「あづきの神」この地勝戸の里を開き給い武烈天皇の御代・・・・須波阿須疑の名称が起こった。この主二柱の大神の御神託により八世紀初頭、霊亀2年9月7日辛巳「いなりの大神」を山城国飯盛山よりお迎えし正殿に鎮め奉る。その時の神籬が稲荷の大杉」である。福井平原水上守護の社として崇敬篤く、また社頭は武生、福井、今庄、美濃へ通ずる交通の要路に当たり古道の起点であり終点で、一里塚の跡を残し道祖神を祀る。又古代より(磐境を物語る「おとの池」を現存している。
現在の本殿は今より500年前延徳3年(1491)越前国主朝倉貞景公の改築にかかるもので越前朝倉文化の最高峰である。その優美と調和。特に手狭の彫刻は貴重なる価値を有し昭和16年国宝建造物に指定せらる。建立当時池田郷の領土は遠江守平時忠公で池田勘解由左衛門と号された。敬神の念篤く神託を受け復興に尽くされたと伝えられている。天正2年9月一向一揆の為焼失したもの多く現在の拝殿は元禄2年(1689)の再建、楼門は嘉永2年(1849)の再興である。社格は、式内社県社であった。古来より「池田惣社稲荷大明神」と崇め親しまれて北陸第一の「お稲荷さま」である。
宝物
1.空海「自作の像」天長年中(825)僧空海白山参籠の帰途当社に詣で納めたもの
1.稲荷曼荼羅  明徳元年4月(1492)遠江守平時忠奉納
1.獅子頭  獅子祝が池田郷内「五番廻り」に私用したもの南北朝期の作
1,能面 能舞又は祈願奉納のもので中世近世の作数点

社頭掲示板



須波阿須疑神社

・社名 須波阿須疑神社 旧社格県社・式内社
・御祭神 倉稲魂命
大野手比売命
建御名方命 お稲荷さま
あずきの神
すわの神
・由緒
 当社は池田郷四十八ヶ村の惣社として、多数の氏子の礼拝と尊崇を受け古くから栄えて来た御社である。
 延喜式神名帳(西暦900年頃)の越前国伊万太千郡の条に須波阿須疑神社三座と見えている。また社伝に依れば稲荷大明神(倉稲魂命)元正天皇霊亀2年当社大杉の梢に影向し給うとあり、大野手比売命・建御名方命の二柱の神は地主の神として、それ以前より祭祀奉ると伝えており、千三百年以上の歴史を持つ県内屈指の古社である。
古来、国司、主護、武将等の尊崇高く、数々の参詣奉納の記録が残されており、中でも一乗谷城主朝倉氏の崇敬篤く、三代貞景公が当時の池田領主池田勘解由左衛門を普請奉行として、延徳3年(1491)七堂伽藍を建立し寄進された。その後天正2年(1574)兵火にあい焼失したが幸い本殿一宇のみ残った。これが旧国宝であり現在重要文化財の指定を受けている神社建築では県内最古の本殿である。
・社殿
・本殿 重要文化財(昭和38年指定)
延徳3年(1492年)建立、三間社流造、昭和16年に国宝の指定を受ける。
・拝殿 町指定文化財
元禄2年(1689年)建立、間口八間、奥行五間の大拝殿で能舞台・お籠りの囲炉裏を持つ珍しい形式を残している。
・楼門 町指定文化財
嘉永2年(1850)建立、通称「赤山門」と呼ばれる池田町のシンボル的存在である。
・その他
稲荷の大杉 県指定天然記念物
幹周り10m(三丈三尺)の神木である。本殿裏山中腹にあり、伊弉諾・伊弉冊二柱の神を祀り、荒魂大杉大明神と崇められている。

社頭掲示板



須波阿須疑神社の大杉

須波阿須疑神社の大杉
    今立郡池田町稲荷
    樹 種  スギ
    幹回り  8.4m
    樹 高  40m
    樹 齢  約500年
    指 定  県天然記念物 
 拝殿の右側にある建物の横から、スギ成林の小道を登っていくと(約200m)10分程のところ、山の中腹(標高約300m)に大杉が立っています。 8m程の所で、太い枝を出した一本立のすっきりとした姿をしています。周囲は雑木林ですが柵に囲まれて参拝しやすくなっています。この杉の案内板には樹齢千数百年を経ていて県内はもとより北陸一の大杉であると表示されていますが巨樹・巨木林調査報告書(環境庁)によると樹齢約500年位のようです。

http://www.landl.jp/hukui/suwaazuki.htm



詳細ボタン

越前国INDEXへ        TOPページへ


学校データ