須波阿須疑神社
すはあずきじんじゃ


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【由緒】

「すわ」の神「建御名方命」は、第25代武烈天皇の御代(五世紀末)に池田郷野尻から稲荷に移り給うたと伝えられる。
「あづき」の神と申す「大野手比貢命」は、池田郷の草分けの地主大神で、山畑農耕の小豆の生産神信仰とも深い関係がある。
第44代元正天皇の霊亀2年(716)9月7日に大野手比責命と建御名方命との御神託によって、山城国の飯盛山から「倉稲魂命」が、影向された。と伝えられている。
第60代醍醐天皇の御代(897〜930)の『延喜式神明帳』に「越前国今立郡の条に、須波阿須疑神社三座」と記載してある由緒深い神社で、御鎮座以来、池田郷の氏子に崇敬され、国司、武将達に畏敬された。
池田勘解由左衛門尉遠江守平朝臣時忠公は敬神の念の篤い人で、神慮を畏みて、社域の復興に尽した。
ことに、主君である一条谷城主の朝倉貞景公の力を得て、室町文化の枠を集めて、第103代後土御門天皇の延徳3年(1491)に再建したのが、現存の本殿、即ち、檜皮葺、三間社流造である。
凡そ五百年昔の木造建造物で、和様・唐様・天竺様の三様式が混然と融け合った「優美」な室町中期を代表する社殿となっている。
典雅な手法で神の心を建築に表現し、また、日本の文芸復興期を代表する冴えた図案化彫刻など、特に、価値高く評価されている。
古来、陰暦4月二の卯の日に例祭が執行されたが、これに先だって、申の日の午後から子の日まで4日と半日に渉って「御番廻り」と称して産子の各村へ獅子頭が巡廻された。
翁神事は、正月六日に、「式三番・高砂・田村・呉羽」等の能楽が奉納されたが、大正7年以降は事情が有って奉納されていない。
11月7日は、稲荷大神の影向の日で、区民が初穂を捧げ、御供の「小豆餅」を下げ受ける。
中世紀には、平泉寺(現・勝山市平泉寺町の白山神杜)との関係が深かった。
天正2年(1574)9月に一向一撲のために拝殿その他の諸殿を悉く焼失したが、幸に朝倉貞景公が再建されたと伝えられる本殿は、難を免れた。
現在の拝殿(東西五間・南北八間)は、元禄2年(1689)に、楼門は、嘉永3年(1850)に再建されたものである。
祭祀は荘厳、清楚に奉仕され、池田郷(現在は池田町)の惣社として崇敬驚く信仰され、父祖代々受け継がれている。
江戸時代から神社維持の費用は、「高半、人別半・割賦(負担する)」で賄われて来た。
明治6年に県社に列せられ、同41年4月26日神僕幣吊料を供進する神社に指定された。

福井県神社庁






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