山頂は燧ヶ城址となっている。 往古はこの山頂に鎮座していたと伝。 |
燧ヶ城址 この左手山頂には、平家物語や源平盛衰記などでよく知られている燧ヶ城址(海抜270m)がある。城址まで約20分で登れ、途中にはブナ林がある。燧ヶ城址の下には鹿蒜川沿いに、木の芽峠へ通じる北陸道と、山中峠への道路、更に日野川と平行して栃ノ木峠へ通じる北国街道がいずれもこのふもとで交わる。すぐ近くの杣山城と敦賀金ケ崎城とともに、この城は北陸の関門を制する重要な場所であった。「源平盛衰記」によると、寿永2年(1183)4月、平家は木曾義仲追討のため、平維盛の率いる10万の大軍を北陸路へ差し向けた。義仲は越後の国府にいて、燧ヶ城には仁科太郎守弘や、平泉寺長吏斉明威儀師を大将として立て籠り、日野川を堰き止めて周囲一帯を水浸しにして平家の大軍を迎えた。しかし「北陸道第一の城郭なり」といわれた燧ヶ城も斉明威儀師が平家に内通するに及んで、たちまち陥落し、義仲軍は敗走した。その後5月倶利伽羅峠の合戦に義仲は勝利し、7月には上洛した。 南北朝時代になると、再びこの城は攻防の戦場となっり、延元元年(1336)には、今庄入道浄慶が足利方の将として立て籠もり、南朝方新田義貞に味方して挙兵した杣山城の瓜生保軍と対抗、敦賀金ヶ崎との連携を断つ作戦に出た。 「太平記」では、新田義貞、脇屋義助らの行軍に際し、由良光氏の節義に感動した浄慶が金ケ崎への道を開いたというエピソードが記されている。 戦国時代の天正3年(1575)には、越前一向一揆の総大将下間筑後法橋頼照が藤島題願寺、荒川興行寺の一揆と立て籠もり、織田信長軍と対戦したと伝えられている。 このようにこの燧ヶ城は数世紀にわたり戦略上の重要な拠点として利用されてきた。なお現在残っている土塁・石垣等は戦国時代末期のものである。 幾多の戦いの地、燧ヶ城址も現在は憩いの広場として、又今庄の街並みが一望できるハイキングコースとして町民に親しまれている。 平成11年3月 今庄町教育委員会 社頭掲示板 |