弥彦神社
やひこじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】伊夜比古神社(名神大) 越後国 蒲原郡鎮座
          (奥宮)弥彦神社奥宮「御神廟」

   【現社名】弥彦神社
   【住所】新潟県西蒲原郡弥彦村弥彦2898
       北緯37度42分24秒、東経138度49分34秒
   【祭神】天香山命
       『神名帳考証』大屋彦命
       『大日本地名辞書』大彦命

   【例祭】2月1-2日 例祭
   【社格】旧国幣中社 越後国一宮
   【由緒】和銅2年(709年)祭神来臨
       養老3年(719年)造営
       天平勝宝年間(749年〜)金智大師が本地を阿弥陀如来とした
       天長10年(833)7月3日名神に預かる
       承和9年(842)従五位下
       貞観3年(861)従四位下
       鎌倉幕府は三千貫の社領寄進
       永禄7年(1564)上杉謙信祈願文奉納
       慶長16年(1611)彌彦村五〇〇石の社領
       明治4年5月14日国幣中社
       明治11年明治天皇昇殿御拝礼
       明治45年3月民家から火を失して類焼
       大正5年10月21日遷座

   【関係氏族】
   【鎮座地】鎮座地の移転はない
        大正5年本殿の位置を西へ200m移動して造営

   【祭祀対象】弥彦山
   【祭祀】古代より祭祀は継承されている
   【公式HP】 弥彦神社
   【社殿】本殿流造
       幣殿・祝詞舎・拝殿・裳階付・神撰所・伺候所・随神門・舞殿
       齋館・参集殿・絵馬殿・社務所・宝物殿

   【境内社】桜井神社・妻戸神社・武呉神社・船山神社・草薙神社・今山神社
        勝神社・乙子神社・二十二所神社・八所神社・十柱神社
        火宮神社・住吉神社・上諏訪神社・祓戸神社・下諏訪神社
        湯神社・某神社・御神廟

   【境内図】 境内図

伊夜彦山は直ちにイヤヒコノ神であつた。太古からの山嶽信仰から更に、その麓には自然に社殿が営まれた、これがイヤヒコノ神の社である。
伊夜比古神の「伊」は偉大などの敬称で、これを除くと夜比古神となる。 夜比古神の「夜」は弥栄などの美称であろう。弥彦山には金属採取精錬が行われていたと伝えられ、これらは男の仕事、男神を祀ったのを比古神と称したと考えられる。
現在の社殿は明治45年に門前町から出た火の延焼に遭って炎上したため、大正5年に造営されたもの。旧本殿は宝物館の前に石組がありその位置を示している。


弥彦神社

弥彦神社
御祭神は天照大御神の御曾孫で天孫御降臨に供奉して降り紀州熊野に住み神武天皇御東遷の時霊剣を奉りて大功をたて、後北辺鎮護国土開発の勅命を奉じて越路に降られ、住民を導き、農耕漁業を始め諸産業を教え、地方文化産業業の基を開かれた大祖神である。
されば疾く衆人その徳を仰いでこの地に社を創建し崇敬の誠を捧げた古社であり、遠く万葉集には弥彦の神をたたえ、平安期の初め神験の顕著により名神の列に加わり神階を授けられ、延喜式に名神大社と記す。鎌倉幕府三千貫の社領を寄せ、上杉謙信神助を祈り、徳川氏また五百石の朱印地を奉る。
明治4年国幣中社に列し、皇室を始め衆庶の崇敬極めて篤く明治11年明治天皇が、昭和47年には天皇・皇后両陛下、又昭和56年皇太子・同妃両殿下が御参拝になる。
昭和22年宗教法人となり神社本庁に属する。

社頭掲示板



弥彦神社

越後一宮 彌彦神社
広々とした越後平野の中央に聾えたつ弥彦山の麓に鎮まります彌彦神社は、古くから"おやひこさま"の敬称で広く親しまれております。 境内はうっ蒼たる樹林に覆われ、亭々たる老杉、古樫は見るからに神々しく最も古い歌集の万葉集にも
 いやひこおのれ神さび青雲の棚引く日すらこさめそぼふる
と歌われております昔ながらの神奈備の森です。
緑に映える朱色の一の鳥居を入るとすぐに弥彦山からの清流・御手洗川を渡りますが、その上方に御神橋・玉ノ橋が架っており、いっそう荘厳な雰囲気を醸し出しております。石畳の参道右側には神苑があり、巨木に交って里桜も多く、春には可憐な花を咲かせ、参拝者の眼を楽しませてくれます。
その神苑には鹿苑があり、10数頭の鹿がむれ遊んでおります。この鹿は古来神鹿と称せられて同じく万葉集に
 いやひご神の麓に今日らもか
  鹿の伏すらむ皮服(かはごろも)着て角つきながら
御祭神
御祭神は天照大御神の御曽孫(ひまご)にあたる天香山命(アメノカゴヤマノミコト)です。
高天原より神々が天降り賜いし折にご一緒に降り、紀州熊野に住み、神武天皇のこ東征の時、師霊(フツノミタマ)の剣を奉って大功を立てられました。
神武天皇が国家統一を終え、大和の橿原の宮でご即位になられた4年後に今度は越後地方の開拓経営の詔を受け、日本海の荒海を舟で渡られ、はるばる越の国の野積浜にご上陸になられました。
そこで早速、漁民に海水を焚いて塩を作ることや網、釣針を用いて魚を獲る術を教えられた。さらに弥彦に宮居を定められてから蛮族を平定され、住民に稲作や酒造の術をご指導になられました。
また、6代の御子孫も協力、継承して、越後地方の産業文化の基礎を造られました。つまり越後開拓・文化産業の始祖神です。
当神社は越後開拓の神と仰ぎ、この地に奉祀したのがはじまりで、その年代は詳かではありませんが、万葉歌から推定して、今から1,300年以前であることが明らかです。社記によれば和銅4年(711)の詔により神域を拡げ、社殿を浩営したとあり、この時すでに神社が創建されております。
御社殿
現在の御社殿は明治45年に門前町から出た火の延焼に遭って炎上したため、大正5年に造営されたものです。
本殿は三問社流造向拝付、回縁高欄、脇障子を具え、銅板葺き。幣殿も三間社流造、大床昇階擬宝珠高欄を付し、銅板葺きです。祝詞舎は20坪両流箱棟造りで、それにつづく拝殿(50坪)は入母屋造、向拝、裳階付きの銅板葺きです。
摂社・末社
越後の開発は御祭神の御子孫神が代々継承なされ、産業文化の基礎が築かれました。妃神・熟穂屋姫命(ウマシホヤヒメノミコト)をはじめ6代の神々を祀る摂末社が境内・境外の各所に御鎮座されています。
末社十柱神社は桃山時代の手法を伝える元禄年間の萱葺きの建物で、昭和25年重要文化財に指定されました。
御神木
旧本殿跡のそば(第二鳥居附近)に石柵を囲らした椎の大木がこんもりと茂っております。これが御神木です。
社記によれば御祭神が携えられた椎の杖を地中に挿され、この地が自分の住むべき土地ならば繁茂せよ、と仰せられたところ、芽を出し根をはり、たちまち大木になったと伝えられています。
御神廟
御祭神並びに妃神の御廟(奥宮)で、弥彦山山頂(標高638m)にあります。
境内並びに施設
境内はおよそ13ヘクタール(約4万坪)で、樹令4〜500年以上の老杉古樫に囲まれ、御本殿の背後は標高638mの霊峰・弥彦山で、その境内林・社有林はおよそ200ヘクタール(約60万坪)です。
境内には舞殿、斎館、絵馬殿、参集殿、鼓楼、宝物殿、社務所などが建られております。さらに境内に万葉の昔を偲ぶ鹿苑があって10数頭の神鹿が遊び、鶏舎には県内愛鶏家の協力を得て、わが国在来の10数種の鶏を飼育しています。いずれも天然記念物に指定されています。
また、外苑の弥彦公園は、13ヘクタール(約4万坪)の名園で知られております。
日本一の大鳥居
弥彦山の御神廟を中央に仰ぐ道に昭和57年に建立したものです。
高さ30.16m、柱問20.Om、笠木38.5m。社号額畳12枚敷(3.5×5.5m)。耐候性特殊鋼製です。
舞楽(重要無形民俗文化財)
神歌楽(かがらく)は神武天皇ご即位の大典の際、彌彦大神自ら奉奏したと伝えられる舞で、天犬舞(あまいぬのまい)とともに一社伝来の秘舞として燈籠神事に奏されます。
このほか、大々神楽、小神楽とともに国の重要無形民俗文化財に指定されております。
燈籠神事(重要無形民俗文化財)
毎年7月25日に執りおこなわれます。この前後にも各種の儀式があって18日から26日まで祭儀がつづき、25日早朝には古式に則って大御膳を献じて祭典が執行され、午後9時から神輿が村内を渡御せられます。
これに県内各地から20余台の大灯籠が供奉し、さらに数百に上る小田楽灯籠が前後に供奉し、頗る壮観です。
宝物 志田大太刀 (重要文化財)
応永22年(1415)に古志郡夏戸の志田三郎定重が奉納したもので、刃渡2.2mの巨大な太刀です。
青磁香炉(重要美術品)
越後国守松平忠輝が慶長17年、(1612)に奉納したもので、高さ15cm、口径20cmの大香炉です。
大鉄鉢(重要文化財)
嘉暦元年(1326)に奥山庄中条(現在の中条町)の相次郎孝基が奉納したもので、高さ34.5cm、口径59cmの巨大な名器です。
菊まつり
毎年11月1日から24日まで新潟県菊花連盟による奉納菊花展が行われます。
県内各地より、6,000点に及ぶ大菊の数咲きをはじめ中菊の古典菊や小菊懸崖、盆栽展が境内一杯に展陳され、御神慮をお慰め奉るとともに、期間中数十万の参拝者の眼を楽しませております。
特に3万本の挿芽小菊によって造園される"大風景花壇"は人気を集め、正に日本一の菊花展にふさわしいものとなって人気を呼んでおります。

由緒書(1)



弥彦神社

越後国一宮 名神大社
彌彦神社(元国幣中社)
新潟県西蒲原郡弥彦村大字弥彦鎮座
広漠たる越後平野の中央に国の鎮めと聳え立つ弥彦山の麓に鎮座ましますのが、越後一の宮彌彦神社である。
境内はうっ蒼たる森林に覆われ、亭々たる老杉古樫は見るからに神々しく、万葉集にも「いやひこおのれ神さび青雲の棚引く日すらこさめそぼふる」と歌われている、昔ながらのお森である。
一の鳥居から右手につづく神苑は、巨木殊に多くこれに交って咲く里桜の花も可憐である。南東隅の鹿苑には十数頭の鹿が群れ遊んでいる。この鹿は古来神鹿と称せられて、同じく万葉集に、「いやひご神の麓に今日らもか鹿の伏すらむ皮服(かはごろも)着て角つきながら」と詠まれている。ここに詣でる人々は、今なお遠い万葉の古をしのぶことが出来るのである。
◇御祭神
天香山命(アメノカゴヤマノミコト)
天照大御神の御曽孫で、又の御名を高倉下命(タカクラジノミコト)とも申し上げ、天孫御降臨に供奉して降り紀州熊野に住み、神武天皇御東遷の時、部霊(フツノミタマ)の剣を奉って大功を立てられた。天皇即位の4年勅を奉じて越後の国土開発のために御来臨、野積浜に御上陸の後、弥彦山の東麓に宮居して当地方を鎮撫し、住民に漁業、製塩、農耕、酒造等の術を授けて民福の増進に力を用い給う。神孫亦之を継承して当地方の産業文化の基礎を造られた。
命は実に越後文化産業の始祖神である。
◇由緒
当神社は、御高徳を敬慕し奉る国人が、吾等の大祖神、越路開発の神と仰ぎ奉って、この地に奉祀せるに始まったので、その年代は詳かでない。
社記によれば和銅4年(711)詔により神域を拡げ社殿を増営し、仁明天皇天長10年(833)此の神の霊験あらたかなるにより、名神祭に預り、延喜の制には名神大社に列し、村上天皇の天暦元年(947)に正一位に進まれた。当社は古来朝廷のこ崇敬篤く、明治天皇は、御一新にあたり明治11年、北陸ご巡幸に際しご親拝相成り、昭和47年には、昭和天皇、香淳皇后両陛下お揃いでのこ親拝の光栄に浴し、さらに昭和56年には、皇太子、同妃であられた天皇、皇后両陛下のこ参拝を仰いだ。
このように皇室をはじめ戦国の武将、徳川の将軍等の崇敬頗る篤かったが、それにもまして顕著なのは当地方民衆の崇敬である。中世以前は、本社の大祭には国司以下国内の民衆挙って奉仕したが、戦国の乱世以後その事も絶えて専ら各部落や組を単位に、信仰団体である数多の講が組織され各地に参拝講や神楽講が結成されて盛に「お弥彦参り」が行なわれた。今でも此の講参多く、地方には「お弥彦さま参り」の済まない男女は一人前と認められず、結婚出来ないという風習が残っている程で、弥彦信仰がいかに民間に浸透していたかが窺われる。
◇社殿と御神木
一の鳥居を潜って神札授与所で左折し手水舎前に来ると、右手の旧本殿跡と並んで石柵を囲らした浄域があり、そこにはこんもりと茂った椎の大木がある。
社伝には、御祭神が携え来られた椎の杖を地中に挿し、もし此の地が自分の住むべき土地ならば繁茂せよと仰せられたところ、芽を出し根を生じて大木となったと語り伝えられている尊い御神木である。
二の鳥居から前方を見ると、秀麗な弥彦山を背景に、随神門が左右にその翼をひろげ、それを透してはるかに社殿が拝され誠に清々しい。
石段を登りつめて一歩随神門に入ると、眼前にはおん金具の光も鮮かな御社殿の全貌が現われて思わず敬慶の念にうたれる。拝殿、本殿、祝詞舎、神饒所、祈祷殿と神社建築の粋を集めて造られたこれらの建物が、それぞれに均衡を保ちながら総合して醸し出す美しさは、周囲の緑林と相映じていよいよ美しく一段と荘厳である。その他域内には最近建築した瀟洒な参拝控所、社務所や宝物殿をはじめ、飯殿、舞殿、参集殿、斎館、神馬舎、絵馬殿等が樹間に整然と立ち並んでいる様は、流石に全国屈指の大社である。
境内には万葉の昔を偲ぶ鹿苑があって十数頭の神鹿が遊び、又鶏舎には、県内愛鶏家の寄進せる、我国在来の鶏十数種を飼養しているが、いずれも天然記念物に指定されたものである。
◇摂末社
摂社
櫻井神社  天香語山命
  西蒲原郡弥彦村麓
妻戸神社  妃神 熟穂屋姫命
  三島郡寺泊町野積
武呉神社  第一嗣 天五田根命
  本社境内
船山神社  第二嗣 天忍人命
  西蒲原郡巻町福井
草薙神社  第三嗣 天戸国命
  本社境内
今山神社  第四嗣 建筒草命
  同
勝神社   第五嗣 建田背命
  同 
乙子神社  第六嗣 建諸隅命
  同
末社
二十二所神社・八所神社・十柱神社(以上本社境内)
火宮神社・住吉神社・上・下諏訪神社・祓戸神社・湯神社(以上境外)
◇宝物案内
末社十柱神社
室町時代の手法を伝える元禄年間の萱葺の建物で、昭和26年重要文化財に指定。
志田大太刀
応永22年に古志郡夏戸の志田三郎定重の奉納。刃渡2.204m中心1.018mの巨大な太刀昭和25年重要文化財に指定
大鉄鉢
嘉暦元年、中条の住人相次郎孝基の奉納。高さ35.4cm、口径59cm余の名器、昭和34年重要文化財に指定。
右の他、当神社の宝物として世に喧伝せられているものに、青磁香炉、巴散双鶴鏡、鞍鐙、後醍醐天皇の勅額、同天皇御奉納の三十六歌仙額、上杉謙信の願文、大久保石見守奉納の金燈籠等がある。
舞楽
当神社には数々の舞楽がある。
大別するとその第一は神歌楽と天犬舞、第二は大々神楽、第三は小神楽である。神歌楽と天犬舞は最も重要なものと言い伝えられ、大々神楽は十三曲に分れ、小神楽と共に奉奏される外、一般奉奏者の奉納により奉奏する。
いずれもその伝統は古く洗練をへたもので、昭和27年県無形文化財に指定。昭和53年燈籠神事と共に国の重要無形民俗文化財に指定。
◇弥彦山
いやひこの高嶺の雲のかがやかに越の国原夜はあけむとす。
(相馬御風)御本殿の背後に聳える弥彦山は、越後の国で最初に朝日に輝く山で、「越後は弥彦山から」と言われ、海抜638mの頂上には御祭神の御神廟があり、一名神剣峰とも言われている。この主峰に対し北方にある峰を十宝山と称し、御祭神が神宝を納められたと伝えられている。
元来弥彦山は神聖な霊峰として拝まれて来た山であり、弥彦山の姿のうちから弥彦大神の神威を拝するという信仰が、彌彦神社崇敬の根幹となって現在に至っているのである。
山頂からの眺望の素晴らしさは全国でもその類少なく、東に沃野千里の越後平野とこれを潤す信濃川の悠々たる流れを望み、西は日本海の白波脚下を洗い、はるか洋上に浮ぶ佐渡が島を望める雄大な展望は実に絶景、佐渡弥彦国定公園に指定されているのも当然である。
山上には日本山岳会の建てた高頭仁兵衛翁の記念碑や、展望台等もあり、又NHK・民間放送のテレビ放送塔、国警・県の行政防災無線塔、弥彦山気象レーダー観測所、新潟大学弥彦山調査研究所、NTT、JR通信施設等があって、神のいますこの山上から電波にのせて新らしい文化の光を日夜県内外に放っている。
神社から御神廟まで3.38Km、(徒歩で約一時間半)、ロープウェイで(5分)、スカイライン(約30分)で頂上に達することができる。
誰でも容易に登ることのできるようになった山頂では、御神廟に詣でては心を清め、眺望をほしいままにしては心楽しむ参詣者で賑わっている。
◇菊花展
毎年11月1日から24日まで新潟県奉納菊花展が行われる。
県内全域より約五千点に及ぶ、優秀なる大小の菊が献花され、拝殿前の広庭に展陳して、御神慮を慰め奉ると共に、数十万の参拝者の眼を楽しませる。
優秀品には文部科学、農林水産、厚生労働大臣賞を始め特別賞が授与される。

由緒書(2)



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