弥彦神社
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【由緒】

祭神は天香山命(あめのかごやまのみこと)。
天照大御神の御曾孫で、神武天皇御東征に功績をたてられた後、越の國開拓の命をうけ、漁業・製塩・農耕・酒造等越後産業文化の礎を築かれた。神社創建年代は詳かではないが、社記によれば和銅(わどう)4年[711年]に神域を広げ社殿を造営、延喜式(えんぎしき)[927年]には名神大社(みょうじんたいしゃ)に列せられた。古くより民衆の篤い信仰を集めており、歴史ある大々神楽講や初穂講をはじめ多くの崇敬者により、連綿とその信仰心は受け継がれている。また現在の社殿は、明治の大火後、大正5年に再建されました。
平成27年に御遷座(ごせんざ)百年を迎えます。

公式HP



【由緒】

弥彦山の東麓に鎮座する越後一宮。正式には「いやひこ」とよばれ、伊弥彦・伊夜比古などとも記される。旧国幣中社。祭神は現在は天香語山命だが、「万葉集」巻一六の歌などから本来は弥彦山を神体とする伊夜比古神であろうか。明神・弥彦明神と記す例もある。
最も早くに成立したとされる弥彦神社縁起断簡(高橋文書)によれば、和銅2年(709)8月上旬明神が降臨したとある。文明3年(1471)の弥彦神社古縁起写(同文書)では、和銅2年に明神が「米水ノ浦」に七日間浮んだのち「太子之浦」に上陸、霊地をたずねて鎮座したという。天平勝宝年中(749―57)金智大徳の時弥彦明神の本地阿弥陀如来が垂迹したと伝える。元禄元年(1688)橘三喜写の奥書のある伊夜比古神社記(弥彦神社叢書)以降の縁起類は、祭神を天香語山命、別名高倉下命とし、紀伊熊野から天鳥舟で米水よねみず浦(現寺泊町野積)に上陸、民に製塩と手繰網の漁法を教えたことから手繰彦命の名を受けたとする。
文献上の初見は「続日本後紀」天長10年(833)7月3日条で、前年来の疫病と干害による餓死から人々を救うため、神験のある「越後国蒲原郡伊夜比古神」を名神としたと記される。承和9年(842)10月2日には無位から従五位下に(同書)、貞観3年(861)8月3日には「弥彦神」が従五位上から従四位下に叙せられた(三代実録)。「延喜式」神名帳には名神社二八五座のうちに「伊夜比古神社一座越後国」とみえ、越後国五六座のうちに唯一の名神大社として「伊夜比古イヤヒコノ神社名神大」とある。平安期に居多神社(現上越市)とともに一宮になったと伝える。弥彦神社縁起断簡には天喜3年(1055)の造営の頃、源義家が安倍貞任攻撃の戦勝祈願をしたと記され、いつの頃からか武神として崇敬されるようになったらしい。「義経記」巻七には大風で寺泊(現三島郡寺泊町)に上陸した義経一行が国上(現分水町)を経て弥彦明神に参拝したとする。嘉暦元年(1326)9月5日には奥山庄中条(現北蒲原郡中条町)の住人相次郎孝基が鉄仏餉鉢(国指定重要文化財)、応永22年(1415)12月には古志郡夏戸城(現寺泊町)城主源(志駄)定重が大太刀付革鐔(国指定重要文化財)を奉納した。また当社蔵鏡鞍付壺鐙(県指定文化財)は八幡太郎義家奉納と伝えられている。宝徳3年(1451)守護上杉房定は3月15日府中(現上越市)を出発し、17日に当社に参拝する予定であった(同年3月12日「平子政重書状」三浦和田黒川氏文書)。永禄7年(1564)6月24日上杉輝虎は願文(弥彦神社文書、県指定文化財)を社前に捧げ、上杉憲政より関東管領職を譲り受けてさらに関東静謐に力を尽し北条氏康を討つこと、信州川中島以来の宿敵武田晴信を討つことなど祈り、さらに同時に晴信の悪行を訴えている(「上杉輝虎願文」堀田文書)。御館の乱の最中の上杉景勝も黒滝城の山岸秀能らの要望を入れて、国内平定ののち遷宮を挙行することを約束した(天正8年5月3日「上杉景勝安堵状写」安部氏所蔵文書)。
〔社領〕
縁起断簡によれば元明天皇の勅願で「東限信濃河、南限大河津・七石曾利榎渋田橋加津毛河、西限塩海、北限赤塚・角田・佐鴻尻」を神領として寄進された。そのほか「伊豆井村」「松森」の散在社領、寺泊津、「蒲原郡内湊」よりの上分料があった。造営の材木は佐渡で調達されたという。本地供養法田・心経会田など計一二三町三段小のほか神宮寺免田が記される。元暦元年(1184)11月23日の後白河院庁下文写(国上寺文書)には弥彦社と国上寺(現分水町)の本領として「庄内七箇条」があげられ、うち中条半分、矢作条、船越条(現岩室村)、下条が大明神供領とされている。神領は現西蒲原郡域に広がっていた弥彦庄内に含まれていたらしい。文明3年(1471)2月22日の日付をもつ伊弥彦神条式写(高橋文書)には庄内神田一九七町六段小・内神田六八町五段・庄内散在田五町八段・御神田一二三町三段小とあり、ほかに神宮司免田一八町五段、国中散在祈祷田が「曾智」「吉井保」「荒井保」「桑橋保」「粟生田」に計六〇町六〇歩、祈祷田が「金王丸」「庄社」「守清」「寺村」「太田上条」「長橋新保」などに九町七段があると記される。
明応5年(1496)4月12日の越後守護代長尾能景遵行状写(高橋文書)によれば、守護上杉氏は社人の過失の連帯責任により差押えられたり勝手に売却した神領は返却することを決め、船宮名(現岩室村)・平野名など一六ヵ所を返付したとある。永正10年(1513)2月27日にも先の決定をうけ、永代・年季売を問わず一〇〇年前後知行していた所領の返還をも命じている(「上杉氏(定実)老臣連署奉書写」同文書)。そのほか元亨2年(1322)の惣神官知行名職帳写、正応3年(1290)の社領并社人知行覚、永正15年(1518)・天文3年(1534)・永禄8年(1565)の社領注文写および大永7年(1527)の検地日記(いずれも高橋文書)などが残るが、社領の全貌を記すものではない。天正9年(1581)5月22日上杉景勝は神領と弥彦町に対して印判を所持しない者への伝馬・宿の提供を禁じ、さらに神領への郡司不入を認めている(「上杉景勝印判状」上杉家譜)。同20年とも推定される辰6月の弥彦神領注文(弥彦神社叢書)には弥彦村・矢作村・黒滝麓村から三島郡・苅羽郡内に及ぶ一九村、計二千一九三石九斗余が記され、うち一千八九石三斗余は社人七五人の抱分とある。慶長20年(1615)松平忠輝より社領五〇〇石を寄進するという黒印状を受け、慶安元年(1648)には将軍徳川家光の朱印状を受けた。社領は弥彦村内にあり、幕末まで変化はない。
〔社殿の造営〕
縁起断簡によれば、元明天皇の勅願で社殿の造営は養老3年(719)から行われたのが始まりで、以後31年に一度遷宮が行われたという。嘉元4年(1306)・観応2年(1351)・明徳3年(1392)には火災にみまわれており、応永14年(1407)5月7日には正殿(不開宮)・中門・舞殿など造営費用などを書上げた造営并遷宮目録(高橋文書)が守護上杉氏に提出されたらしい。室町時代の作といわれる境内絵図(当社蔵)では、玉垣に囲まれた境内に北から南へと社殿が並ぶ様子が描かれている。造営について確実にわかるのは江戸中期からである。寛文8年(1668)以降神主左近光頼は造営願を何度も幕府あてに提出、元禄13年に与板藩を通じて幕府検使派遣が伝えられ、同15年には造営工事着手、翌16年9月完成したという。しかし社殿のいたみが早く享保17年(1732)にはすでに修復願(高橋文書)が出され、宝暦3年(1753)には拝殿のみ再建された。文政8年(1825)から天保2年(1831)には造営費用捻出のため信心講による富興行が開かれたという(文政7年「冨興行願書」同文書)。嘉永3年(1850)に至りようやく本殿のみの造営が実現している。明治45年(1912)3月11日夜、約二町ほど離れた民家から出火し、北から南へ吹く強風にあおられて町並の南正面に位置する境内にも延焼し、本殿・拝殿・社務所などほとんどが焼失した。その後の再建では、本殿の位置を町並正面から西へずらし、弥彦山を背に東面させて建てることとして、境内を拡張、宝光院や民家などを移転させた。また社殿の周囲に杉を植えた。現在の本殿は大正5年(1916)完成のものである。また同8年境内に弥彦陸上競技場(現弥彦競輪場)が建設された。
〔末社と神宮寺〕
境内の末社十柱神社はかつては五所宮とよばれた。初めは大己貴命を祀る小社であったが、元禄7年長岡藩主牧野忠辰の願により同氏に関係する四神を合祀、五所宮と改められたという。翌8年鴻巣村(現吉田町)内の開発地一〇石が寄進された(「牧野氏寄進状」高橋文書)。明治8年大河津分水工事が中止されたのち、渡部(現分水町)の十柱神社のうち九柱を合祀して牧野家四神を除き、十柱神社と改めたという。社殿は国指定重要文化財。そのほか弥彦明神六王子のうち船山神社を除く五王子の摂社、二十二所神社、八所神社がある。また末社のうち火宮神社・住吉神社・上・下諏訪神社・祓戸神社・湯神社(石薬師大明神)が境外にある。
本地阿弥陀如来を本尊とする神宮寺は明治初年までは境内鹿苑北側にあった。創建年代は不明だが、弥彦神社縁起断簡に「神宮寺免田」の記載があることなどから、鎌倉期にはすでに存在していたらしい。神宮寺を弥彦神のお告げにより僧禅朝が建てたとされる龍池寺に比定する説もあるが、同寺は多宝山麓に寺跡が残る、別の寺である。末寺宝光院・真言院があった。延宝6年(1678)吉田神道の学者橘三喜が当社を訪れた。当社神主高橋光頼は三喜に傾倒して廃仏策をとり、縁起の改訂、神宮寺の廃止と霊璽殿奉祀、社家を旦那寺から絶縁させ神祇宗と改めること、真言院内の護摩堂撤去などを行った。また国上寺による勤行なども同9年には停止されたとされる。間瀬西蓮寺(現岩室村)旧蔵の明応4年(1495)10月15日銘梵鐘もこの時神宮寺から西蓮寺へ移されたものという。元禄9年宝光院住職快詠は幕府寺社奉行に光頼の不法を訴え出、光頼は縁起類の改訂、神葬式の採用、仏像仏具の売却などをとがめられ、翌10年越後・江戸追放に処せられた。光頼の後を継いだ神主光隆は神宮寺の復旧など仏教色の復活を誓う請書(弥彦神社叢書)を提出している。しかしその後弥彦神社と神宮寺のかかわりは希薄になったらしい。明治初年の神仏分離により神宮寺は取払われて吉田(現吉田町)観音堂へ移され、本尊の弥彦神の本地仏阿弥陀如来はのち国上寺、さらに石瀬(現岩室村)青竜寺へ移されたのち、明治29年宝光院脇に阿弥陀堂を新築し安置された。また真言院本尊大日如来は宝光院、護摩堂本尊は上和納(現同上)楞厳寺に納められた。
〔社家〕
弥彦神社縁起断簡には大宮司について「昔大国ニノ大明神ノ御舅をや也、仍弥彦氏うちト申ス」と記す。古縁起写は明神の御供に三姓があったとする。元禄の神仏分離以降はこの三姓を尾張連を祖とする弥彦・新保・長橋の三氏とし、長橋氏はのち高橋氏と改めたと伝えるようになる(「尾張連家譜」高橋文書など)。元亨2年2月11日付の伊夜彦惣神官知行名職帳写(同文書)では左座分として大宮司高橋膳正大夫以下、殿内司四名・神官一〇名・祠官九名と八乙二名・大工・宮仕が、右座分として妻戸司三郎左衛門以下、殿内司四名・神官一〇名・祠官七名と土師・宮仕・八乙四名・官使を列挙する。近世には神主・老官・祠官・中老官・下官・八乙の家格に分けられ、世襲制で、神勤席順も決められていた。社家の数は二四家で変動はなかった。神主を勤めた高橋家所蔵の中世から近世の弥彦神社関係を中心とする文書1200点余は、弥彦神社文書として県文化財に指定されている。
〔祭礼・神事と周辺の旧跡〕
文明3年2月22日の日付をもつ伊弥彦神条式写には正月三十ヶ日御供神事から春秋二季の御長祭、節分祭、10月の臨時祭、12月晦日の御祭などが記され、5月5日の神事の役者は庄内七ヵ条地頭が勤めるとある。しかし祭礼・神事などについては近世に記録の改変などが行われたこともあり、はっきりしない。当社に伝わる特殊神事として1月13日の夜宴神事、1月7日の弓始神事、1月11日・10月11日の日神祭(御日待)、1月11日の斧始式、1月15―16日の粥占炭置神事、2月1―4日の神幸神事、3月27日―4月6日と10月27日―11月6日の鎮魂祭(御長祭)、4月18日(旧3月18日)の妃神妻戸大神例祭、7月25日(旧6月14―15日)の灯籠神事・神輿渡御祭がある。鎮魂祭は前月27日に神職が野積のづみ浜(現寺泊町)で海水で禊を行って海藻をとり、麓の桜井神社に参拝したのち本社へ戻るもので「浜出」「御玉祭」ともよばれた。灯籠神事は7月18日に神輿が社殿内に移され、25日夜に灯籠多数を持つ行列を従えた神輿が町内の末社などを巡るもので、国指定無形民俗文化財となっている(弥彦神社特殊神事)。また神幸神事には小神楽、妃神妻戸大神例祭には大々神楽、灯籠神事には神楽歌・天犬舞が奉納される。この四種は弥彦神社舞楽と総称され、国指定無形民俗文化財。小神楽は「おかぐら」ともよばれる巫女舞で6―10歳の幼女により奉納される。神楽歌は旧社家の、天犬舞はかつては旧神領農家から、現在は氏子中からの9歳前後の男児により奉納される。大々神楽は延宝八年まで国上寺の稚児が奏していたと伝え、現在は神職・旧社家・地元氏子の子弟の小学生男子により奉納される。当社蔵の文化財はすでに挙げたもののほか、県指定文化財の砧青磁袴腰大香炉一口・天保14年作大太刀(拵とも)一振がある。
周辺には弥彦神社にかかわる旧跡が多い。弥彦明神六王子のうち、第一王子の武呉の神廟が境内の三笠山とよばれる丘の頂、第二王子船山の神廟と船山神社が現巻まき町福井、第三王子草薙・第五王子勝の神廟が外苑弥彦公園内の御殿山、第四王子今山の神廟が現岩室村樋曾、第六王子乙子の神廟が旧社殿地の神木椎の大樹脇にある。弥彦明神の神廟は弥彦山頂にある。矢作の赤崎神社は当社の灯籠神事とかかわりがあり、麓の桜井神社は弥彦神の旧跡と伝える。国上寺は当社の別当寺で、当社までは通称稚児道で結ばれる。弥彦・角田山塊の西側には弥彦神の上陸地野積、弥彦神の旧地を称する大宮神社、弥彦神の妃を祀る妻戸神社、女釜・男釜の洞窟などが点在する。また石瀬には、弥彦神がウドで片目を刺したので以後弥彦山にはウドが生えないという片目神の伝承があり、弥彦神と鍛冶集団とのかかわりをうかがわせる。

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