在地豪族である五十嵐氏代々の居館の跡。五十嵐小文治館の鬼門の位置に鎮座していた。五十嵐神社は江戸時代までこの地に鎮座していた。 |
五十嵐舘跡 新潟県指定文化財(史蹟) 五十嵐舘跡 昭和48年3月29日指定 かつて下田郷一帯は「五十嵐保」と解ばれていましたが、この館跡はその五十嵐保の在地豪族である五十嵐氏代々の居館の跡と考えられています。五十嵐氏は鎌倉幕府の御家人として歴史に登場し、約四百年間この地を支配しました。 館跡の大きさは東西80m、南北95m、面積8330平万メートルで、鎌倉時代中期から江戸時代の初め頃まで使われていたことが明らかになっています。 昭和47年に発掘調査が行われ、幅10m、深さ1mの堀と土塁がめぐっていたことが確認されたほか、その内側には二棟以上の建物跡が発見されています。 中世の地方豪族の典型的な館跡として貴重なことから、新潟県史跡に指定されました。 地元では、源頼朝に仕え、豪勇で知られた五十嵐小文治吉辰が築いたものと伝えられています。 新潟県教育委員会 三条市教育委員会 社頭掲示板 |
五十嵐館跡 五十嵐館跡の概要 この館跡は雨生ヶ池(三条市吉ヶ平)の竜神の子で五十嵐保(下田地域)の開発の祖と敬われた五十嵐小文治吉辰(一族は「五十嵐党」と呼ばれ、その総領は代々小文治と称した)が築いたものと伝えられている。館は台形に近い形で、虎口(入口)は東側一カ所で、四柱門があった。東南と南西の角には礎石を使用した一間四方の櫓(小屋)があった。西面はゆるやかに折れ曲がった士居敷約10mの土塁があり、北面は複雑で館内にくぐり込む堀もあった。 館跡はその規模や造作から軍事面よりも一族の支配や農民への領主権を誇示しようとする意図がみられ、五十嵐氏の在地領主の様相がうかがえる。 平成8年3月 三条市教育委員会 五十嵐小文治館跡保存会 社頭掲示板 |