|
祭神の五十帯彦命は垂仁天皇の皇子で、母は苅幡戸辺。日本書紀は石田君の始祖とし、古事記は春日山君・高志池君・春日部君の祖とする。伝えによれば、皇子は北陸開拓のため頸城(くびき)地方に続いて上田郷(南魚沼)を、そして下田郷の開墾を終わり、飯田宮沢の地で生涯を閉じ、舞鶴の丘に葬られた。 当初鎮座の地は五十嵐小文治館跡とされ、江戸時代に丘陵部に遷座した、この位置は現在大杉保存殿がある位置近くとおもわれる。岡下の集落からの旧参道の正面である。その後さらに現在地に遷。 |
|
五十嵐神社 例祭神 第11代垂仁天皇第8皇子 五十日帯彦命 大和期延は4世紀の中頃までに、西は北九州から東は中部地方に至る国土の統一をほぼ完了したであろうと言われる日本の歴史において、皇子は天皇の詔を受け、越の国の各地に赴き、春日山之君、越之君、池の君と仰がれ、最後に下田村飯田字宮沢に居住され、治水・農耕の技術を教え、下田郷の開拓に当ったと伝えられる。 皇子御薨去後、その神徳を慕い当地に手厚く葬ったと伝えられ、宮内庁諸陵寮より御陵墓伝説地の許可を受ける。 (五十嵐の祖として)五十嵐とは、伊賀多良志・伊賀良志、そして、農民の理想と乞願う五風十雨の天候の好順を表せる意と伝承され、五十嵐川の名もこれに由来すると言う。 (安産の伸として)皇子、開拓の途、皇妃無事安産せしむことに因むこと。併せて若一王子・石抱杉・夫婦杉をして安産、子育ての神として崇拝される。 社宝 御陵墓地出土品『菊紋土器』那須与市の『木杯』『腰旗』小野道風筆『社額』五十嵐小文治『膳椀一式』他・太刀石器土器類 祭礼 5月3日 9月15日 宵宮と大祭当日に宮清め五穀捧げを始め、拾数舞の稚児舞・大太神楽が奉納される。 大杉保存殿 御陵墓前面に植えたと言われる注連懸けの大杉は、新潟県の天然記念物の指定を受けたが室戸台風に遭遇、枯死したため、五十嵐小文治ゆかりの石抱き部分を残しての保存殿。 楽楽園 茶室『楽楽亭』を中心とした池泉回遊式庭園。 昭和3年・北日本六県一等遊覧地当選。 羽黒陵 神社の東約600m、神社と同じ河岸段丘上に位置し、周囲140mの円墳、皇妃または皇女の陵墓と言われる。付近一帯に縄文、弥生、須恵器、土師器等の土器が出土している。 五十嵐小文治 竜神の子として生まれた小文治は成長し、五十嵐小文治吉辰と名のり、祖と仰ぐ五十嵐神社を守護神として奉斎し、神社の南600mに居を構え、鎌倉幕府の御家人として源頼朝に仕えた。小文治の豪方振りは有名で関東全域に知れわたり、弓の名人那須与一も小文治を訪れ親交を結んでいる。建?3年(1212)の和田合戦には将軍実朝の館の警備に当ったが、和田義盛の子朝実三郎義秀と戦い戦死したと吾妻鏡に記されている。また、一説にはその後諸国を遍歴して四国伊予国越智郡に城を築き、地名を「五十嵐」と名付けその地に生涯を閉じたとも伝えられる。承久3年(1221)に起きた承久の乱には、北陸道から京都に攻めのぼった幕府軍に加わり、戦功によって越中国国古名の地を拝領している。 上杉謙信の亡き後の天正7年(1579)景勝、景虎の相続争いの御館の乱で敗北した景虎方についた五十嵐一族ははとんど所領を失ない没落した。その結果、400年間の永きに亘り代々の惣領小文治に率いられ成長してきた五十嵐一族も下田郷から姿を消している。五十嵐一族の館跡は昭和46年、47年に発掘調査が行われ、中世の豪族の館跡として典型的なものと確認され、県の文化財として認定された。下田村でも「小文治館跡保存会」を結成し、貴重な史跡を後世に残すため努力している。 由緒書 |