奴奈川神社 【天津神社境内社】
ぬながわじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】奴奈川神社 越後国 頚城郡鎮座
          (天津神社)天津神社

   【現社名】奴奈川神社【天津神社境内社】
   【住所】新潟県糸魚川市一の宮94
       北緯37度2分24秒、東経137度51分52秒
   【祭神】奴奈川姫命 (配祀)八千矛神
       『越後風土記節解』奴奈川彦命・奴奈川姫命・黒媛命

   【例祭】10月23-24日 秋大祭
   【社格】旧県社
   【由緒】創立年月不詳
       元暦2年(1185)山崎に遷座
       慶長16年(1611)9月19日大久保石見守寄進
       大正7年2月郷社
       昭和18年3月1日県社

   【関係氏族】
   【鎮座地】神代、高志峯(黒姫山)山頂に鎮座
        のち梯立村(橋立)へ遷座
        元暦2年(1185)蓮台寺と平牛の中間付近の山崎(西海入口)へ遷座
        その後現在の地へ遷座

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「柳形田社・柳形神社・柳枝権現・柳田神社」と称していた
   【社殿】本殿
       

   【境内社】柳形田社・柳形神社・柳枝権現・柳田神社

奴奈川神社の本殿は天津神社本殿の向って左隣(西側)に鎮座する。


天津神社

神社名 天津神社 一ノ宮と俗稱す
祭 神 瓊々杵尊 天児屋根命 天太玉命
境内別に奴奈川神社あり奴奈川媛命 八千矛命を祀る
鎮座地 新潟縣西頸城郡糸魚川町大字一ノ宮
人皇第12代景行天皇の御宇の創設に係り人皇第36代孝徳天皇の勅願所たりと云ひ傳へ延喜式内社の一ならむと推稱せらる
社殿はもと山崎の地に在りしを山崩れのため此の地に移し造營したりと傳ふ
此の地方は往昔沼川郷と稱し奴奈川媛命の棲みましし處八千矛命が遠く海を渡りて此の地に上陸せられ媛と契らせ給へりと云ふ史實と御二方の間に生れましし建御名方命が姫川の渓谷を辿りて信濃路へ進ませられ遠近を開拓統治し給へりと云ふ傳説とに徴すれば此の地は神代に於て國津神の威武を内外に發揚し給へる重要なる基地たりしを想察するに足る
ただ神社名が天津神社と呼ばれ境内別に奴奈川神社の存するは後世天神地祇其の處を換へたるに依るならむか
女神像四體 掛佛 古面 舞楽装束等を秘蔵す
春季大祭は4月10日(昔は3月10日)秋季例祭は10月24日(昔は10月10日)執行せらる。
大祭に神輿渡御の盛儀あり壮観多く匹傳を見ず
舞楽十二曲あり俗に「ちごの舞」と稱し大祭當日演舞せらる百花繚乱の候婉麗優美千古雅趣を帯ぶる舞楽を豪壮極りなき神事の後に拝するは對照の妙正に一大奇観にして古来名物祭の名を檀にしたる所以も亦茲に存するか
陵王 大納蘇利 拔頭 能拔頭の舞面は明治11年9月明治天皇の北陸御巡幸に際し行在所に於て天覧に供したり
神社は藩政當時朱印一百石を寄進せらる
大正7年郷社に列せられ昭和18年3月縣社に列せらる

社頭掲示板



奴奈川神社

糸魚川駅鎭守一宮村天津社の域内柳田神を地主神と称す、此神は越後風土記節解に在高志峰(亦黒姫山)地津神奴奈川彦命女奴奈川媛命母黒媛命三座祭、號柳形神(元暦二年秋山崎有遷座)云々とあり、土人の説に黒姫山絶頂に黒媛山社あり、背後梯立村に沼川神社ありしを、後山埼村字山埼に遷し、其後柳田と云に遷し、其後今地に遷せり、今も山埼に旧址あり、沼川の池あり、世俗挙て沼川社と云もの証とすべし、故今之に從ふ。

特選神名牒



奴奈川神社

1.西頚城(にしくびき)郡田海(とうみ)村を流るゝ布川の川上に黒姫山と云ふ山あり、奴奈川姫命(ぬながわひめのみこと)の御母黒姫命の住座し給ひし山なり、山頂に石祠あり黒姫明神と称す、又黒姫権現(ごんげん)とも云う、此(こ)の神こゝにて布を織り其(その)川の水戸に持出で滌曝(てきぼう)まししによりて布川と云ふ。此神の御歌に
ここに織る此の荒たへはかの海の小島にいますわがせの御衣 と。
2.黒姫山の半腹に福来口(ふくがくち)と称する洞穴あり、洞口高百五十尺、横七十尺、遠く之(これ)を望めば門扉を開くに似たり、水洞中より出で流れて川となる即ち布川の水源なり、古昔奴奈川姫命の布を織りし所なり。福来口は蓋(けだ)し夫来ヶ口ならんと。
3.西頚城郡に姫川と云ふ川あり、糸魚川と云ふ町にあり、糸魚川はもと厭川と書きしと云ふ。之れ奴奈川姫命が今日の姫川を渡りなやませたまひてかく呼びたまひしによると。
4.糸魚川町の南方平牛(ひらうし)山に稚子(ちご)ヶ池と呼ぶ池あり。このあたりに奴奈川姫命宮居の跡ありしと云ひ、又奴奈川姫命は此池にて御自害ありしと云ふ。即ち一旦大国主命(おおくにぬしのみこと)と共に能登へ渡らせたまひしが、如何なる故にや再び海を渡り給ひて、ただ御一人此地に帰らせたまひいたく悲しみ嘆かせたまひし果てに、此池のほとりの葦(あし)原に御身を隠させ給ひて再び出でたまはざりしとなり。
5.奴奈川姫の命は御色黒くあまり美しき方にはおはさざりき。さればにや一旦大国主命に伴はれたまひて能登の国へ渡らせたまひしかど、御仲むしましからずしてつひに再び逃げかへらせたまひ、はじめ黒姫山の麓にかくれ住まはせたまひしが、能登にます大国主命よりの御使御後を追ひて来たりしに遇(あ)はせたまひ、そこより更に姫川の岸へ出(い)でたまひ川に沿うて南し、信濃北条の下なる現称姫川原にとどまり給ふ。しかれとも使のもの更にそこにも至りたれば、姫は更にのがれて根知谷に出でたまひ、山つたひに現今の平牛山稚子ヶ池のほとりに落ちのびたまふ。使の者更に御跡に随(したが)ひたりしかども、ついに此稚子ヶ池のほとりの広き茅(かや)原の中に御姿を見失ふ。仍(より)てその茅原に火をつけ、姫の焼け出されたまふを俟(ま)ちてとらへまつらんとせり。しかれども姫はつひに再び御姿を現はしたまはずしてうせたまひぬ。仍て追従の者ども泣く泣くそのあたりに姫の御霊を祭りたてまつりしとなり。
6.根知谷上野村に御所と呼ぶ所あり、小高く土を盛り、四方を切石にて囲む、之れ奴奈川姫命宮居の跡なりと。
7.根知谷に上澤、大神堂(だいじんどう)の二ヶ所あり。上澤はもと神澤、大神堂はもと大神道と書きしが明治6年地権の際現在の如く改めしなり。いづれも大国主命と奴奈川姫命とに関係ある史跡ならんと土人云ひ伝ふ。
8.根知谷山口山にジンゾウ屋敷と呼ぶ所あり、之れ往昔奴奈川姫命の従者の住居せし跡にして、同谷山寺日吉神社裏山に奴奈川姫命の神剣埋めありと。
9.根知谷別所(べっしょ)山に牛の爪の痕(あと)の三つ刻まれある岩と、馬の足跡の一つ刻まれたる岩とあり。昔奴奈川姫命に懸想したる土地の神が大国主命の来りたまひて姫を娶(めと)らんとしたまひしを憤り、大国主命の宮居へあばれ込み、論争の結果、山の高所より跳びくらべをなし勝ちしもの姫を得ることにせんと約す。即ち土地の神は黒き青毛の駒に跨(またが)り、大国主命は牛に乗り給ひて、駒ヶ岳の絶頂に立つ。茲(ここ)に於(おい)て先づ土地の神馬に鞭をあててその絶頂より飛びしにかの馬の爪痕の残れる別所の一角に達す。次に大国主命牛をはげまして飛びたまひしに、不思議にも馬の達せしところより二三町先なる地点に達したまふ。之れ今日なほ牛の爪痕の残れる岩のあるところなり。然るに土地の神この結果を見て更に大に憤り、今一度勝敗を争はん事を求む。大国主命快く諾ひたまふ。仍て土地の神先づ憤激にまかせて、馬を飛ばせしが、天なる神の咎(とが)めやありけむ、僅(わず)かに駒ヶ岳の中腹に達せしのみにて、しかも馬毫(わずか)も動かず、そのまま石に化し了(おわ)る。今なほ駒ヶ岳の中腹に馬の形をしたる岩石ありありと見ゆ、即ち之れなり。而して此の馬、石と化してもなほ時候の変り目などには折々寝返りをなすとは今日尚ほ土俗の信ずるところなり。
10.姫川の上流なる松川に姫ヶ淵と名づくるところあり、之れ奴奈川姫命の身を投げてかくさせたまへるところなりと。
11.長野県北安曇郡此小谷村に中又と呼ぶところあり、ここにて奴奈川姫命建御名方神奴奈川姫二柱なり。
12.姫川の上流姫ヶ淵の付近にコウカイ原と云ふところあり、ここにて奴奈川姫命その御子建御名方神と別れたまひしところなりと。
13.糸魚川の地方にては毎朝鶏鳴(けいめい)を待ちて一同起き出で屋内、門前等の掃除をなす、此は奴奈川姫の古事によりて今に替らず、これ当国中に曽(かつ)て見得ざる所なりとは越後風俗志の誌(しる)すところより。

天津神社並奴奈川神社



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