気多神社
けたじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】気多神社(名神大) 越中国 射水郡鎮座

   【現社名】気多神社
   【住所】富山県高岡市伏木一宮2063
       北緯36度48分1秒、東経137度2分40秒
   【祭神】大己貴命・奴奈加波比売命(相殿)菊理姫命・事代主命
   【例祭】4月18日 春季大祭 9月25日 秋季大祭
   【社格】旧県社 一ノ宮
   【由緒】養老2年(718)僧行基が創建
       天平宝字元年(757)気多大社を国府に近い現在地に勧請
       延暦3年(784)3月正三位
       延喜8年(908)8月越中国氣多神領官幣
       承暦4年(1080)6月10日中祓を科される
       寿永年間(1182)木曽義仲の兵火で焼失
       天文年間(1532−55)戦乱によつて、氣多神社社殿兵火焼失
       永禄年間(1558−70)再興
       慶安3年(1650)10月前田利常より神領寄付
       明治6年8月県社

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【公式HP】 気多神社
   【社殿】本殿流造柿板葺
       昭和6年1月国宝指定を受け、戦後は重要文化財指定
       拝殿・幣殿・倉庫・社務所

   【境内社】

天平宝字元年(757)には再び越中国より能登国分立となつた、おそらくこの前後に越中国府に勧請されたものであろう。
能登が越中に含まれていれば、能登の気多神社は国内第一の大社であり、越中国司は参詣する必要があった。しかし能登の気多神社は越中国府から甚だ遠い。従って国府に近い所に気多神社の遙拝所を設けたのを、能登国分立後に独立の神社に直したのかもしれない。
大伴家持が越中国国守として在勤していた天平18年(746)から天平勝宝3年(751)迄の足かけ6年間、『万葉集』の巻17、巻18、巻19には当時の様子が詳細に詠われているにもかかわらず、越中国国府の間近にあったはずの当社に関する記述が全く見えない。それ以降の創建の可能性があるとされている。
中世神仏習合時代には、気多神社には南北両谷に四十九坊あつた。


気多神社

越中國一宮気多神社
御祭神 大己貴命(おおなむちのみこと)
    奴奈加波比売命(ぬなかはひめのみこと)
相殿  事代主命(ことしろぬしのみこと)
    菊理媛神(くくりひめのかみ)
御神徳 -福徳円満開運 商売繁盛 縁結び 病気平穏 学業成就 交通安全
気多大神様は大国主命様の御分身であられます。大国主命様とは、「だいこくさま」と申して慕われているかみさまです。だいこくさまは「天の下造らしし大神」とも申しますように、私たらの遠い親戚と喜びも悲しみも共にせられて、国土を開拓され、国造り、村造りに御苦心になり、農土・漁業をすすめ、殖産の法をお教えになり、人々の生活の基礎を固めて下さいました。そして医薬の道をお始めになって今もなお人々の病苦をお救いになるなど、慈愛に満ちた御心を寄せて下さる救いの神様です
また、「だいこくさま」と申せば、「縁結びの神様」と申しますが、この「縁結び」ということは、単に男女の仲を結ぶことだけでなく、人間が立派に成長するように、社会が明るく楽しいものであるように、全てのものが幸福であるようにと、お互いの発展の為につながり結ぱれる事です。「だいこくさま」が「福の神」と慕われ、多くの人々から広く深く信仰をお受けになっているのも、この「結び」の御神徳、つまり愛情を私たちに限りなく注いで下さる神様であるからです。
そして「だいこくさま」は幽冥主宰大神(かくりごとしろしめすおおかみ)とも称されます。幽冥(かくりよ)とは、神の世界のことで、人々の亡くなった後の霊魂が帰る世界でもあります。この幽冥は私たちの世界からは見る事のできない世界ではありますが、大国主命様は、幽冥主宰大神として、この幽冥をおさめられ、人々の霊魂をも治められる神様です。
では、どの様にお守り頂いているのかと申しますと、「だいこくさま」はその左肩に担いでおられる大きな風呂敷のなかに、私達の様々な想い、苦しみなどをお取り下さいます。そして右手にお持ちの打ち出のこずちにて頭を撫でて頂き、美しく清らかな「気」を注いで下さり、新たなる日々の生活に活力の種を頂きます。その繰り返しのなかで、米俵、つまりは心の豊かさを、知らず知らずのうちに私達の身に頂くことで、争いの無い穏やかな思いやりのある家庭を築くことができ、その様な家庭が多くできることが国を治める事になります。
人間にとり最とも大切なことの一っは「和」と言われております。しかし、努カだけではなかなか「和」は作りにくいものです。気多大神様はその御神徳により先ずは私達に平穏な安らぎを下され、家庭に「和」をもたらされ、土地を治め人を治める有り難き御祭神にあらせられます。 *手を合わせる…感謝の意を表す
*頭を下げる…解脱の姿を表す
*有り難うございます…言葉の中で最も尊く人の心を治める言魂

越中國一宮氣多神社御縁起
412年 国はまだ荒れており、人がまだ住まい定まらぬ時、この国を治める長として生まれいでし男子あり。その名を「ようへい」と申した。
422年 ようへい十才の頃より五感鋭くこの地を治める知恵を民に伝え始め民が住む場所も定まりこの地の長となる。
460年 ようへい四十八才にて亡くなる。その子孫親の役目を引き継ぎ民の長として十数名の者達と共にこの地を開拓し整備して行。
563年  ようへいの子孫、民の集まる場所として杉を植え以降この木が御神木となり人々が参集する場所となった。(1240年に落奮を受け上部焼け落ちるも現在まで新芽を拙しその役目を果たしている)
593年 この地の長、民により御神木の側にほこらを建立した。(氣多神社の前身)
その後、この地を幽厳なる地として子孫累々と築き上げた。
732年 越中国に大己貴命様御鎮座賜るため朝廷の使いが役人その他十数名を伴いこの地を訪れ、この地の整備されていることに驚き、これ一重に良き指導者の元にての事と察しこの地を越中国の鎮守の地と定め、朝延よりの命により能登一宮氣多大社より御祭神大己貴命様の御分霊を勧請され、氣多大神として御鍍座賜りまして、この地を越中国一宮気多神社と定められた。当時は、樹木も小きく海、山も見渡すことができた初代宮司は、大家 実朝にて能登國一宮気多大杜の神職を代々役目としていた大家家より奉職きれた。着任されてより当地に不案内のところ、ようへいの子孫であるようじゅんが民との架け橋となり宮司をもり立てた。その年は天候も穏やかなれぱ作物も実がなり、これも一重に氣多大神様のおかげと民喜び勇、祭事を継承して行く。
745年 御紳木側のほこらより山側に本殿建立された。
748年 実朝に子孫無く、甥の大家 時基奉職された。時基は、ようじゅんの姪すのと結ばれ男子と女子を授った。その名は、要徳とふのと申した。要徳十六才の時、神官として奉職するにあたり大家と名乗らず、自ら大江要徳と名乗りその後代々大江家が紳官の職を引き継ぐ事となった また ふの も女人ではあったが奉職し神官以上の奉仕をした。
764年 祭尊、栄えに栄し時、民集いて気多大神様の嫁取りの儀式を行い奴奈加波比売命様が越後より御鎮座いたされ、夫婦神となられた。その年は豊漁にて人々ありがたしと感謝の念と共に毎日魚を奉納いたし喜び勇、御前にて豊漁の宴を繰り返していた姿をお認めになちれ。「信心深き艮よ」とお喜び頂いて、事代主命様の御鎮座を賜った。
810年 この外、暴風雨激しく穀物実らず漁にも行けず国が乱れ疫病が流行した。それを救わんが為、氣多大神様の御威徳により、加賀一宮白山比盗_社御祭神菊理媛命様をお呼び下された、当時は人々の生活が最も厳しい時期でばあったが、精一杯の祭事をいたしお迎えいたした。その姿に感激いたされ、菊理媛命様は命司神(いのちつかさどるかみ)として御神カを下されまもなく天候穏やかになり疫病も消え去った。女神たる故の慈悲深い御心持ちての御鎮座であった。
これより気多大神様と共に三体の御祭神御鎮座賜りて、一千二百年以上にわたり越中国の守護神としてお守り頂き、私達がこだわりのない心、豊かな心、和を尊ぶ心で…日々暮らし行く事が出来るようにお導き頂いております。

越中國一宮氣多神社略史
天武天皇 686年 越の国を越前・越中・越後の三国に分割する。
大宝2年 792年 越中国の東側四郡(頸城・古志・三島・魚沼)を割いて越後に属する。
養老2年 732年 越前国の能登四郡(羽咋・能登・鳳至・珠洲)を割いて能登園とする。
天平4年 732年 能登國一宮気多大社より御分霊(大已貴命)を勧請され、氣多大神として御鎮座賜り越中國一宮氣多神社となる。
同年、下従五位田口年足越中国守着任
天平13年 741年 能登国が越中国に合併される。国分寺・国文尼寺建立の勅命下る。
天平18年 746年 従五位下大伴家持越中国守着任 751年まで
天平宝字元年 757年 能登四郡再び分立し、越中国は射水・砺波・婦負・新川の四郡となる。
延長5年 927年 藤原忠平等、延喜格式を講進する。
当社は、越中34座の名神大一座として神名帳に登載される。
承暦4年 1080年 天皇御体の御占により、越中國に神祇官が派遺され当社等の祉司に中祓を科するよう泰上する。
寿永2年 1183年 源義仲が兵を率いて越後から越中に入りそのおりの兵火により当社を除く外末社等焼失する。
文治3年 1187年 源頼朝が北陸道及び畿内に宣旨を下し源義経を捕らえさせたが、義経は逃れ北陵道に入り如意の渡を過ぎて行く。
天文年中 1550年 上杉謙信の兵火により当社及び外末社焼失する。
その後、当社の別当により小社殿を建立する。
正保2年 1645年 加越能大守前田利常侯、当社を崇敬し神殿、拝殿等を再築する。
以降、当社の維持に関することは全て藩費によることとなる。
慶安3年 1650 前田利常侯が社領10石を寄進して子綱紀の安全息災を祈願する。
明和3年 1766年 社殿が修理され正遷宮を行う。費用は万人講除銀で賄われた。
天明7年 1787年 社殿が修理され藩は入用銀10枚を下付した。
文化元年 1805年 社殿修理替が終わり正遷宮が行われた。
明治2年 廃仏棄釈の令により当社本地仏が旧国分寺跡の薬師堂へ遷す。
明治6年 1873年 当社が県社に列す。
昭和2年 1927年 一宮坊の上の宇賀社・得照寺の愛宏社・大工山の水神社・法土寺野の紳明社の四社の御神像が当社に安置される。
諸和6年 1931年 文化財保護法により、本殿が国の重要文化財に指定された。
昭和9年 1934年 祉殿が修理され正遷宮が行われた。
昭和25年 1950年 社殿修理の為、本殿の解体工事着手する。
昭和26年 1951年 解体修理が終わり、上棟祭と竣工式が行われ同年末正遷宮が行われた。(工費 340万円)
昭和40年 1965年 気多神社消防隊が編成された。
昭和44年 1969年 自動火災報知器、自動放水施設及び貯水糟等の防災工事の完工式が行なわれた。
昭和51年 1976年 本殿の屋根柿葺(こけら)替工事完了し正遷宮が行われた。

由緒書



気多神社

重要文化財 気多神社本殿
気多神社は養老2年(718)に僧行基が創建したと伝えられ、また、天平宝字年間(757−64)に越中一ノ宮として能登一ノ宮の気多大社から勧請したともいわれている。
社殿は天文年間(1532−54)に上杉謙信の兵火にかかりことごとく焼失したので永禄年間(1558−69)頃に再建したのが現在の本殿であると称されている。
その構造は三間社流造りで、正面一間の向拝があり屋根は柿板葺とし、軒は二重繁垂木である。斗供は和様の三ッ斗で、棟下の両側面柱の上は舟肘木を用いている。
向拝斗は同じ三ッ斗で正面虹梁上には彫刻した蟇股があるがこれは後代につけ加えたと思われる。向拝柱及び、面第一列に方柱を用い、他はすべて円柱である。
正面三面及び両側面一面は吹通しとなって、意匠は簡単であるが、木割が大きく、総体に雄大な風格の社殿で室町時代の特徴が充分にあらわれ、その作風が、優秀であるので昭和6年1月19日国の指定を受けた。
この社殿は元和4年(1618)以来度々の修理があったがよく古格を保ち、近くは昭和25・6年に解体修理が行なわれ、また昭和43・4年にわたり防火設備を完備した。
昭和49年6月
高岡市教育委員会

社頭掲示板



気多神社

気多神社(けた じんじゃ)は、養老2年(718年)に僧行基が創建したと伝えられています。また天平年間(757〜764年)に越中一ノ宮として能登一丿宮の気多大社から勧請したとも言われています。なお、富山県内には気多神社を含めて「越中一ノ宮」を称している神社が4ヶ所(雄山神社・気多神社・射水神社・高瀬神社)あります。
天文年間(1532〜1554年)に上杉謙信の兵火にかかり焼失したため、永禄年間(1558〜1569年)頃に再建したのが現在に残る本殿と云われています。構造は、三間社流造りで正面一間の向拝があり、屋根は柿板葺きで軒は二重繁垂木です。斗キョウは和様の三つ斗で、棟下の両側面柱の上は舟肘木を用いています。向拝斗キョウは同じ三つ斗で、正面虹梁上には蟇股(かえるまた)があります。向拝柱および前面第一列の方柱を用い、他の柱は全て円柱となっています。
正面三面および両側面は吹き通しで、意匠は簡易なつくりですが木割が大きく全体に雄大な風格の本殿で室町時代の特徴を見ることが出来ます。
この参道の階段を上った正面が拝殿で、その後方に本殿(国指定重要文化財)があります。本殿の近くまでは行けませんが、拝殿の左手に回り込めば比較的よく見えます。階段上部左側の大きな杉の木は気多神社の御神木です。

公式HP



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