気多神社
けたじんじゃ


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【由緒】

由緒不詳ト雖モ、養老2年越前國ヲ割キ能登國ヲ置力レシ時、勧請ノ由傳來。延喜8年8月乙卯越中國氣多神領官幣。延暦3年3月丁亥氣多神正三位。一ノ宮記二氣多神有之。社傳二曰ク、気多神社ハ當國一ノ宮ト称シ、衆庶信仰シ、且又天平年中大伴家持越中国守護タリシ時、尊敬格別ニシテ、旧記等ニモ有之由。然レトモ當國兵乱度々二及ビデ悉皆焼失セリ。大伴家持ノ旧地モ隣村ニシテ、古府村ト称シ、又隣村國分村ニ國分寺ノ旧地有之。其從前金澤藩二於テ、社殿営繕ノ爲、寄付米及ビ寄付山モ有之。明治6年8月、縣社二列ス。

神社明細帳



【気多神社の沿革】

気多神社は、伏木一宮地内にある越中国分寺跡の西方山裾に鎮座する。
延長5年(927)に完成した延喜式神名帳に記載された神社は「式内社」と称され古い由緒を貴ばれているが、気多神社は越中国内の式内社34座1つにかぞえられるとともに、神名帳の異本(九条家本)においては越中国唯一の名神大社と記されている。
創建は、社伝によると天平宝字元年(757)に、越中より能登国が分立した後、越の大社と崇められていた能登・羽咋にある気多大社を国府に近い現在地に勧請したものといわれている。(能登は、養老2年(718)に越前から分立し、天平13年(741)越中に合併。その時点で、能登の気多大社が、越中全体の一宮であった。その17年後の、天平宝字元年(757)に、再度分立しているため、その頃に、国府に近い当地に、分霊を祀ったものと考えられている。)
一説によると養老2年(718)に僧行基が開基したものともいわれている。
盛時には、越中一宮として境内の周囲に神宮寺である徳証寺をはじめとする大伽藍が並立していたと伝えられるが、寿永年間(1182)に木曽義仲、天文年間(1532〜55)には上杉謙信と2度にわたる兵火で、ほとんど全てが灰燼に帰したという。
当時、お寺が並立してたであろう場所。現在は寺山と呼ばれ、畑などに利用されている。
現在の本殿は、永禄年間(1158〜70)に再建されたと伝えられるもので、三間社流れ造り、柿板葺で、正面に1間の向拝をつける。
周囲に玉石をめぐらした亀腹の上に柱を建てる。向拝柱及び全面1列の柱は方柱で、他は全て円柱である。 全体に簡単な意匠であるが木割は大きく雄大な風格を備える社殿で、県内本殿中きっての優品である。

一宮青年団






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