此の地が雄神神社の元位置といわれている。 |
弁財天社 弁財天社略縁起 謹んで庄川総鎮護の御社と称え奉る弁財天社の由来を窺い奉るに第86代後堀河天皇の寛喜2年庄川は毎年洪水打ち続きて昨日の美田は今日は川原と荒れ果て万民の嘆き甚だしければ時の大宮司藤井秀範雄神高瀬の神前に祈願なしぬるに満願の七日目の暁に畏しや御託宣ありて市杵島姫命保食神を祭るべき地を川辺に求むべしと諭され御教の随に川辺に至ればあな不思議や一箇の島忽然と河中に峙ち水流和やかに左右に分かたる秀範これこそ願望成就の奇瑞なりとして社殿を造立し毎年幣帛を捧げ安穏にして五穀成就万民繁栄の祈願怠ることなければ万民安堵の思いをなせり。 抑も市杵島姫命は水脈を司り給い保食神は五穀を守り給ふ神威いや高き神にしあれば老若男女の分ちなく常に信仰し水難を治め万民の繁栄祈らば御霊験の著しきは疑なかるべし当年は33年式年慶賀の神事に会い参拝の人々に此の尊き御神像を参拝せしむるものなり。 再拝拍手謹んで拝礼 平成2年8月 藤井家68代神主 藤井秀弘謹拝 社頭掲示板 |
弁財天社 砺波市指定文化財 庄川の弁財天社 弁財天社は、庄川流域四万農家を庄川の洪水から守る水神として流域の人々の崇敬を集めていろ。33年ごとに行われる「御開帳」には十万人をこす参詣者で賑う。 弁財天の起源については古来諸説が多いが、天正13年(1585)の大地震で庄川が大洪水になったおり、藩主前田利長が被災地の視察にこの地を訪れたとき、激流逆巻く流れの中に樹木が繁茂した小島が残り、被害を最小限にとどめた。 利長公は不思議に思し召され、記念のため弁財天を祀り、小島を弁財天山と命名したと記されている。 弁財天社は別称「元雄神神社」といい、庄川の洪水で雄神神社が東側山裾に移転を余儀なくされ、残された拝殿に本殿と同じ祭神を勧請した故に名づけたといわれている。 周囲には、近隣に珍らしい大株のヤブツバキの群生が見られ、春には濃い緑の中に赤い椿の花が咲き誇っている。 昭和62年3月 砺波市教育委員会 社頭掲示板 |