縄文時代以来の狩猟生活とも結びついた在地の神が、古代の国家神道のもとに式内社として編成されたのち修験の信仰が結びついてた神社であろう。 天平宝字元年(757)大友吉親が大和国吉野金峰山の蔵王権現を勧請し現在地に創建したという。 社務所でもある社家大友家は、麓の字木ノ根坂にあり、鎭座地の保呂羽山(438m)頂までは徒歩約一時間を要する。 集落の隅。山裾に里宮と神楽殿分かれて鎮座している。 |
波宇志別神社(里宮) 人皇第60代醍醐天皇の延喜年間撰上せらるる神社である。全国3132社坐の一座として延喜式神名帳に所載の古社式内社で出羽9社の一である。 ・大友氏第27代安閑天皇の随臣の裔と伝えらる大友右衛門太郎吉親第47代孝謙天皇の天平宝字元年8月15日に大和の国金峯山より安閑天皇の霊である蔵王権現を勧請したのが開基である。 ・横手城主小野寺遠江守義道の崇敬篤く神領五百石の寄進有り。 ・中世大友志摩守吉広が天和元年秋田藩社家 大頭役を命ぜらる ・正徳3年大友大隅守永貞、治部省輔福命の父子が御獄山高岳山の二社の再興を命ぜられ延喜式内社三社を三国社と称して代々三国社祠官を命ぜられる。 ・保呂羽山は断絶することなく千二百余年現在に及んでいるが他の二社は古代国家の変質乃至平安仏教浸透以降、式内社としての性格形式を失い社家も又定着することなく廃絶し又藩の勢力媒介によって復活したものである。 ・結局式内社の復活は藩権力と伝統的な権威を持った保呂羽祠神官との協力により中世以降修験の道場として庶民の信仰対象となっていた山岳信仰として復活した歴史を持つものである。 神楽殿説明 保呂羽山波宇志別神社の創立は縁起によれば奈良時代の中頃の天平宝字元年(757)と伝え、延喜式神名帳に記載される県内屈指の古社である。本殿はここから4キロメートルほど西方にある標高438mの保呂波山の山頂に鎮座する。 神楽殿はかっては弥勒堂とも本宮とも呼ばれ大友家と守屋家が両別当として永く守り伝えてきた。毎年5月8日の例祭では、湯立神楽の神子舞が行われている。 創建年代は室町の末ごろと考えられるが、太い柱や巨大な船肘木や桁など、簡素で雄大な構造は古代建築の風格がある。形式は両流造という珍しいもので、木材は主に杉を用いており、内部の柱は直径52cmもある。 屋根は杉の手割り板を用いたこけら葺きである。内部は背面寄りを三室に間仕切り、桃山時代初めの天正12年(1584)の墨書のある大規模な厨子を備えている。 この厨子の壁板は鎌倉時代初め(1200年前後)に製材された杉材を用いていることが判明し、前身の建物の木材を再利用したことが考えられる。 **** 側面の妻飾りの破風や懸魚は江戸時代初めの寛永14年(1637)修理時の形式となっている。 神楽殿は室町時代の建物として貴重なものであるが、桃山時代に鎌倉時代の木材を使用して厨子を造り加え、江戸時代に軒と屋根の改造を行っている。 しかし、その姿は平安時代風の雄大さを保っているなど、建物自体に数々の歴史的経過を秘めている。また神社は奈良時代からの由緒を持つが、ハウシワケという不思議な呼称はその起源を先史時代にまで導く響きがある。 ここは千数百年の壮大な歴史物語の空間への入り口である。 社頭掲示板 |
波宇志別神社 保呂羽山波宇志別神社の創立は縁起によれば奈良時代中ごろの天平宝宇元年(757)と伝え、延喜式神明帳に記載される県内屈指の古社である。本殿はここから4Kmほど西万にある標高438mの保呂羽山の山頂に鎮座する。 神楽殿はかつては弥靱堂とも本宮とも呼ばれ、大友家と守屋家が両別当として永く守り伝えてきた。毎年5月8日の例祭では、湯立神楽の神子舞が行われている。 建立年代は室町時代の末ごろと考えられるが、太い柱や巨大な舟肘木や桁など、簡素で雄大な構造は古代建築の風格がある。形式は両流造という珍しいもので、木材は主に杉を用いており、内部の柱は直径52cmもある。 屋根は杉の手割り板を用いたこけら葺である。内部は背面寄りを三室に間仕切り、桃山時代初めの天正12年(1584)の墨書のある大規模な厨子を備えている。 この厨子の壁板は鎌倉時代初め(1200年前後)に製材された杉材を用いていることが判明し、前身の建物の木材を再用したことが考えられる。 神楽殿は室町時代の建物として貴重なものであるが、桃山時代に鎌倉時代の木材を再用して厨子を造りくわえ、江戸時代に軒と屋根の改造を行っている。 しかし、その姿は平安時代風の雄大さを保っているなど、建物自体に数々の歴史的経過を秘めている。また神社は奈良時代からの由緒を持つが、ハウシワケという不思議な呼称はその起源を先史時代にまで導く響きがある。ここは干数百年の壮大な歴史物語の空間への入り口である。 社頭掲示板 |
波宇志別神社 かご立場 佐竹藩のおとの様は、保呂羽山の神様を深く信仰していました。 お参りに来たときは、この場所でかごをおりて、歩いて登ったと言われています。ここから山が険しくなってきます。 下居堂 昔、保呂羽山は、女の人は登ってはいけない山とされていました。そのため、女の人たちは、この下居堂で神様をお参りしたと言われています。 下居堂には辰年・巳年生まれの人の守り神がまつられています。 子守り石 昔、保呂羽山は、女の人が登ってはいけない山でした。 あるとき、子守りに夢中になった女の人が、ついつい山道に足をふみ入れてしまいました。そのため、神様のいかりにふれ、石にされたと言われています。 子どもを背負っている女の人に見えますね。 一夜盛 この周辺は、東側(右側)が佐竹藩、西側(左側)が亀田藩の領地になっており、峰を境に領地が分けられていました。 ここは、領地を広げようとした佐竹藩が、峰境に土を盛り、峰を一続きにした場所です。村人を集め、一晩で峰続きにしたという謂から「一夜盛」の名前が付けられました。 岩割りの木 その昔、岩のくぼみに落ちた小さな種は、わずかな割れ目に根をのばし、成長を続けました。それから、種は岩を割り、何百年も経て、大地にしっかりを根をはった立派なブナの木になりました。 残念なことに、二本のうちの一本は、平成十二年の大雪で折れてしまいました。 社頭掲示板 |
霜月神楽 由 来 霜月神楽は式内保呂羽山波宇志別神社に伝わる、古い神楽形式を伝えている神楽です。 霜月神楽に関する最古の記録は、天正18年(1590)5月3日大友吉継の「保呂羽山御開山以来之次第」で、この中で霜月神楽は、波宇志別神社の年中行事の一つとしてとりあげられている。また昭和52年3月には国の重要無形民俗文化財に指定されている。 時期と場所 当神楽は、戦前まで旧暦11月7、8日に行われていたが、現在では新暦の同日に行われている。神楽は歴代神官である大友家の里宮(大森町八沢木木ノ根坂)に神楽座を設け、保呂羽山・御嶽山・高岳山の神々などを勧請し、大友氏を斎主として大友氏に縁のある近郊の楽人や神子が集い、夕刻より翌朝にかけて夜を徹しおこなわれる。 神楽の内容と特色 霜月神楽はその名前のごとく霜月(11月)におこなわれる神楽であり、信濃・三河地方で現在も行われている霜月神楽・花祭と呼応し、神に収穫を感謝し、来る年への命の継承を願う波宇志別神社の重要な神事の一つである。 保呂羽山の霜月神楽は湯立神楽に属し、神楽の中で繰り返し湯加持が繰り返され、徹底した禊ぎが行われる。また神楽長をはじめ、楽人、神子の全てが、神職または社家の属する人々によって構成され、神楽が純然たる神事として執りおこなわれる。 http://www.iimachi-akita.jp/special/1997/10th/simo.html |
保呂羽山波宇志別神社 社記によると天平宝字元年8月15日創建。 延喜式内社、出羽国九座の一.旧社格県社。明治39年9月28日神饌幣帛料供進神社に指定される。 大友右衛太郎吉親が大和の金峯山より安閑天皇の御分霊を戴き御祭神とする。 この神社は昭和32年8月15日に鎮座1200年祭を執り行っている。 往古横手城主小野寺遠江守義通より神領500石の寄進あり、慶長7年佐竹義宣移封後110石寄付せられ以来国社と称し、藩内各神社の第一位に置き篤く崇敬せらる。 爾来国内水旱の難、疫病の患いある時、又幕府へ参勤の節は藩主自ら城楼に登り遥拝式を挙げ更に宗族重臣を遣わして代拝奉幣式を執行せられる。 旧藩時代の例格である。又本社は勿論下居社神楽殿神門鳥居に至る迄、その経営修繕悉く藩費を以て支弁せらる。 又代々の藩主より神鏡、神興、御獅子、直筆額面等尊崇の篤かった神社である。 神事霜月神楽は、天正18年5月3日大友右衛門太郎吉継の書き遺せる、保呂羽山開山以来之祭祀之次第により、祭式行事を行う。 昭和52年国重要無形民俗文化財に指定せられる。 尚神楽殿は室町中世の両流造りの建造物として、昭和55年国有形重要文化財に指定せらる。 秋田県神社庁 |