月山(1980m)の山頂に鎮座する。 崇峻天皇の第3皇子である蜂子皇子が推古天皇元年(593年)に羽黒山を開山し、さらに同年、月山を開山して当社を建立。 中世月山は羽黒山・湯殿山とともに出羽三山と称され、羽黒修験の霊場となつた。 出羽三山神社とは、月山頂上に月山神社、羽黒山頂に出羽神社、湯殿山の中腹に湯殿山神社が夫々鎮座されていますが、三つの神社を合わせて通称「出羽三山神社」といっています。また、月山神社と湯殿山神社は冬季の参拝が無理であることから羽黒山の出羽神社に三神を合祭し「三神合祭殿」と称し、恒例の祭典は三神社同時に合祭殿で行われます。 |
由緒 月山神社出羽神社湯殿山神社(出羽三山神社) 出羽三山神社参拝の栞 信仰の山・精霊の山・修験の山―国立公園・出羽三山 涼しさやほの三か月の羽黒山、雲の峰幾つ崩て月の山、語られぬ湯殿にぬらす袂かな、有難や雪をかほらす南谷・松尾芭蕉『おくのほそ道』其玉や羽黒にかへす法の月・芭蕉、元禄2年(1689)盛夏出羽三山登拝の折認める「天宥別当追悼句文」 日本人の源郷(げんきょう)・出羽三山は、千四百有余年の歴史と伝統をもつ我が国有数の信仰のお山であり「羽黒派古修験道(はぐろはこしゅげんどう)」の道場です。 ●出羽三山とは−出羽国(でわのくに)(山形県など)にある月山(標高1984m)、湯殿山(同1504m)、羽黒山(同414m)の三つのお山の総称で、三の数字は古来“聖数”とされ全国にその例は数多(あまた)あります。 ●出羽三山神社(でわさんやまじんじゃ)とは−月山頂上に月山神社、羽黒山頂に出羽(いでは)神社、湯殿山の中腹に湯殿山神社が夫々鎮座(ちんざ)されていますが、三つの神社を合わせて通称「出羽三山神社」といっています。また、月山神社と湯殿山神社は冬季の参拝が無理であることから羽黒山の出羽神社に三神を合祭し「三神合祭殿(さんじんごうさいでん)」と称し、恒例の祭典は三神社同時に合祭殿で行われます。 ●三山神社の御祭神は−月山神社は天照大御神(あまてらすおおみかみ)の御弟神であられる月読命(月読みの命)、出羽神社は出羽国の国魂(くにたま)であります伊弖波神(いではのかみ)と稲倉魂命(うかのみたまのみこと)、湯殿山神社は大山祇命(おほやまつみのみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)、少彦名命(すくなひこなのみこと)を祀っています。他に広大な神社境内には、百一末社(まっしゃ)と総称される神々の社(やしろ)があって八百万(やおよろず)の神々が祀られています。 ●御開山の年と御開祖は−今を去る千四百余年前の推古天皇元年(593)に、第32代崇峻天皇の皇子・蜂子皇子が、奈良の都からはるばる日本海を北上しこの地においでになり三本足の霊烏(れうう)の導きにより羽黒山を御開山され、次いで月山と湯殿山を開かれました。当社では蜂子皇子を「御開祖」と敬仰(けいぎょう)し、平成5年(1993)が開山の年から数えて1400年に当ることから盛大に「御開山1400年祭」を執り行い、年間を通してさまざまな奉祝記念行事や事業を行いました。 ●出羽三山神社の歴史と信仰は−御開山千四百余年、という類稀(たぐいまれ)な永い歴史と伝統をもつお山だけに時代によりさまざまな変遷がありました。そもそも出羽三山神社は自然崇拝、山岳信仰の“古神道”から発した神社ですが、平安時代の初め仏教の強い影響を受けて「神仏習合(しゅうごう)」し、明治維新の「神仏分離(しんぶつぶんり)・廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」まで真言宗、天台宗など多くの宗派によって奉仕され鎌倉時代には「八宗兼学(はっしゅうけんがく)のやま」とも称されました。その為出羽三山信仰は他に例を見ない“多様にして限りなく深い信仰世界”を今に育(はぐく)み、「東(ひがし)三十三ケ国総鎮護」として篤く尊崇(そんすう)されています。 主な参拝所と見どころ ●羽黒山−特別天然記念物・羽黒山表山道(2446段の石坂)杉並木(1.7Km)/須賀滝(すがのたき)/天然記念物・爺杉(じじすぎ)/国宝・羽黒山五重塔/史蹟・南谷(みなみだに)(芭蕉逗留地)/斎館(さいかん)(茶室など)/蜂子神社/三神合祭殿と鏡池(かがみいけ)/羽黒山霊祭殿/重要文化財・建治の大鐘/御開祖・蜂子皇子墓/天宥社(てんゆうしゃ)/出羽三山歴史博物館(羽黒鏡、芭蕉資料、出羽三山資料など多数。4月下旬〜一月23日まで。有料)/吹越(ふきごし)神社と吹越篭堂(こもりどう)(山伏修業) ●月山(7月1日〜9月中旬)−月山中宮(なかのみや)/東補陀落(ひがしふだらく)/御浜池(おはまいけ)/仏生池(ぶすいけ)/行者返し(ぎょうじゃがえし)/塞の河原(さいのかわら)/月山神社本宮(御室)(おむろ)/月山神饌池(しんせんいけ)/月山一帯の高山植物群落(お花畑) ●湯殿山(4月下旬〜11月上旬)−湯殿山神社本宮大鳥居(仙人沢)/行人塚(ぎょうにんづか)/仙人沢参篭所(せんにんざわさんろうじょ)/御沢掛け(おさわがけ)(巡拝)/御滝神社/湯殿山神社本宮巡拝/齋藤茂吉歌碑/湯殿山月光坂(がっこうざか) 俳聖・芭蕉と出羽三山 元禄2年(1689)盛夏、俳聖・松尾芭蕉は「奥の細道」行脚(あんぎゃ)の途次(とじ)、羽黒山南谷(みなみだに)などに七泊し出羽三山を登拝して念願の“奥詣で(おくもうで)”をはたされ、山内で蕉風の真髄・「不易流行」説を感得(かんとく)しました。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
出羽三山 出羽三山の沿革【悠久の歴史に育まれた限りなく深い信仰】 出羽三山とは、山形県(出羽国)にある月山、羽黒山、湯殿山の三つの山の総称です。 月山神社は、天照大神の弟神の月読命(つきよみのみこと)を、出羽神社は出羽国の国魂である伊氏波神(いではのかみ)と稲倉魂命(うかのみたのみこと)の二神を、湯殿山神社は大山祗命(おほやまつみのみこと)、大己貴命(おほなむちのみこと)、少彦名命(すくなひこなのみこと)の三神を祀っています。月山と湯殿山は冬季の参拝が不可能であることから、羽黒山頂に三山の神々を合祭しています。また広大な山内には百八末社といわれる社があって、八百万(やおろず)の神々が祀られています。 出羽三山は元来、日本古来の自然崇拝の山岳信仰に、仏教・道教・儒教などが習合に成立した「修験道」のお山でした。それ故、明治維新までは仏教の、真言宗、天台宗など多くの宗派によって奉仕され、鎌倉時代には「八宗兼学の山」とも称されました。悠久の歴史の中で幾多の変還を重ねながら、多様にして限りなく深い信仰を形成し、「東三十三ヶ国総鎮護」として、人々の広く篤い信仰に支えられて現在に至っています。 「式内社」で、「官・国弊社」の出羽三山神社 よく識られているように、神社にはかつて、崇敬上の規準、待遇上の序位などから、国、または公的機関が定めた“社格”があった。 特に明治政府によって行われた「神仏分離政策」以後、昭和21年(1946)2月1日まで護持された“国家神道”下では、月山神社が「官幣大社」に、出羽神社と湯殿山神社がそれぞれ「国幣小社」に列格された歴史がある。 しかし、昭和21年(1946)2月3日に発令された『国家神道廃止命令』によって、実質、出羽三山神社は“官・国幣”の社格はもちろん、国家管理を離れ、一宗教法人として新しく出発したのである。 しかし、長い期間庶民の間に培われてきた出羽三山神社の大神に対する崇敬の念にはいささかも変化はなく、御神威はいよいよもって高まってきている。 また、これより先「月山神」は、社格制度が集大成されたとされる『延喜式』(平安時代中期、醍醐天皇の命により律令の施行細則をまとめたもの。50巻。延喜5年・905年に編纂開始、927年完成)の「神名帳」(延喜7年)に、庄内地方の大物忌神(鳥海山)、由豆佐売神(鶴岡市湯田川)等ともども、出羽国の“名神大社”として登載されている。 また、伊氏波神(出羽神社)は“名神小社”として初めて「史書」に登場する。 後世これを「式内社」と称し、一つの社格“古社”の証にしている。 また、「六国史」の第六番目の史書『三代実録』(宇多天皇の勅撰史書)等によれば「月山神」は、朝廷からたびたび位階勲等を賜っている。 ※例えば ●貞観6年2月(864)_____従三位、勲五等 ●貞観18年8月(876)____正三位 ●元慶元年7月(877)_____封二戸増し四戸 ●元慶元年8月(877)_____勲四等 ●元慶4年2月(880)_____従二位、勲三等 ●延喜7年(907)________名神大社 と、いうように、およそ17年間にこれだけの神の等級を進められたのである。このことは、いかに朝廷が「月山神」(月山神社)を篤く崇敬されたかを識る上で貴重な記事であるが、それはとりもなおさず当地方の民衆の崇敬の念の深さを繁栄しているといってよい。もちろん各種の「史書」は記述しているように、当時の庄内地方の社会は、政治的事情と深く関わっているということは言うまでもないことである。 公式HP |