麻底良山(295m)の山頂に鎮座する。 日本書紀齊明天皇7年5月9日に「天皇が朝倉の宮に移られた時、朝倉の社の木を切ってこの宮を建てた。そのため雷神が怒って御殿を壊した。」とある。この場合朝倉の宮は現下社付近にあったとする説がある あるいは山上に落下した雷神を奉齋することに始まるとも云う。 |
麻氐良布神社 笹尾・政所~由緒ある麻氐良布神社と神霊的遷座祭~ 平安時代に廷喜式神名帳という本が出来た。その中に,「上座郡麻氐良布神社小一座」と記載されている。時代は下がって、打ち続く戦乱時代に、社地は没収され、社殿も荒廃を極めたが、慶長5年(1600年)に栗山備後利安が祭田を寄進し、続いて鎌田昌生が郡主となった元禄年間(1688~1703年)に本殿、拝殿を建てたとある。その後、明治、大正、昭和と代わるにつれ、人里離れた山頂にあるため、荒れるに任せ、辛うじて3月15日の祭礼だけが続けられていた。平成10年に、社殿の屋根が相当傷んていたので神殿を銅板に拝殿を瓦にふき替えている。その時、不思議な出来事が起きている、同年4月21日、御神体を宝満宮にお移しする時、当日は、曇リ空で小雨がパラつく程度てあったが、御神体を運び出そうとした時、山鳴りがしたり、同年8月27日、御神体を宝満宮からお移しし、祠にお収めした時、「ボーン、ボーン」と云う誠に気持ちのよい明るい音を聞き、参列者は、神様も安堵されたのかなと感じ入った次第である。 平成19年3月 志波地域コミュニティ協議会 社頭掲示板 |
麻底良布神社 鎮坐の年月詳ならねど、陽成天皇元慶元年9月25日、從五位下眞天良神に從五位上を授けられたる事、三代實録に見え、同3年9月27旧正五位下に叙せられ、翌4年6月3日正五位上に進められたる事、亦同書に見ゆ、以て当社の往古より尊崇せられたりしを知るべし、醍醐天皇延喜の制式の小社に列せらる、其後後奈良天皇天文4年、太宰大戴大内伊予介宝幣献進の事あり(寄進状現存す)維新前ば神官両家を置き、一は社僧にて普門院と称せしが、維新と共に社僧は廃せらる、明治5年郷社に列す、祭神は伊弊冉命、相殿に伊弊諾命、齊明天皇、天智天皇、明日香皇子(天智天皇の御子)なりとの説もあれど、今社伝及び続風土記、神社考証、三才図会等に拠りて採らず、又当社中世一度衰頽せしと見え、神社志に「麻氐良布神社、古の社は頽破し、雨露神床をおかしけるを、当郡の司官鎌田氏昌生、元禄年中神社、拝殿、鳥居等新に造営ありと記されたるを以て知らる。 猶当社を日本書紀現在の朝倉神社なるぺしとの説をなすものあり、されど未だ確説なし。 社殿は、本殿、渡殿、拝殿等を備へ、境内219坪(官有地第一種)古来よりの社地にして南に向へり、東志波山の西北、麻氐良山上にありて秀麗の地なり。 明治神社誌料 |