住吉神社
すみよしじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】住吉神社3座(並名神大) 筑前国 那珂郡鎮座

   【現社名】住吉神社
   【住所】福岡県福岡市博多区住吉3-1-51
       北緯33度35分9秒、東経130度24分50秒
   【祭神】底筒男命 中筒男命 表筒男命 (配祀)天照大御神 息長足姫命
   【例祭】10月12日 例大祭
   【社格】旧官幣小社 筑前国一宮
   【由緒】天平3年(731)『住吉大社神代記』に記載
       天平9年(737)4月筑紫住吉社に奉幣(続日本紀)
       大同元年(806)神対三十六戸充奉『新抄格勅符抄』
       貞観元年(859)従五位下(三代実録)
       元慶2年(878)奉幣(三代実録)
       寛弘2年(1005)大宰大武藤原高遠参詣和歌を奉詠
       寛仁元年(1017)奉幣『左経記』
       元永2年(1119)造営
       元和9年(1623)造営
       天和3年(1683)祭田三十石寄進
       明治5年県社
       大正4年官幣小社

   【関係氏族】
   【鎮座地】古来この地に鎮座
        那珂郡仲村に鎮座する現人神社を旧地とする説がある

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【公式HP】 住吉神社
   【社殿】本殿住吉造檜皮葺
       重要文化財(大正11年4月13日指定)
       拝殿・神楽殿・神門・手水舎・社務所

   【境内社】船玉神社・志賀神社・少彦名神社・菅原神社・稲荷神社
        人丸神社・天津神社・住吉三日恵比須神社

   【境内図】 境内図
   【境内古図】 博多古図

日本書紀の第六の一書に、黄泉より還つた伊弉諾尊が日向小戸橘檍原で祓除をされて生じた神の中に底筒男命・中筒男命・表筒男命の三神がある。
当地が筑紫日向の橘小戸の檍原の古蹟でもあるとして、当社が住吉本社又日本第一住吉宮と説いている。
古代この地は入り江に突き出た岬の上であった。


由緒

住吉三神は遠い神代の昔に、伊弉諾大神が筑紫の日向の橘の小戸の阿波伎原でミソギハラへ(禊祓)をされた時に、志賀島神社の御祭神・ワタツミ三神と警固神社の御祭神・直毘の神と共に御出現になりました。したがって当社の御鎮座は遠い神代のことで、年代を定めることは出来ませんが、全国的にも九州でも最も古いお宮様の一つです。住吉大神をお祀りする神社が全国に2129社ありますが、当社は住吉の最初の神社で、古書にも当社のことを「住吉本社」「日本第一住吉」などと記されております。また、平安時代に全国各地に「一の宮」が定められましたが、当社は筑前の一の宮として朝野の厚い崇敬をうけました。約1800年前、神功皇后の三韓への御渡航に際し、住吉大神の荒魂は水軍をお導きになり、和魂は胎中天皇と申し上げた応神天皇の玉体をお守りになり、刃を用いずして御帰還遊ばすことが出来ました。よって皇后は住吉三神の御神徳を厚く敬迎感謝され、新羅の都に国の鎮護として住吉大神をお祀りになり、また摂津(大阪)、長門(山口)、壱岐に住吉神社を御創建になりました。住吉大神のご神徳は、その御出現の由来に拝しますように、「ミソギハラヘ」の御霊徳によってわれわれに心身の清浄を保たしめ給い、そしてそれにより生ずる「開運と光明」をお恵みになるのであります。更に、応神天皇の御代から国運大いに開けたこともあり住吉大神は文教、殖産、興業、開運、安産、予言、の神として信仰されております。またツツノオ(筒男)のツツには星の意味があると言われ、筒男三神は航海安全、船舶守護にその神威をあらわされ、海運・漁業者の崇敬が極めて厚く「住吉丸」と名づけた船が多いのもそのためであります。このように御神徳が広大でありますので、当社への朝廷の御崇敬はとくに篤く、神功皇后の勅祭(10月13日の例祭の起源)に始まり、聖武、清和、陽成、後一条、鳥羽、後花園の各天皇が奉幣あらせられ大正天皇は三度、昭和天皇は五度の奉幣がありました。また当社は諸武将の崇敬も厚く、楠正成、源頼朝、足利尊氏は祈願文、寄進状を寄せ、一時は自国・他国を合わせ神領三千余町(ha)歩、神人300余人に及んだと伝えられます。江戸時代に入っては、黒田藩祖長政以来歴代藩主の崇敬は殊に篤いものがありました。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




住吉神社

御祭神
当住吉神社は底筒男神 中筒男神 表筒男神の住吉三神を祭神とし、相殿に天照皇大神神功皇后を配祀します。
これを住吉五所大神とも申します。
御由緒
住吉三神は遠い神代の昔に、伊弊諾大神が筑紫の日向の橘の小戸の阿波伎原でミソギハラヘ(禊祓)をされた時に、志賀海神社の御祭神・ワタツミ三神と警固神社の御祭神・直毘の神と共に御出現になりました。したがって当社の御鎮座は遠い遠い神代のことで、年代を定めることは出来ませんが、全国的にも九州でも最も古いお宮様の一つです。
住吉大神をお祀りする神社が全国に2129社ありますが、当社は住吉の最初の神社で、古書にも当社のことを「住吉本社」「日本第一住吉宮」などと記されております。
また、平安時代に全国各地に「一の宮」が定められましたが、当社は筑前の一の宮として朝野の厚い崇敬をうけました。
約1800年前、神功皇后の三韓への御渡航に際し、住吉大神の荒魂は水軍をお導きになり、和魂は胎中天皇と申し上げた応神天皇の玉体をお守りになり、刃を用いずして御帰還遊ばすことが出来ました。よって皇后は住吉三神の御神徳を厚く敬仰感謝され、新羅の都に国の鎮護として住吉大神をお祀りになり、また摂津(大阪)、長門(山口)、壱岐に住吉神社を御創建になりました。
住吉大神のご神徳は、その御出現の由来に拝しますように、「ミソギハラヘ」の御霊徳によってわれわれに心身の清浄を保たしめ絵い、そしてそれにより生ずる「開運と光明」をお恵みになるのであります。更に、応神天皇の御代から国運大いに開けたこともあり、住吉大神は文教、殖産、興業、開運、安産、予言の神として信仰されております。またツッノォ(筒男)のツツには星の意味があると言われ、筒男三神は航海安全、船舶守護にその神威をあらわされ、海運・漁業者の崇敬が極めて厚く「住吉丸」と名づけた船の多いのもそのためであります。
このように御神徳が広大でありますので、当社への朝廷の御崇敬はとくに篤く、神功皇后の勅祭(十月十三日の例祭の起源)に始まり、聖武、清和、陽成、後一条、鳥羽、.後花園の各天皇が奉幣あらせられ大正天皇は三度、今上天皇は五度の奉幣がありました。
また当社は諸武将の崇敬も厚く、楠正成、源頼朝、足利尊氏は祈願文、寄進状を寄せ、一時は自国・他国を合わせ神領三千余町(ha)歩、神人三百余人に及んだと伝えられます。江戸時代に入っては、黒田藩祖長政以来歴代藩主の崇敬は殊に篤いものがありました。
所在
現在、当社は背振山系に水源を発し、福岡平野を潤おして博多湾に注ぐ那珂川の下流、福岡市街地の中心にあって緑の木立にかこまれた参道や境内は市民の安らぎの場所となっております。
中世の状態を描いた当社所蔵の博多古図では、海は深く湾入しその入江に突き出た岬に当社があります。古来より大陸交通の要衝であった灘の津の中心に、この地の総氏神で航海、船舶の守護神であらせられる筒男三神が鎮座されていることは、まことにふさわしいことと申せましょう。
祭典
●例祭〈10月13日〉神功皇后が三韓より御帰還されて、住吉大神の御神徳に奉賛されようとその御神慮をうかがわれたところ、「相撲と流鏑馬」との仰せがありましたので、皇后は軍士に力競べをさせられました。このことが起源となって、例祭のこと
を「相撲会祭」とも申し、昔からこの地方の最も権威ある宮相撲となり、江戸期から現代に至るまで特設の桟敷が設けられ大変盛大な催しでありました。新横綱は戦前までは横綱の免許を受けに熊本の吉田司家に行った帰路、必ず当社に参拝をして居りました。また例祭で御祭神は博多の浮殿へ御巡幸されましたが、その際、朝御饌を奉った所を「御供所」、流鏑馬を行った所を「馬場」と言って、町名として残っています。 ●追儺祭〈一月七日〉皇室、国家の繁栄をお祈りする祭りで、夜間には鬼すべ、うそ替の行事があり、その昔、鬼をしぱりつけたという石柱が本殿前にあります。
●御田祭〈3月7日〉祈年祭とも申し、五穀の豊穣を祈る祭りで、播種神事と大神楽が行われます。
●潮干察〈4月3日〉航海の平安、豊漁、船舶の安全をお祈りする祭りです。
●夏越祭〈7月30日〜8月1日〉御祭神の御出生と関連の深い昔の「六月大抜」で、茅の輪くぐり、人形流しの神事があります。また、毎日子供神輿が各町を練り回り賑わいます。
●早穂祭〈9月4日〉初穂を奉り、五穀豊穣を祈念します。
●歩射祭〈11月7日〉後陽成天皇の奉幣に始まり、国家の鎮護と海内の平穏をお祈りします。社前では礼射が行われます。
神職は横田氏を以て代々宮司とします。佐伯氏の一家で、その一族は源頼朝の身辺にあって源氏の武家政治の樹立について功のあったことが『吾妻鏡』に見えます。
〉社殿
元永2年(1119年)当社の遷宮について朝廷で佼座のあったことが『中右記』に見え、この時、社殿の改造があったことがうかがえます。元和9年(1623年)黒田長政公は白銀二千両と材木を寄進して社殿を再建し、六代光之公も社殿を修理されました。
国宝「蒙古襲来絵詞」には朱塗りの当社の鳥居が描かれ、その場所に延享年中には石鳥居が建立されましたが、最近の交通事情から南参道に移されました。
本殿間口二間奥行き四間住吉造り桧皮葺き(国指定重要文化財) 拝殿入母屋造り銅板葦き25坪〉
境内地
総面積8107坪。次のようなものがあります。
●神木一夜松社殿の左手にあり、永享のころ社殿にさしかかった松が造営の那魔になるので、切ろうとしたところ一夜のうちに真っすぐになりました。このことが天聴に達して後花園天皇は勅撰松花和歌集十二巻を奉納されました。そのうちの五の巻(恋の巻)が現存しています。惜しいことにこの松はま昭和初期に枯死しましたが、文明12年(1480年)連歌師飯尾宗祇は当社に参拝、この松に次の歌を寄せました。神垣の松にぞたのむ言の葉も すぐなる道に立ちやなほると
●功徳池南参道にあり。昔は放生会の神事が行われました。
●天竜池表参道と那珂川の間にあり。`以前は満潮時川をさかのぼった海水がこの池に達していましたので、一名汐入池とも呼ばれ伊弊諸大神のミソギハラヘの霊池と伝えられます。
●摂社
船玉神社(猿田彦命)遣の守護神。
志賀神社(綿津見三神)油洋の守護神。
●末社
少彦名神社(少彦名命)薬祖神、淡島様、酒造様、神農様などと称し、薬業者、酒造家、医師、病人等の信仰する者が多い。
稲荷神社(宇賀乃魂)荒熊様とも称し、商家、生産業者の信仰が厚く、この神に願をかければ諸願通ぜぬはなしとされる。
恵比須神社航海、漁業、幸運の神。
天満宮(菅原道真)学問の神。
人丸神社(柿本人麿)和歌の神。
天津神社(伊拝諾大神)天竜池の中にある亀島に祀られてあり、縁結び、開運、除災の神。
神宝
天文20年(1551年)、応仁の乱により荒廃した社殿の造営を依頼しようと、伝来の宝物を持たせて山口の大内義隆のもとに遣して説かせたところ、義隆は快諾したが陶晴賢の反乱に遭い、義隆は自刃。神官二名も義隆一旦の恩義に感じ出陣して戦死し持参の神宝も散迭しました。
現存する主なものは、社殿(住吉造り=国指定重要文化財)、銅剣・鋼文十一口(県文化財)、勅撰松花和歌集一巻、博多古図、住吉大明神御縁起、古文書類などがあります。

由緒書



住吉神社

祭神 底筒男命、中筒男命、表筒男命
例祭 10月13日
 社地は昔の那の津の川口にあり、社前の池はその川口の名残である。
 この社はもと筑前国一の宮で、全国二千社をこえる住吉神社の宗社である。昔から御祭神は、伊弉諾尊の禊祓の伝説から、厄除、開運や航海安全の神として知られ、漁業関係者等の信仰があつく、「住吉丸」という船の多い事もそのためである。
 現在の本殿は、筑前国黒田長政が元和9年(西暦1623年)に再建したもので、仏教渡来前の古代建築様式を伝える「住吉造」として国の重要文化財に指定されており、檜皮葺きで直線型の独特の屋根である。
 なお、夏越祭(7月30日、31日)、相撲会(10月12日、13日)、歩射祭(11月7日)の神事がある。
 なお神社の東北隅に康正年間(西暦1455年〜56年)京都東福寺の書記正徹禅師が筑前に下り、この地に愛着をもって松月庵を建て滴露水という井戸を掘って茶道を楽しんだ跡がある。
あまさかるひなも都もすみよしと
おもうところそすみよしの里  正徹

社頭掲示板






住吉神社

博多古図解説 この博多古図は当住吉神社蔵の絵馬で鎌倉時代に描かれたものを江戸時代に筆写し明治になって奉納されたものであります。
西公園は古くから「荒津山」といい現在の荒戸の地名は荒津の変化したものと云われ「草香江」は現在の大濠公園や草香江の地名に当時の面影を留めています。また「神の湊」は平清盛が築いたものと云われ対中国貿易の重要な港で今の呉服町付近にあたります。
この時代では天神・中州はもちろん博多の大部分はまだ海中にあったことになります。

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