住吉神社
すみよしじんじゃ


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【由緒】

当社は延喜式神名帳に「那珂郡住吉神社三座名神大」とありて、日本紀私記に「此神荒魂者猶在筑紫、但和魂独在墨江耳案神功皇后紀云、元年三月皇后親爲神主、於是審神者曰、今不答而更後有言乎、則対曰、於日向国橘小門之水底、所底而水葉稚之出居神、名表筒男、中筒男、底筒男神之有也、時得神語随教而祭、然則此神本在筑前小戸、即神功皇后初遷居於摂津墨江耳」とあり、(筑前小戸とあるは誤なるべく、初めより日向国にませしが、神功皇后の御時顕はれ給ひて功をなし給へるによりて、筑前にも祭給へることと説くべきなり)、又続日本紀に、天平9年4月乙巳、遺使於云云筑紫佳吉八幡二社及香椎宮奉幣、以告新羅無礼之状と見え、三代實録に「貞観元年正月27日、奉授筑前國無位住吉神從五位下」とあるによる時は、當社の古社にして、朝廷の崇敬淺からざりしを知るに足る、社領に就ては、源頼朝深く此の社を信仰し.神領等の寄附あり、建武3年には尊氏九州下向の時寄進の義あり、右の文書當社に存せり「寄進筑前國一宮豊前國河崎庄地、右此度之義兵遂本望祈天下之安寧家門繁昌、所寄進如件、建武3年4月8日」とあり、文中に一宮とあるは、今は箱崎宮を云ふ、蓋しこの社を云ひしものなるべし、其他烏羽天皇永久4年、及び後醍醐天皇建武4年、後村上天皇貞和7年等に、各神領を寄進せられたり、當時の文書今尚保存すと云ふ、されば上古は、宮殿等頗る壮観を極めたる大社なりしなるべし、されど嘉吉応仁間の兵乱に遭ひて、全く荒廃するに至りぬ、そは文明2年宗祇法師の筑紫下向の時の文に「住吉の楼門破れ社殿亦全からず、社中を廻り見れば、大木の松、齋垣して故有と見ゆるなり云々」とあるにてしられ、また福岡郷土誌中に「神田あり、世々同村字川口住横田家の領する所たり、世に横田領と称し、今尚横田と名づく、又天文の比、佐伯の宗能、秦の正道と云もの、住古宮殿の破損を歎じ、造営を主唱し、山口に行き云々」と見えたり、又當社祭礼頗る賑はしく、神輿渡御、流鏑馬等あり、祠官百五十余人と記録に見ゆ、尚當社の事に就ては、筑前続風土記等に委しくものせられたり、かくて明治5年11月縣社に列す。
社殿は本殿、渡殿、拝殿、瑞門、楼門、髪門、御炊門、社務所を備へ、境内4380坪官有地第一種を有す、社内に老松あり、住吉の松とて古來著名のものたり。
特有の祭事として、正月7日鬼平と唱へ、人を搦めて、鬼と號けて追討つ神事ありしも今に絶えたり。

明治神社誌料



【由緒】

住吉神社 (すみよしじんじゃ)福岡市博多区住吉。
旧官幣小社(現、別表神社)。底筒男命・中筒男命・表筒男命を主神とし天照皇大神・神功皇后を配祀している。当社は、祭神の筒男三神ととも出現した綿津見三神を祀る志賀海神社と博多湾をはさんで相対時する北九州の古社である。『続日本紀』天平9年(727)4月1日の条には、使いを遣わして、幣を奉り、新羅の無礼の状を告げたと見えており、古い時代より朝廷からの崇敬に預かった神社である。また『三代実録』によれば、貞観元年(859)正月17日には従五位下が授けられ、元慶11年(878)12月24日には使が太宰府に向けられ、当社にも奉幣が行われている。延喜の制に至り、名神大社に列して祈年の国幣に預かった。
のち筑前国一の宮と称され、武家時代になると、源頼朝や足利尊氏等、武将の崇敬が寄せられた。また神仏習合によって、社運の隆盛した時期には、年中七〇余度の祭事が行われ、殷賑を極めたという。社領は、自国・他国をわ合せ3000余町も有していたといわれている。室町時代、打続く戦乱により社運衰え、社領は没収され、神官社僧は離散、戦国の時代も末になると、社殿も仮殿となり、その奉仕は村民の手に委ねられていたという。江戸時代になって、黒田長政が福岡城を治めるようになると、社殿の再興も行われ、黒田忠之はこれを修理し、黒田光之は、社領三〇石を寄せた。
黒田長政による社殿の再興とともに神宮寺たる圓福寺も再興され、その後本地堂の建立も行われた。明治5年(1872)県社に列し、大正4年(1915)11月10日、官幣小社に昇格した。丹塗で住吉造の本殿は、重要文化財の指定を受けている。例祭10月13日。この他、3月7日に御田祭が行われ、播種神事大神楽が奉奏される。10月12、13日に流鏑馬及び相撲神事、7月30、31日に夏越祭、11月7日に歩射祭が行われる。

神社辞典






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