社伝によれば御鎮座は仁徳天皇55年(367)または78年(390)といわれ、覆中天皇元年(400)に御社殿を建てて祀ったとある。 鎌倉時代まで御造営はすべて勅裁によって行なわれ、筑後国一ノ宮・九州総社・鎮西十一ヶ国の宗廟と称えられた。 中世、一山は、座主と大宮司と大祝の三つが中心となつて、運営されていた。寺坊の発達から、衆徒の数が多く、したがつて、座主が全山を総支配していた。 有名な古代山城跡の神寵石は、現在、社殿の背後から南側をめぐり西裾にわたつて1500mを追究出来る。『高良記』などでは、この列石を「八葉石」とよび、「神籠石」とはこの列石内にある高良神の馬のつめかたと称するくぼみのある一個の大石をさした。現在、「馬蹄石」とよばれる。その後、混乱を生じて列石をも「神籠石」と称するようになつた。神籠石の名称の発祥地である。 |
由緒 高良の大神は、悠久の昔から筑後川の流域に生活してきた人々が、その生活守護の大神様として奉斎して参りました筑後国の一の宮であります。 御社殿創建は履中天皇元年で、西暦四00年と伝えています。また、朝廷の御尊崇も篤く国幣大社に列せられ、古くは式内名神大社として勅使の御参向を得て祭礼が行われた。勅定によって御神幸も始められました。 江戸末期までは神仏習合の思想のもと、天台の僧徒多数奉仕し、山内に26ケ寺360坊もあったということです。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
高良大社 ご祭神(三座) 高良玉垂命(こうらたまたれのみこと) 八幡大神(はちまんおおかみ) 住吉大神(すみよしおおかみ) 古くから筑後の国そのものである国魂(くにたま)として、人々の衣食住にわたる生活全般をお守り下さるとともに、芸能・延命長寿・厄除けの神さまとして、厚く信仰されてきました。 村ごとに神剣を奉戴して悪霊を祓う「お杖さん」の信仰や、6月の川渡祭(かわたりさい 通称へこかきまつり)に厄除け・延命長寿のご霊験のあらたかさをうかがうことができます。 近年は、家内安全・商売繁盛や交通安全などの信仰もさかんとなっています。 高良大社は、古くは「高良玉垂宮(こうらたまたれぐう)」と呼ばれました。歴代皇室のご尊崇があつく、嵯峨天皇の弘仁9年(816)11月、名神に列し、貞観11年(869)3月従一位、宇多天皇の寛平9年(897)には正一位を授与されました。 鎌倉時代までご造営はすべて勅裁によって行われ、筑後国一の宮・九州総社・鎮西十一ヶ国の宗廟と称えられました。 文永・弘安の蒙古来襲には勅使が参向され、蒙古調伏なるや叡感あって「天下の天下たるは、高良の高良たるが故なり」との論旨をたまわったと伝えられます。 また10月の大祭には太宰府から勅使がたち、九州九ヶ国の国司・郡司が参集して奉仕するを例としました。 南北朝争乱の時代にも、小弐・菊池・大友・島津の九州四大豪族が「四頭(しとう)」に任ぜられ、交代で祭事を執り行っていました。 御神幸祭は称徳天皇の神護景雲元年(767)10月、勅裁によって始められましたが、中世には当社に属する侍120名、国侍36名、その他筑後一円の神職、社人はもとより、商工業者・村役人・武士団・芸能者など供奉の者1000余名という盛儀になりました。 その後戦国の争乱で荒廃しましたが、江戸時代になると歴代久留米藩主の崇敬を受け、第二代有馬忠頼(ただより)公は山下の石造大鳥居、第三代有馬頼利(よりとし)公は現在の御社殿、第七代頼ゆき(りっしんべんに童)公は中門・透塀をそれぞれ造営寄進しました。 また江戸時代の中期寛政4年から50年に一度の祭礼として「御神期祭(ごじんきさい)」が盛大に執り行われ今日に続いています。 近代では、明治4年国幣中社に、大正4年には国幣大社に昇格しました。大東亜戦争後、昭和40年に地上六階の高良会館が竣工し、51年には御社殿解体修理工事が完了、諸施設も整いつつあり、御神威はいよいよ盛んとなっています。 石造大鳥居(重要文化財) 公式HP(旧) |
高良大社 御由緒 御祭神 左殿 八幡大神 正殿 高良玉垂命 右殿 住吉大神 御神徳 延命長寿・開運厄除 家内安全・商売繁盛など生活万般 御由緒 高良の大神は、悠久の昔から筑後川の流域に生活してきた人々が、その生活守護の大神様として奉持して参りました筑後国一の宮であります。御社殿御創建は履中天皇元年で西暦400年と伝えています。また、朝廷の御尊崇も篤く国幣大社に列せられ、古くは式内明神大社として勅使の御参向も始められました。江戸末期までは、神仏習合の思考のもと天台の僧徒多数奉仕し、山内に26ヶ寺360坊もあったということです。 国指定重要文化財 建造物 御本殿・拝殿(権現造・万治3年・西暦1660) 石造大鳥居(明神鳥居) 史跡 高良山神籠石 書跡 紙本墨書・平家物語(覚一本) 天然記念物 高良山モウソウキンメイチク林 福岡県指定文化財 高良大社所蔵文書一件、絹本着色高良大社縁起他 天然記念物 境内大樟 社頭掲示板 |
高良大社 御由緒 「延喜式神名帳」所載、筑後国大小四座のうちの一社で、いわゆる「式内」の古社である。天慶7年(944)の『筑後国内神名帳』には、「正五位下伊勢天照名神」とも見える。伝えるところによれば、桓武天皇の延暦3年(784)9月、国司藤原易興の受奏によって、伊勢国山田原(宇治山田、現伊勢市)より遷座、神貢57束が奉られたという。即ち筑後における最も由緒正しい皇大神宮(内宮)の分祀である。建仁元年(1201)の文書には、単に「伊勢社」とあり、室町時代末の『高良社画縁起』では、山麓大鳥居の北(現御井小学校正門付近)に「伊勢」の小祠が描かれているが、明和4年(1767)の府中大火を機として、現在地に遷座された。同年以降、毎年7月23・4の両日には「灯篭賑」が行われ、参詣者が群集したという。左右の境内社(八幡宮・天満宮)も、古くから山内に祀られていたものを、ここの遷したのである。 御祭日 11月13日(摂末社例祭) 高 良 大 社 社頭掲示板 |
高良大社 高良大社奥宮(奥の院) 古くは「高良廟」「御神廟」と称し、高良の神である武内宿祢の葬所と伝えられていた。高良山信仰の原点ともいうべき聖地である。付近の地名を「別墅(所)」といい、白鳳7年(678)開山隆慶上人が、毘沙門天(高良の神の本地)を感見して毘沙門堂を建て、天竺国無熱池の水の法力で招き寄せたのが、この清水であるという。 鎌倉時代の貞永元年(1232)には、惣地頭代刑部丞中原為則なる者が、五重の石塔をここに造立供養したというが、現存しない。次いで南北朝時代には、征西将軍宮懐良親王の御在所となったとの説もある。 中世末の記録によれば、ここには戒壇が設けられていたとある。恐らく現存の石積の壇を指すのであろう。壇上には室町時代の石造宝塔が立つ。 江戸時代の中頃、山中の極楽寺を再興した僧即心は、晩年ここに籠って念仏修行したという。 明治初年の神仏分離により、毘沙門堂は「水分神社」と改められたが、「あらゆる願い事を叶えてくださる神様」として、高良大社の数ある末社の中でも、今日特に厚い信仰を集めている。 高良大社社務所 社頭掲示板 |