全国神社約11万社のなかで、40600余社の八幡神社の総本社である。 本殿は小高い丘陵の小椋山(亀山)山頂に鎮座する上宮とその山麓に鎮座する下宮とからなり、その周りに社殿が広がっている。 綾幡郷の「矢幡八幡宮」が創祀の地であり、辛島勝が司祭していたと考えられる。まもなくヤハタ神は宇佐に入り、宇佐神と合体したときの事が神話化し、菱形池のお鍛冶場の神話になつたのであろう。その後八幡神のもつ仏教の問題に関蓮して大神比義が大和から入つて応神天皇の神霊と融合させたのであろう。その後官社として創立したのが、和銅5年(712)の鷹居瀬社で、その後小山田社に移り、さらに神亀2年(715)現在地小倉山の頂きに社殿造営した。 奈良朝末期に十年間現境内地東の大尾山に遷座したことがあるが、その後小倉山に帰座して、現在まで続いている。 社伝は西の方から一之御殿、二之御殿、三之御殿といい、建立の年は、それぞれ、神亀2年(725)、天平元年(729)、弘仁14年(823)といわれる。 宇佐神宮の元宮は、福岡県築上郡築上町にある矢幡八幡宮(現金富神社)であるとする説もある。 また、宇佐神宮の祖宮として薦神社 (大貞八幡宮、大分県中津市)、金富神社 (矢幡八幡宮、福岡県築上郡築上町)が挙下られている。 |
由緒 まず社名について。奈良時代にはただ八幡宮・八幡神宮・八幡神社 八幡大菩薩宮等と呼ばれていたが、平安時代に京都に石清水八幡宮が創建されてからは、石清水八幡宮と区別する意味で宇佐宮・八幡宇佐宮・宇佐八幡宮と云うように「宇佐」の字をつけるようになった。明治6年、官幣大社宇佐神宮となり、昭和20年、社格制度廃止により、今の宇佐神宮となった。宇佐の地に初めて八幡神が御示顕になられたのは、欽明天皇の御代に御許山(おおもとさん)(宇佐神宮奥宮大元神社鎮座)に顕われた。また同天皇32年(571)に現本殿のある亀山の麓の菱形池の辺に神霊が顕われ、「われは誉田天皇広幡八幡麻呂なり」と告げられたので、この地に祀られたのが宇佐神宮のはじまりである。 その後和銅5年(712)、鷹居社が社殿として初めて造立され、霊亀2年(716)小山田社に移り、神亀2年(725)現在の亀山に移され第一之殿が造立された。天平元年(729)には第二之殿、弘仁14年(823)には第三之殿が造立され、現在の形式の本殿が完成した。養老3年(719)大隅・日向の隼人が反起したので、八幡神は託宣により神輿を奉じて日向まで神官・僧侶と共に行幸され、これを鎮めた。この隼人の霊を慰めるため天平16年(744)、和間浜で「放生会」が行われた。これが全国各地の八幡宮で行なわれている放生会(ほうじょうえ)の起源ともなった。また天平10年(738)、聖武天皇の勅願で境内に神宮寺「弥勒寺」が建立てられた。聖武天皇が天平15年(743)、東大寺大仏建立を発願したが、難工事となり八幡神に無事完成を祈念した。これにたいし全面的に協力し「われ天神地祇を率い、必ず成し奉る。銅の湯を水となし、わが身を草木に交えて障ることなくなさん」 また大仏に塗る泥金が不足すると「必ず国内より金は出る」と次々と託宣を発し大事業も無事に完成した。天平20年(748)には東大寺の守護神に勧請され、その後東大寺の脇に手向山八幡宮が建てられた。このように八幡神は仏教と早くから融合し「八幡大菩薩」の称号を賜わった(781)。 また孝謙天皇の時、皇位をねらう弓削道鏡(ゆげのどうきょう)の事件が起き、神護景雲3年(769)に大宰主神中臣習宜阿蘇麻呂(だざいのかんずかさなかとみのすげのあそまろ)は「道鏡を皇位につければ国平らかならん」と八幡神の託宣があったと天皇に奏上した。その真偽を確かめるために和気清麻呂を勅使として宇佐へ遣わし、「我国は開闢(かいびゃく)以来君臣のこと定まれり、臣をもって君とするはいまだこれあらず。天つ日嗣は必ず皇緒を立てよ。無道の者よろしく掃除すべし」と託宣をうけ道鏡の野望を退け、国体を鎮護することができた。これにより一層朝廷より崇敬されるようになった。以来勅使は「宇佐使」や「和気宇佐使」と呼ばれ、特に天皇の即位奉告の勅使には代々和気氏が任命されたので和気宇佐使と呼ばれた。宇佐の地方神であった八幡神が八世紀には朝廷とむすびつき、国家神にまでになった。さらに貞観元年(859)大和の大安寺の僧行教が「われ都の近く移坐り、王城を鎮護せん」との託宣を受け、京都男山に八幡神を勧請して石清水八幡宮を建てた。後に鎌倉に鶴岡八幡宮(1063)が祀られ、弓矢八幡として武士の信仰も厚く、全国各地に八幡宮が祀られ庶民からも親しめる神となった。建久7年(1196)の宇佐大鏡によると、平安時代の全盛期には九州の農地八万町歩のうち宇佐宮は二万四千町歩の荘園があり全体の三分の一を占めていた。この経済力が八幡文化の基礎となり、且つ大分県の文化・政治でもあった。県北の国東半島では養老年間に八幡神の化神「人聞」(仁聞・にんもん)が開いたといわれる六郷満山の仏教が開華し、宇佐氏による伝乗寺や富貴寺などの寺院が建立されて、中世には本山・中山・末山の三山組織ができ、国東独特の山岳仏教文化が生れた。また県南では大神氏による臼杵石仏に代表される豊後石仏群が出来上がった。(全国の石像美術の90%は県内にある)しかし源平の争いには平氏に加担したため、緒方惟栄の焼き打ち(1184)にあい社殿・寺院ことごとく全焼し、多くの財宝や資料を失った。南北朝には大宮司家も二に分裂して到津家は南朝に、宮成家は北朝につき対立した。この内乱により33年に一度続いた式年造営も出来なくなり、ますます衰えていった。室町時代になると豊前の守護職大内盛見は宇佐宮造営に着手し、12年の歳月を掛けて、永享2年(1430)に完成した。このときの造営が古代宇佐宮の名残を留める最後の造営でそのときの遺産として「応永の古図」や神輿が残っている。戦国時代になると、豊前の大内、豊後の大友の両氏に挟まれて宇佐宮の神職も武士化した。永禄5年(1562)、大友宗麟の焼き打ちにあい社殿他ことごとく焼失した。このようにしかし武士の時代になると、神社の経済基盤であった荘園が少なくなり、また何度も戦火にあい急速に衰えていき、盛時の面影は無くなってしまった。天正15年(1587)、豊臣秀吉の九州征伐では神領は没収され、また黒田孝高により平安以来の神宝刀剣九十余振を奪われ苦難の時代であった。しかし黒田孝高の子黒田長政は宇佐宮の造営を思い立ち文禄元年(1592)、着手して慶長4年(1599)には二之御殿が完成した。黒田氏の後小倉藩主となった細川忠興は慶長6年(1601)、宇佐宮に五百石を寄進し、さらに慶長11年(1606)には三百石を寄進し行幸会を復活した。慶長15年には三之御殿を造営し、年次社殿堂宇五十余棟を造営して、落ちぶれていた神官社僧百数十家も禄をえて復帰して、放生会・行幸会の二大行事が復活した。正保3年(1728)には徳川家光が神領十して千石を寄進した。享保8年に上宮が火災のため全焼して、享保13年(1728)に臨時の造営に着手し、元文5年(1740)頃完成した。この遷宮を祝い中絶していた宇佐奉幣使として飛鳥井中将が延享元年(1744)、参拝した。文久3年にも本殿を修理して、これが今の本殿である。明治元年の神仏分離令が出され、廃仏毀釈の旋風も激しく、仏像をはじめ多くの仏教美術品が失われた。昭和60年の勅祭を記念して宝物館を建設し、貴重な文化財の保存や散逸した宇佐宮関係の文化財の収蔵に勤めている。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
宇佐神宮 宇佐八幡宮 八幡宮総本社 宇佐神宮 鎮座地 大分県宇佐市大字南宇佐字亀山2859番地 御祭神 一之御殿 八幡大神 御名 誉田別尊(応神天皇) 二之御殿 比売大神 御名 三女神。 多岐津姫命市杵嶋姫命 多岐理姫命 三之御殿 神功皇后 御名 息長帯姫命 御由緒御神徳 ◎八幡大神の御顕現 全国神社約11万社のなかで、40600余社というのが八幡さまで、ついでお稲荷さま・伊勢神宮の分社・天満宮という順序であり、そうしたなかでいかに八幡さまがより多くの人々に親しまれて祭るということが、日本人に、広まっていたかがわかる。 八幡さまが史書にのべられたのは、740年聖武天皇天平12年に藤原広嗣が反乱をおこした時に大将軍大野東人に詔して「八幡神」に祈請せしむと続日本紀にある。 また同じく「八幡神社」とか「八幡大神」また宣命には「豊前国宇佐郡に座す広幡の八幡の大神」とある。 宇佐の社伝「八幡宇佐宮御託宣集」等には、八幡さまが御出現した571年欽明天皇32年に「誉田天皇広幡八幡麿」また「我名をば護国霊験威力神通大自在王菩薩」とも申されており、「護国霊験威力神通大菩薩」の尊号は、781年光仁天皇天応年間に上る文書にあり、「大自在王菩薩」は、783年の延暦2年にある。「八幡大菩薩」と連称する様になったのは、798年延暦17年の官符にみられる。これらのことにより、927年延喜式神明帳には「八幡大菩薩宇佐宮」などと称えるよび方が定まり、八幡大神から八幡大菩薩になっだことも、天台の伝教大師・真言の弘法大師が、宇佐に参拝したことにより、これら台密の結合が行われたことからであろう。 最も749年天平勝宝元年、奈良の東大寺の大仏の開眼式にのぞむため、八幡神の入京は、大仏の鋳造を助けたという、仏教擁護の社でもある。738年天平10年勅願により弥勒寺が境内に建立され、741年天平13年には、この八幡神宮に対し、天皇より冠、経文、神馬、僧を奉られ、また三重塔を建てられている。 この弥勒寺は、金堂が薬師、講堂が弥勒菩薩であって、その建築様式は薬師寺様式と同じと研究されている。現社地の亀山に一之御殿が725年神亀2年に二之御殿が731年天平3年に建てられた当時は、八幡神宮であったが、両部神道が平安初期にあらわれてきて、八幡大菩薩となり、本地が釈迦とされ垂跡が八幡菩薩とされたようである。 ◎比売大神のこと さて、現在の本殿は向って左から一之御殿、二之御殿、三之御殿とならび、二之御殿の前に申殿があり、八幡造の本殿があるが、823年弘仁14年に三之御殿ができて、この形式になったので、それ以前は、一之御殿と二之御殿が並んでいたとなると、二之御殿の祭神を、八幡さまの妻神と考えたり、八幡さまとの中をとりもつ女神などと考えられた。すなわち玉依比売とか大宮能売神とかいう学者もあったが、社伝では、天照大御神と素尊のウケヒによってあらわれ、素尊の劔を物実とした、三柱の比売大神で、筑紫の宇佐島に天降つた神とされている。宇佐の国造らが、奥宮の大元山を中心として祭つたものと伝えられている。そして八幡さまのあらわれる以前の古い神様、地主神であるとされている。 この国造も高皇産霊尊から出た天御降命の末裔というので、宇佐島に天降つた三神と大きな複線をなしているが、これが神武天皇の東征の折、宇佐にとどまり、国造の妹の宇佐津媛と藤原氏の祖である天種子命との結婚という縁が宇佐神宮が朝廷とを結ぶ要因をなしている。このほか、三女神は道主貴となつて宗像大社や厳島神社などに祭られ、海洋神として神威をあらわされた事も考えなければならない。 八幡さまが宇佐にあらわれるに至つた、いきさつは、三殿ともに脇侍の神のあることである。もちろん、仏教の関係で、こうした脇侍という型式が、おそくなつて、できたとも思われるが、神威の上からは、重大なことである。一之御殿が春日神社、二之御殿が北辰神社、三之御殿が住吉神社、ということである。 この二之御殿の比売大神に北辰の脇侍を祭るということは、仏教的に言えば八正道というような宗教意識の広がりをもつものではないかと思われる。とにかく神代よりまします比売大神は、かくと断定され得ないのである。比売大神の昔より祭祀のあつた宇佐の地に、外交政策になやみ、ぬかれ、任那が亡ぼされて十年目、欽明天皇の崩御の年に、八幡大神があらわれたことは、現代人にも、何かを指示される点がある。 ◎神功皇后の神託 この日本で大陸との交易に関係したのは何としても神功皇后さまである。 九州の熊襲をしずめ、その背後にある黄金白銀のかがやく国との交易で神功皇后の外交政策は、文化交流の中での神道史でもある。また神託を中心とした九州の神々の祭りでもある。 そして胎中天皇であつた応神天皇が大陸と交易した。その聖徳も高いが、胎中天皇としての奇蹟。そして皇太子になられた三才の童子の姿が八幡大神として崩御261年後にして宇佐の地にあらわれたことは、九州を中心にして神託信仰という「魏志」にある鬼道のような形式のものが、大神比義の神託となつたのであろう。当時の、九州地方がまた、ひろく大和朝廷にも及ぶ魏志や後漢書の伝えるように、卑弥呼のような政治と神の祭りが行なわれていたとすると、八幡の出現の中心人物は大神比義にある。 社伝では、その生れもわからず。また、死んで白狐となつたと言われているが、大三輪の流れであつて大分県と宮崎県境の祖母山を中心にして大神の神婚神話があり、この源は、宮崎県都農にあるらしい。大和の大神の神婚神話と同じものであるが、この大神比義の後裔が、東大寺建立に協力した大神杜女・田麿であり、神託をもつて仕えており、ここに、朝鮮半島や大陸から渡来した辛島と秦氏族が加り、こうした神託をなす女祢宜として奉仕したと思われる。 ◎八幡大神の神威 また、八幡とは天降つた八つの幡を祭つたという。これは、のぼり、旗、また幣帛、織物をいうので、武神とか工芸神の神徳もあらわれたのである。 八幡さまは、奥宮の大元山にも、摂社薦社の三隅の池、菱形池の畔の霊水のわく処にも、各地の馬蹄石(影向石)上にもあらわれたと伝えられている。したがつて田や畑の神とも、龍神などとも申されているので、単に応神天皇の聖徳だけをたたえ祭つた神社でないことは、ハツキリ言える。 これは、725年聖武天皇神亀2年に現在の宇佐神宮一之御殿を建てられてから約100年たつた823年弘仁14年、三之御殿に神功皇后の神霊を、神託によつて「大帯姫廟神社(名神大)延喜式神明帳」として祭られ、よりこの八幡大菩薩の神威は、大きくかがやいて来たのである。 由緒書 |
宇佐神宮 鎮座地 大分県宇佐市南宇佐亀山2859 御祭神 一之御殿 八幡大神 御名誉田別尊 (応神天皇) 二之御殿 比充大神 御名 三女神 (多岐津姫命 市杵島姫命 多紀理姫命) 三之御殿 神功皇后 御名 息長帯姫命 御由緒 この豊前国宇佐の地は神代より筑紫の菟狭の国の中心であったところで、畿内や出雲と同様に早くから開けた所である。ここに全国の八幡宮の総本宮、勅祭の大社で、古くより伊勢の神宮につぐ「宗廟」・「我が朝の大祖」と称えられてきた宇佐神宮が鎮座する。 『日本書紀』によると、宇佐神宮の二之御殿に奉祀されている三女神の比売大神が、天孫降臨のときに天降られたのが、この筑紫の宇佐嶋であると伝えている。 この宇佐嶋之いうのは奥宮の大元山、また本宮のある亀山ともいわれている。 宮殿としての創建は奈良朝のはじめの神亀、天平のころであるが、祭祀は既に神代にはじまっており、天三降命の子孫の宇佐国造が奉仕している。 神武天皇が御東遷のとき、宇佐の国造である菟狭津彦は皇軍を御迎えして、一柱騰宮を造り大御饗を催したとある。その後、神功皇后が宇佐に行幸になったというのも、この地が宇佐国の信仰勢力の中心地であったからである。 このような大変古い由緒をもつ神域に、欽明天皇の29年(568)、いまの御本宮のある亀山の麓、菱形池のほとりに、神光が輝き走って数々の不思議が起こった。その時大神比義という神異の翁が現れ断食をすること3年、同32年(571)2月初卯の日に八幡大神の託宣があり『われは誉田天皇広幡八幡麻呂なり。我名をば護国霊験威力神通大自在王菩薩と申す』と告げられたので、御祀りしたのが八幡大神御顯現のはじめである。誉田天皇は崩御の後、御陵をはじめあちこちでいろんな御霊威があった、これは、御母君の神功皇后が、香椎の小山田宿で自ら神主となられ、天神地祀の神示を御受けになったことなどをはじめ、記紀に見られる敬神の御生活や応神天皇が胎中天皇であられたことなど一層深い神格を御持ちになっていたからである。 この応神天皇の御神霊が、八幡大神として宇佐の地に御示顕になったことは、神功皇后が香椎巡幸のときの由縁の地であると同時に、海北の道中にもまして海上守護の霊威を御持ちになる三女神の本宮であるなどの御由縁があったからであろう。 こうして和銅元年(708)八幡大神は金色の鷹に化し、約十町余り西にある今の駅館川を臨む、松の木の上に御移りになった。これが現在の鷹居神社(摂社、宇佐市上田)である。この後、霊亀2年(716)御神託によって小山田の森(小山田神社、宇佐市小山田)に御移りになったが、神亀2年(725)に再び現在の亀山(小椋山ともいう)に御遷座になったのである。 この造営に当っては、朝廷は勅使を派遣、豊前守を奉行に任命して造営と遷座に当たらせ御戸代を献上された。これが即ち一之御殿である。 二之御殿の比売大神は太古より宇佐の地に降臨せられ、天平5年(733)新たに社殿を遷宮御奉斎し、三之御殿の神功皇后も御神託によって、弘仁14年(823)に御鎮祭申し上げ、ここに八幡三所として三殿の御鎮座となる。いずれも朝廷から造宮使の派遣があったが、元慶4年(880)には三十年目ごとに式年造替をする制度が定められた。それによると、西海道九国二島から課役し造替することになっている。 この地に徳の高い三殿を御創建になる前に八幡大神は薦社、奈多社、瀬社をはじめ八つの旧摂社のある所や、そのほか各地に御巡行されている。これが、御薦枕の神璽を新たにされる行幸会の始まりとなり、六年目ごとの大きな祭典となった。その結果、各地に多くの御分社が出来たのである。 元正天皇の養老3年(719)に大隅・日向の隼人が反乱を起こしたので、平定せんとの御神託を出され、八幡大神は神輿に乗って日向に行幸され、賊を鎮められたが、この賊徒の慰霊のため天平16年(744)和間の浜で放生会を催された。全国八幡宮の放生会の起源は、このときにはじまっている。 宇佐神宮の境内に、聖武天皇の勅願として天平10年(738)に建立された神宮寺弥勒寺は、日足の弥勒禅院(本尊弥勒菩薩)と南無会の勝恩寺(本尊薬師如来)を移したもので、その別当には法蓮が任命された。そして先の放生会には、この法蓮のほかに華厳、覚満、躰能などの名僧が奉仕したといわれる。 九州全土にわたった宇佐宮神領の外に神宮寺領も、最も盛んであった頃には、墾田百町のほかに、豊前、豊後、筑後、肥前、肥後、日向、大隅、薩摩に百四箇所の寺領があった。 又、延喜式にもあるように古い歴史をもつ宇佐宮大宮司は、主として菟狭津彦命の後蕎、宇佐国造(到津大宮司家の祖)が代々奉仕しており、以下少宮司、神主、禰宜、祝、等の職制があった。社家は350余人、上より祠官、庁分、神人と称した。 さて、八幡大菩薩の化身ともいわれた仁聞菩薩は、養老年間には国東半島を中心に六郷満山二十八ヶ寺の本寺と、百余の末寺を開基されたといわれ、宇佐宮とは密接な関係にある。このうちでいまも見られる富貴寺の大堂(国宝)などは、宇佐宮大宮司の建立と推察されている。又、馬城山伝乗寺(真木大堂)の仏像などのように、各所に多くの文化財が残されており、国東仏教文化が栄えていたのである。 このように神宮寺の濫觴となっている八幡大神は、又、東大寺の大仏鋳造にも神助を授けられている。即ち、聖武天皇の勅願によるこの大事業に臨み、大仏装飾の金箔に不足したとき、御神託があって『必ず国内より黄金を出す』ということであり、御神託のとおり大量の黄金が陸奥の国から発掘されて、大仏は完成したのである。 このため八幡大神は天平勝宝元年(七四九)宇佐より神輿に召されて大仏の開眼式に臨まれ、十五年間奈良に滞在されたのである。 称徳天皇の御代になって、弓削道鏡の事件が起こった。即ち、神護景雲3年7月(769)太宰主神中臣習宜阿曽麻呂は『道鏡を皇位に即けしめば天下太平ならん。』という八幡大神の御神託があったと、いつわりの奏上をしたので、その真否をただすために和気清麻呂公が宇佐へ遣わされた。 その7月11日、大尾山頂に遷座中であった神前で、女禰宜辛島与曽米の取次ぎで君臣を分定する神の教えがあった。 7月21日『無道の者はよろしく早く掃除すべし』と、道鏡の怒りなどものともせず、和気清麻呂公は神教を朝廷で奏上した。しかし、その結果足の筋をたたれて大隅配流ということになったが、八幡大神の神恩で小倉足立山で足が立ち、■田では猪三百頭が現れて和気公を守護したという。そして光仁天皇宝亀2年(771)には本位に復されたのである。 このような八幡大神との関係で、宇佐神宮の勅使には代々和気氏を御差遣になったので、宇佐に使する使者のことを和気使ともいうようになった。 和気清麻呂公はまた、奈良より遷都する建策をされ、造宮大夫に任ぜられて当時の大事業である平安京造営の大功を残された。 その後、新しい都の鎮護のため山城国の男山に宇佐神宮の御分霊をお迎えし石清水八幡宮の鎮祭が勅命で行われた。 即ち、貞観元年(859)に僧行教が導師となって、宇佐の田中坊が御伴した。これが石清水八幡宮の創祀となったのである。 また、源頼義は、八幡宮を氏神として崇拝、殊に源義家は、石清水の神前で元服したので八幡大郎と名乗り、蝦夷平定に臨んでは、神威を授かるために、鎌倉の由比ヶ浜に男山の御分霊を祀り由比若宮と称へて崇敬を加えた。 源頼朝が鎌倉幕府を開くに当たっては、建久2年(1191)由比ヶ浜の八幡宮を現在の地に遷座し奉り守護神として奉斎した。これが鶴岡八幡宮の創祀となった。このようにして、各地に八幡宮の鎮祭があって四万余社を数えるようになったのである。 南朝に弓を引いた足利尊氏は、京の六条八幡宮(左女牛八幡)を氏神として、篤く崇敬、南朝の征西将軍懐良親王は宇佐に参宮するに当っては剣を奉納して武運を祈られ、大宮司到津家の菩提寺、大楽寺で先帝を弔われたという。 元冠来襲の弘安4年(1281)には、朝廷が、筥崎宮に『敵国降伏』の祈請をされたのをはじめ、各地の八幡宮に神助を仰がれたのはいうまでもないことであるが、このように八幡宮の崇敬は朝廷、武家、庶民と広がってゆき、この頃『八幡大菩薩』の旗を立てて海外に出没した八幡船などのように、広い範囲に影響を与えた。 そのうちでも特に関係のあるものは、『八幡船』を駆使したと伝えられる大内義弘、義隆ら武将の崇拝である。奈良時代から統いていた、即位奉告使、一代一度の大神宝使、恒例使、大奉幣使、臨時祈願の勅使などは建武年間(1334〜38)にかけ兵乱で行われなくなり、式年造替の制も実施されなかったのである。このため大内義弘は、応永年間(1394〜1428)に幕府の援助を受けて大造営、神事の復興をした。 そして江戸時代に入ったが、平安時代の盛時にはおよばず、神領地千石で明治維新をむかえた。 明治4年5月14日、古くから宇佐宮または八幡宇佐宮といい、延喜式には『八幡字佐宮、比売神社、大帯姫廟神社」などとあるのを、宇佐神宮」と改めて官幣大社に列したのである。 由緒書 |
宇佐神宮 宇佐奉幣使 と 和気使 現在まで254回の勅使 奉幣とは「神にぬさを捧げること」と辞書に書かれている.そして、神に捧げる物を幣(ぬさ)と呼ぶ。天皇の御使(勅使)が宇佐神宮に参向して、奉幣・報告・祈願するため、これを、『宇佐奉幣使』と呼んでいた. この、勅使による宇佐神宮への参向は奈良時代に始まり、平成7年10月6日(1995年)の勅使で254回にになる.一時、中断した時代もあったが、大正時代からは10年に1度の宇佐使になった.現在では祓いの神事と天皇からの幣がささげられる. また、古代から、奉幣使の中でも、天皇の即位の報告を宇佐宮に行う勅使を特別に『和気使』と呼んできた.これには、代々和気清麻呂の子孫の正五位下以上の位の人物がこれに当たってきた.これを、『一代一度の奉幣』と呼んだ.(山田孝雄博士) http://www3.coara.or.jp/~primrose/usagu.html |