石上布都魂神社
いそのかみふつみたまじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】石上布都之魂神社 備前国 赤坂郡鎮座
          (旧地)石上布都魂神社(本宮)

   【現社名】石上布都魂神社
   【住所】岡山県赤磐市石上1448
       北緯34度51分6秒、東経133度58分13秒
   【祭神】素盞嗚尊
       『吉備温故秘録』江戸後期 布都御魂
       『神社明細帳』明治初年 十握劒

   【例祭】10月20日近い日曜日
   【社格】旧県社 備前一宮
   【由緒】寛文9年(1669)再興
       延宝2年(1674)社領二十石
       宝永7年(1710)社殿造営
       明治6年郷社
       明治39年神饌幣帛料供進神社指定
       明治43年大火焼失
       大正4年山の中腹に遷宮
       昭和21年1月10日県社

   【関係氏族】
   【鎮座地】もとは大松山山頂に鎮座
        明治43年大火焼失
        大正4年山の中腹に遷宮

   【祭祀対象】剣
   【祭祀】江戸時代は「師霊神社」と称していた
   【社殿】本殿流造銅板葺
       幣殿・拝殿・手水舎

   【境内社】

大和の国「石上神宮」の元社とされている。
素盞嗚尊が八岐大蛇を斬ったときの剣である十握剣を祀ったのが当社の創始と伝えられる。この剣は崇神天皇の時代に大和国の石上神宮へ移されたとされており、このことは石上神宮の社伝にも記されている。
山頂の巨岩を対象とした原始的信仰による磐境として始まり、素盞鳴尊の御佩せの太刀を載いて、此処に小社を営み、霊劔を納めて奉齋したものが、現在の本宮であろう。崇神天皇の御代(仁徳天皇の御代とも云う)に至り、此の御神劔を大和国に遷させられた。


石上布都之魂神社

備前古一宮
石上布都魂神社
御祭神ならびに御由緒
当社は「延喜式」神名帳、備前国赤坂郡六座のうちの「石上布都之魂神社」にあたり、備前国総社神名帳128社の中正二位と記され御神徳の高い神社である、現在御祭神は素盞鳴命であるが、江戸時代後期、寛政年間に岡山藩士大沢惟貞が編纂の「吉備温故秘録」では「布都御魂」明治初年編の「神社明細帳」「延喜式内神社・国史見在之神社」では「十握劔」を祭神と記している。御祭神名の変更は、明治6年郷社列格の際と思われる。いずれにしても素蓋鳴命の大蛇退治の神話に起因する。日本書記一書に「其の蛇を断りし劔をば、號けて蛇之鹿と日ふ。此は今石上に在す」また一書に「素蓋鳴尊、乃、蛇の韓鋤の劔を以て、頭を斬り腹を斬る、(中略)其の素蓋鳴尊の、蛇を断りたまへる劔は、今吉備の神部の許に在り。」さらに一書に「素蓋鳴尊、万ち天蝿断の劔を以て、其の大蛇を斬りたまふ。」と記す。総合すると義鳴尊が大蛇を切つた劔は「蛇の韓鋤の劔」「天蝿断の劔」あるいは「蛇の鹿正の劒」で、吉備の神部のところ、石上にあることになる。韓鋤の劔は韓から伝来した刀の意.天蝿断の劔は蛇を切った劔、すなわち韻霊剣を祀ったのが布都魂神社である。
「吉備温故秘録」で大沢惟貞は記紀の神代巻・旧事記・神社啓蒙旧事紀・天孫本紀、古語拾遺・言金抄などから「私に曰、此数書を以て参考ふるに、上古素蓋鳴尊、蛇を断の剣は当社(注石上布都魂神社)に在事明かなり、其後、崇神天皇の御宇、大和国山辺郡石上村へ移し奉るとあれ共、当社を廃されしとは見へず、又延喜神名帳にも大和国と当国に布都魂神社載せられたるは、当国石上神社を大和国に勧請して地名も石上といひしならん、さすれば、当国の石上本社なることも分明なりしとす。寛文9年(1669年)時の備前藩主池田綱政が山頂にあった小桐を造営復興し、延宝2年(1674年)には神道衰之古事を知る人の少なきを歎き広沢元胤に命じ社記を作らせ(一巻)、社頷二十石を奉納した。その後累代の藩主崇敬怠りなく廃藩の時にいたる。この間の藩主交代時には必ず折紙が奉納された。(現存)略年表参照。
神剣(蛇の鹿正・別名蛇の韓鋤・蝿断劔)は大和(奈良県天理市)の石上神宮にお移ししたということは石上神宮にもこのことが記されている。「布都斯魂大神 素盞鳴尊の以って八岐大蛇を斬り給ひし十握劔の威霊を称奉る御名なり。日本書紀神代巻一書に、其断蛇劔、号日蛇之鹿正在石上宮也と見之、古語拾遺に、素蓋鳴神、自天而降到於出雲国簸之川上、以天十掘劔(其名天羽々斬、今在石上神宮古来大蛇謂之羽々、言斬蛇也)斬八岐大蛇とありて、もと備前国赤坂宮にありしが、仁徳天皇の御代、霊夢の告によりて春日臣の族市川臣これを当神宮に遷し加え祭る。(抜粋・大正15年発行官幣大社石上神宮御由緒記)
かくして神剣奉遷の後石上神宮においても神剣所在は明らかでなかったが、明治7年水戸の人菅政反が古典に石上神宮(当時布留神宮)社内の禁足地に韻霊の神剣埋蔵されていることを知り教部省の許を得て発掘し神剣と勾玉を発見した。明治天皇にお見せし再び布留神宮の御霊(これを布都斯魂之大神と呼ぶ)を祀ることとなった。その時この剣を模して造ることを月山貞一に命ぜられ宮内省に納められた。その影造の剣が東京青山に住む福島靖堂(保三郎)氏によって昭和9年11月4日に本神社に寄進された。
明治初年神社調によって郷社となり、明治39年神饌幣帛料供進神社に指定される。明治43年火災によって貴重な棟札等ことごとく焼失、大正4年現在の位置に社殿を改築した。
昭和20年県杜の資格ありと認められる。
この神社は近郷では「神社様」と敬称し、疫疾災を断つということ、安産、農耕、養蚕の守り神、子授りの神として篤く信仰されている。
大祭
祈年祭(としごいのまつり)通称春祭
4月15日
当神社は古く平岡庄領地内にある熊野神社(現御津町新庄)と八幡神社(現御津町平岡西)と三社祭礼の慣習があり互いに神饌を奉献し代表が参拝する。わが国古代より神祇宮、国庁でで五穀の農穣、天皇の安泰、国家の安寧を祈請する重要な祭であるとともに牛馬の安全をも祈願する。
夏祭
旧歴6月11日
氏子域内の田植も終り、本格的に夏の農作業に入り養蚕、推肥作りの柴苅など重労働の季節で悪疫流行・牛馬の禍が多く疫神を鎮める疫神祭(古くは別に行う)も併せ行い、罪穢をはらい清福を祈る祭である。この祭も三社の慣習に従う。
例祭
10月20日10月21日(現在は20日に近い日曜日)
前記の三社合同の最大の神事を行なうため三社とも当日氏子一戸一名以上の参加で御神幸行列・祭典・獅子舞い・棒遣い等神事は多彩である。簡略に記すと、当社を当日午前八時半祭典・神輿渡御祭を斎行、白装束の興守に担がれ山を降り、約一q離れた宮司宅で興の飾り付け、隣家で昼食をとる。この間に獅子舞い・棒遣い奉納(古くは青年団)一般の神幸お供の人(一戸一役)が集って神幸行列を組み、午前11時出発、約1.2Km離れた八幡神社に(山頂にある)参拝途中まで八幡神社から出迎えあり、八幡神社12時祭典、獅子舞い、俸遣いを二社合同で奉納、午後1時出発、約1.5Km離れた熊野神社へ参拝、道中二社の行列が長く続く、途中まで熊野神社からお迎えがある。その地で獅子舞い・俸遣いの奉納あり、熊野神社境内地に輿を休め前記二社のお供は各自持参の昼食をとる。拝殿においては二社を迎えての祭典、午後2時頃から三社御輿前で獅子舞い・捧遣い奉納終って熊野神社の馬場において三社の各神輿が勇壮に走り、これを「練りみこし」という、又「獅子舞い」「棒遣い」が笛・大鼓にあわせて演じられ、祭りの最高潮に達したとき、三社の神輿は「お旅所神事」に移り終って、元の輿休めの場所に「お揃い」になり各神社帰路につくのである。当社に神輿が還り着き還幸祭を行うのは、夕暗が宮山に訪れほの暗くなった頃である。この神幸行事の起源は不明であるが八幡神社供割帳が享和2年(1802年)のものから現存しているから古くからの伝統行事である。
新穀感謝祭(新嘗祭)併せて七五三祭
11月23日
春祭で神に祈念した米の収穫を感謝する祭りで氏子から「初穂」を供え新穀による餅・握り飯などいただく神人和合の直合を行なう。
中祭
新年祭1月1日
夏祈祷旧6月1日 定重氏子
大祓祭6月30日・12月31日
小祭
月並祭毎月1日(現在は第一日曜日)
当社との関係深き神社
石上神宮奈良県天理市
社名について
石上布都之魂神社 延喜式神祇巻
韻霊神社 備陽国誌東備郡村誌(ド巻)
経津霊神杜 備陽記(巻三)
石上布都魂神社 明治6年岡山県布告第85号
境内未社 稲荷神社
境外未社 和田神社 吉井町西勢実鎮座
素蓋鳴神社 吉井町河原毛鎮空
大綾津日神社 吉井町東山上鎮座
龍神社 御津町佐野鎮座
建造物
本殿 
大松山中腹にあり、大正4年の造営
流造銅板葺(桧皮葺を改め)南面
桁行一間五尺(2.76m)
梁行二間三尺三寸(4.8m)
拝殿
入母屋造瓦葺大正四年の造営
桁行三間(5.64m)
梁行二間(3.76m)
向拝桁行二間(3.76m)
梁行一間半(2.84m)
幣殿桁行一間(1.88m)梁行一間半(2.48m)
本宮復興参百年(昭和43年)記念事業として改築したものである。
鳥居石造高さ一丈三尺(約3.8m)享保8年
大石燈籠文久3年(1863年)創建・人夫氏子七村構と刻み、旧赤坂郡一円・御野郡・児島郡・上道郡・郡.上道郡に至る広域の寄付者名がある。高さ約5.7m米境内地にある。昭和63年復興320年を記念して氏子崇敬者の浄財寄付によって大修復を行う。
小石燈籠は鳥居場に二基ある
水道 昭和43年復興三百年記念事業として風呂谷奥の谷に湧く天然水を約500m引くものである。
備考当社のことを記す主なる書。
日本書紀
一書第三「其素蓋鳴尊断蛇剣今在吉備神許也」
一書第二「其断蛇剣号日蛇麓正今在石上也」
日本古典文学大係67日本書紀上(岩波)に当社かと記す。
其の他「神祇宝典」「神名帳考証」「日本紀神代巻講述抄」「和漢三才図絵」「備陽国誌」
「備陽記」「寸簸の塵」「東備郡村誌」「古代吉備を行く」「日本の神々」神話と聖地2
「群書類従」大日本国一宮記に備前国一宮とある
献詠歌
平賀元義(江戸末期の歌人)
神代よりやまとと吉備に鎮らす
布都の御魂の神の尊さ
すさのをの神の剣のをさまりて
ありてふ御山みればたふとし
備前藩主池田家より拝領(古文書等)現存
寛文9年 池田綱政 社殿造営復興
延宝2年 〃〃   社記社領式拾石奉納
宝永7年 〃〃   杜殿改築・折紙書替
正徳6年 〃    木鳥居建立仰付
享保2年 池田継政 書軸壱巻奉納
          金子二百匹奉献
享保3年 〃    社領折紙書替
享保8年 〃    木鳥居を石鳥居に建替仰付
        幣殿・拝殿・神楽所屋根瓦繕仰付
          本殿屋根葺替仰付正遷宮
宝暦3年      屋根葺替正遷宮
宝暦4年 池田宗政 社領折紙書替
明和2年 〃    屋根葺替正遷宮
明和5年 池田治政 社領折紙書替
寛政8年 池田斉政 社領折紙書替
天保元年 池田斉敏 社領折紙書替
天保4年 〃    屋根葺替正遷宮
天保15年 池田慶政 社領折紙書替
安政元年 〃    屋根葺替正遷宮
文久4年 池田茂政 社頷折紙書替
明治2年 池田章政 社領折紙書替

由緒書



石上布都之魂神社

この神社は、国鉄・津山線金川駅から北東へ約10Km、県道・仁堀中〜御津線の古井町平岡西から分かれて同町天納へ通じる町道を約3Km北上した西側の山の中腹の、赤磐郡吉井町石上字風呂谷1448番地にある。もと県社。現在は、石上布都魂神社と書いている。
式内社の石上布都之魂神社は、江戸時代の初期には廃絶状態であったようで、岡山藩四代藩主・池田綱政は、由緒あるこの神社の所在さえ不明なのを嘆き、延宝元年(1673)に社領三〇石(米約3トン)を寄進して、社記を作らせ、宝永7年(1710)には大松山山上に社殿を再建した。この社殿は、明治40年(1907)の大火で焼失したので、大正4年(1914)現在地の山の中腹に神社を移し、もとの社地を本宮とした。
祭神は、古くから布都之魂神とされている。素盞鳴尊を祭神とする説もあるが、『神社啓蒙』に、「布都御魂宮は素盞鳴尊が蛇を斬った韓鋤の剣を神霊とす」とあり、、【日本書記』の八岐大蛇退治の条には、第三の一書が伝えるところとして、「素盞鳴尊の断蛇の剣は、いまは吉備の神部の許に在る也」と記されていること、さらには奈良県天理市にある石上神宮の主神が布都御魂大神であることなどから、この神社の祭神は布都之魂神が正しいものと考えられる。
社殿は、東面して建てられており、本殿は、一間社、流れ造り・銅板葺き(もとは桧皮葺き)で、周囲には花崗岩製の石柱が乱杭状に巡らされている。



石上布都之魂神社

わが國の古傳承を記してあります古事記、日本書紀、古語拾遺という本によりますと素盞鳴尊(天照大神の御弟神)が天上(高天原)から天降られて出雲國の簸(ひ)の川上で八岐大蛇(やまたのおろち)をお斬りになった際、大蛇の尾から一振りの剣を獲られた。その劒を天照大神に奉られた。また大蛇をお斬りになった剣を「蛇の鹿正」(おろちのあらまさ)「羽羽斬剣」または「布都斯魂剣」と申し上げ、この剣が吉備神部許にあると記されていますが、これが當社の鎭祀されたおこりであります。なお布都斯魂大神は仁徳天皇の御代に大和國石上神宮-現在の奈良縣天理市布留−へ當社からお遷りになりおまつりされております。かように當社は由緒の深い著名な武の神をご祭神と仰ぎまつり、また治國平天下、愛育(いつくしみ)の神とおしたいしております大神であらせられましたので、備前岡山藩主池田光政公は特に、寛文年中に當社をご再興になりついで綱政公は延宝2年社領として二十石を、また宝永7年にご社殿を造営されました。(當時は山上にご建立)

石上布都魂神社略記



石上布都魂神社

当社は「延喜式」神名帳、備前国赤坂郡6座の内の1社である。備前国総社神名帳128社の中で正2位と記されている。古くは書紀一書に「其の蛇を断ちし剣をば、なづけて蛇之麁と日ふ。此は今石上に在す。」また一書に「素盞嗚尊、乃ち天蝿断の剣を以て、其の大蛇を斬りたまふ。」と記している。
 「吉備温故秘録」で大沢惟貞は記紀、旧事記、神社啓蒙天孫本記、古語拾遺等から「曰く、この数書以て考ふるに、上古素盞嗚尊、大蛇を断の剣は当社に在る事明らかなり、その後、崇神天皇の御宇大和国山辺郡に移し奉るとあれども、当社を廃されしと見えず。(以下略)」
 寛文9年備前藩主池田綱政が山頂磐座に在った小祠を造営復興し、延宝2年「社記1巻、社領20石」を廃藩まで奉納した。他に「備前一宮」として、今日「一宮巡拝」等で参拝者が増えつつある。
 山頂の社殿は明治43年火災に遭い現在地に移す。
 昭和20年「県社の資格有り」と認めたれた。
 現在拝殿は平成5年改築。

岡山県神社庁



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