元は福山(倉敷、清音、山手にかかる標高302メートルの山)に奉斎されていたが、建武年中の福山合戦(1336)にて社殿を焼失した。 後に隣山の幸山(こうやま)に遷座されたが、更に江戸時代の始め藩主池田光政公の命により寛文12年(1672)現在の宮山の麓へ移され今日に至っている。 |
百射山神社のイワクラ 以上、字名という観点から百射山神社の本来の鎮座地を追求しましたが、今度はイワクラという観点から考えてみます。古代の神社はイワクラを中心としたものであったからです。地元の方から「ガッタラ」(切図に見える字名)という所に「山の神」(100頁地図参照)が祀られていて、そこが百射山神社の旧社地であると聞いたので、案内していただきました。「ガッタラ」は切図の43「百射山」・44「百射山」の西側に続く一帯ですが、「山の神」は43「百射山」と「ガッタラ」との境界に位置していることが分かりました。「山の神」には小さな社殿が祀られていましたが、背後にかなり大きな岩があり、その岩には「元百射山神社」の文字が彫り込まれていました。結論から言えば、この岩はイワクラの可能性が考えられます。 古代の神祭りはイワクラが中心でしたから、この岩の場所(山の神)が元の百射山神社の鎮座地かもしれません。 加えるに、前記のように、ここは43「百射山」(幸山の山頂を含む地)に接しているので、幸山との関係も深いと思えます。 更に、幸山の山頂に登ってみて分かったことですが、正確に言えば山頂は二つあるのです。そのうちの低い方の山頂は平野を見下ろすのに恰好の位置にあり、城(幸山城)を設けるには絶好の場所です。いま一方の高い方の山頂には巨岩があります。この岩は三因の方から幸山に登っていくとよく見えます。ということは、三因から言えぱ、東方の幸山の頂に巨岩があることになります。もしかすると、この巨岩が式内社百射山神社のイワクラかもしれません。そうだとすれば、頂上に大イワクラのある幸山は神体山であった可能性が大です。 祭祀から見た古代吉備 薬師寺慎一 |