百射山神社
ももいやまじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】百射山神社 備中国 窪屋郡鎮座
          (旧地)百射山神社【旧地】

   【現社名】百射山神社
   【住所】岡山県総社市三輪1347
       北緯34度39分41秒、東経133度44分49秒
   【祭神】大山祇命 (合祀)吉備武彦命
   【例祭】10月第2日曜日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】鎮座の年代不詳
       建武3年(1336)兵火で焼失
       寛文12年(1672)幸山山麓から現在地へ遷
       慶応2年(1866)蒔田広孝「御紋付御幕一帳」寄進
       大正15年6月29日神饌幣帛料供進神社指定

   【関係氏族】
   【鎮座地】往古福山山頂に鎮座
        往古三輪村之内小屋字幸山に鎮座とも伝
        後に幸山山麓字百射ロへ転座
        寛文12年(1672)幸山山麓から現在地へ遷

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「百射山大明神」「百射山天神宮」と称していた
   【社殿】本殿流造檜皮葺
       幣殿・拝殿・神饌殿・神樂殿・手水舎

   【境内社】木野山神社

元は福山(倉敷、清音、山手にかかる標高302メートルの山)に奉斎されていたが、建武年中の福山合戦(1336)にて社殿を焼失した。
後に隣山の幸山(こうやま)に遷座されたが、更に江戸時代の始め藩主池田光政公の命により寛文12年(1672)現在の宮山の麓へ移され今日に至っている。
当地は下道郡の式内社の神神社の旧地の可能性がある。
当社が合祀した三輪神社はもともとこの地にあったものと考えられる。その場合、この三輪神社を式内社「神神社」の論社とする説がある。


百射山神社

(式内社)百射山神社略記
鎮座地 総社市三輪1347
御祭神 百射山神社 大山祇命(おおやまづみのみこと)
    御崎神社  吉備武彦命(きびたけひこのみこと)
    三輪神社  猿田彦命(さるたひこのみこと)
境内社 木野山神社 祇園神社 沼田神社 水神社
飛地境内社 七社神社 天満神社 天神神社
主要建物  本殿(明治21年8月再建)幣殿(明治23年4月再建)
玉垣(昭和3年1月建立)拝殿(明治23年4月再建)
神楽殿(慶応3年8月再建) 七五三烏居(昭和3年11月建立)
祭典日 祈年祭(4月第二日曜日)
例祭(10月第二日曜日)
新嘗祭(12月第二日曜日)
御由緒 御祭神 大山祇命は皇孫天彦彦火瓊々杵尊の后妃木花開耶姫之命の御父神にて 人皇第1代神武天皇御即位の節 南海の道伊予国(愛媛県)大三島に鎮座される 後に命の御神裔五田守国勝長狭命と宇津命ば水軍を率いて吉備の島の賊どもを平らげた其の途中吉備の国百射の山島に御滞在された時に御祖神大山祇命を奉祀されたのが神社の始めと伝えられています。
その後戦災等で隣山の幸山へ奉移再建されましたが寛文12年(1672)岡山藩主池田光政公により宮山の地に奉移遷宮され現在に至る
御祈祷 家内安全 病気全快 交通安全 初宮 厄災消除 商売繁盛
七五三参 合格祈願 その他地鎮祭 竣工察等外祭式
申込先 総社市門田13−3 百射山神社 宮司平田芳樹

由緒書



百射山神社

備中國18社
  式内社 百射山神社
御祭神 百射山神社 大山祇命
御相殿 御崎神社 吉備武彦命
御相殿 三輪神社 猿田彦命
         大物主命
御由緒 御祭神大山祇命は、皇孫天彦彦火瓊瓊杵尊の后妃木花開耶姫之命の御父神にて人皇第1代神武天皇御即位の節、南海の道伊予国(愛媛県)大三島に鎮座される。後に命の御神裔五田守國勝長狹命と宇津命は水軍を率いて吉備の島の賊どもを平らげた。其の途中吉備の國百射の山島に御滞在された時に、御祖神大山祇命を奉祀されたのが神社の始めと伝えられています。その後、戦災等で隣山の幸山へ奉移再建されましたが、寛文12年(1672)岡山藩主池田光政公の命により、宮山の地に奉移遷宮され現在に至る。

社頭掲示板



百射山神社

三輪山の遺跡群
三輪山は南北約1.2Km、東西約1.1Km、最高所は標高96.3mの半独立した花崗岩からなる丘陵です。
この丘陵を先人たちが利用しだしたのは約2000年前の弥生時代中期頃で、天理教三輪山教会裏山遺跡や殿山遺跡などの小集落跡があります。その100年ほど後の弥生時代後期には、宮山を中心とした一帯をむらの墓地として利用していたようです。
しかし農業生産や手工業生産の進展と社会機構の変革は、平等であった弥生社会に支配者(首長)層を生みだしました。宮山墳丘墓や柳坪墳丘墓は、彼ら支配者層の墓と考えられており、規模や構造なと、庶民の墓と大きな違いをみせています。その後まもなくあらわれる古墳は、そうした関係がより具現化したものです。
天望台古墳は全長55m、三笠山古墳は全長70mで、ともに前方後円墳です。4世紀後半頃から系譜的につくられた首長墳と考えられます。また各尾根上にある約70基の径10m前後の小古墳は、有力首長を支えた人たちの墓と思われます。
6世紀代になると、古墳の内部構造に横穴式石室を採用するという大きな変化が始ります。この地方は横穴式石室を比較的早く採り入れた地の一つとされています。6世紀後半頃からは横穴式石室が各地で一般的となり、20基ほどがこの丘陵にも築かれたようです。
7世紀代になると古墳の築造は急減し、権力表示は古墳から寺院建築に代り、有力豪族たちは競って各地に寺院を建立します。
三輪廃寺は、そうした古代寺院の一つと考えられており、建物の基壇らしい版築層や古瓦の散布がみられますが、伽藍配置や寺域は不明です。
百射山神社は、927年に完成した延喜式神名帳にその名を残す官社で、一般に式内社とよばれる古社です。
平成5年3月
総社市教育委員会

社頭掲示板



百射山神社

この神社は、国鉄・伯備線総社駅から南々束へ約1.5Km、都窪郡清音村との境に近い宮山(標高80mの西方の山すその、総社市三輪1347番地にある。もと郷社。
伝承によると、この神社は、もとは福山(標高302m。現・都窪郡山手村と消音村の境にある)山頂にあったが、建武3年(1336)の福山合戦(足利尊氏の弟・直義と、新田義貞の将で福山城主であった大井田氏経との戦い)で炎上、その後、福山の北方峰続きの幸山の山すそに再建され、さらに寛文12年(1672)に現在地へ移転したとされている。現在地の前の所在地については、幸山山頂に祭られていたという説もある。江戸時代には、百射山大明神または百射山天神宮と称していたが、明治初年に現在の社名に改号した。
祭神は、大山砥命(瓊々杵尊の后の阿多津姫命の父)が主神で、相殿の三輪神社(旧称・明見宮)は大物主命、御崎神社は吉備武彦命とされている。 社殿は南面しており、すべて明治21年(1888)以後に改築されたものである。本殿は、正面二間・側面一間、入り母屋流れ造り・桧皮葺きで、周囲に花崗岩製の、玉垣が巡らされている。拝殿は、入り母屋造り・本瓦葺きである。
境内の末社には、荒神社(祭神・素盞鳴命)、砥園神社(旧称・疫神社・素盞鳴命)、沼田神社、水神杜、木野山神社がある。



百射山神社

当社は、平安時代(794〜1185)に完成した「延喜式」(えんぎしき)にも名を残している古社で、元は福山(倉敷、清音、山手にかかる標高302メートルの山)に奉斎されていたが、建武年中の福山合戦(1336)にて社殿を焼失した。
 後に隣山の幸山(こうやま)に遷座されたが、更に江戸時代の始め藩主池田光政公の命により寛文12年(1672)現在の宮山の麓へ移され今日に至っている。
 創建は不明であるが、御祭神の大山積命は伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)の御子で、天孫瓊瓊杵尊(てんそんににぎのみこと)の后妃木花開耶媛命(このはなさくやひめのみこと)の御父神であり、第1代神武天皇の御代に伊予国(愛媛県)大三島に御鎮座された大神様である。
後の御代に命の御神裔五田守国勝長狭命(ながさのみこと)と宇津命(うつのみこと)が、水軍を率いて吉備の島々の賊を平らげ、滞在地の百射之山島(福山)に御祖神(みおやがみ)大山積命を奉斎したのが当社の始まりと伝えられている。

岡山県神社庁



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