当初の鎭座地は湊浦字荒神の本のあたりで、現在「沖の荒神」とよばれる小祠がある地であつたと伝えている。 中世東南方200mの湊里字大明神の地で、当初よりやゝ低い地(昭和45年より湊小学校校地となる。)に移転し、明治の初め、さらに南の現在地八幡神社の境内地に移転した。 |
湊口神社 元郷社 湊口神社 鎮座地 三原郡西淡町湊里字大神ケ内 御祭神 速秋津比古命 速秋津比売命 応神天皇 由緒 創立年月不詳なれども往古三原平野の大半未だ海水なりし頃湾口に位し附近住民の海部が湊口字西荒神の本に創立せしものと伝う。文徳天皇嘉祥3年神階正六位上となり、清和天皇貞観元年従五位下に叙し、光孝天皇元慶8年従五位上に進みたり。延喜式の制小社に列し、朱雀天皇承平4年山陽南海に海賊蜂起しその首魁、藤原純友は、同6年伊予に拠りて阿波淡路を掠奪す。藤原国風敗れて淡路に来り戦勝を当社に祈るという。斯して平定後天慶3年正四位に叙せらる。 源義経、平教経と南海に戦うや、湊浦に来り佩剣を神前に捧げて快晴を祈れり。なお眼下往来の船舶属々神慮に触れしかば湊字大明神に遷座せしは、延喜以後、此頃の事なるべし。明治維新の際更に南方二町余の地なる八幡神社々殿へ移転して同社祭神を合祀し同6年2月郷社に列す。 2175坪宮有地 本殿 桧皮葺流造三坪五合 現在銅板葺 幣殿 瓦葺切妻造七坪五合 拝殿 瓦葺寄棟造二〇坪 神撰所二〇坪三合社務所二八坪 仲哀天皇神社 仁徳天皇神社 玉依姫命神社 2月16日 神社調書旧正月16日 湊口神社祭典 昭和13年頃の調書 神幸式後、頭神事あり神事は直会座の折敷膳に荒布、煮大豆、鏡餅神撰饗飯等を土器にもり鯨の吸物にて神酒三献を饗す。座中古老と称し総数12名(浦6名・国衙座2名・外禰座2名・僧座2名・神事に奉仕し直会座には其の首座に着くを例とす。 頭人国衙座(地頭方座2名)外禰座2名・僧座2名・浦10名・合計16名これを本頭とし、その他揚頭あり。祭典三日前より家に注連縄を引き頭人家族共に斎戒す。其の間初日。中日の二日間は神職其の家に至りて之を清め祭典前日は頭人全部袴を着て供奉す。 秋祭9月14日八幡神社祭典 神社調書 ささら踊はもと8月14日執行(この日は、八幡神社の祭典なり) 一老八人豆絞の襷にささらをもちて奉仕せしも今所作乱れ伝統のもの不明なりこれに次いで流鏑馬の神事あり所式又乱れて往昔のもの明かならず。 秋祭9月16日湊口神社祭典 〔神社調書〕もと8月16日の祭儀現今.は、9月16日に行なう。早朝神馬の参拝あり。 御門出祭10月16日八幡神社祭典 〔神社調書〕もと旧9月晦日。御門出祭と称す(八幡祭)又秋の八幡様の大祭とも言う。直会座ある祭儀にして15・16両日に亘り神幸式は2月と同様、但し15日夜は応神天皇(旧八幡神社の祭神)の神輿を海浜仮宮(旧湊口の神の旅所と同所なり)に駐め翌16日其の地より神社に供奉す。 卯日祭11月中卯日太陰暦 〔神社調書〕湊町里一老6人参列列新穀を奉彙し撤下里氏子に各戸に授与す。 社殿再興棟札万治2年 参大行事文珠師菩薩護国四天王本地阿弥陀如来八幡大菩薩守護所 万治弐年己亥年3月18日本願宥慶 頼信外略 (裏) 奉再興当社浜里惣代氏子而造立者也諸願成就如意 満足庄内安穏守所宮ノ入目銀子弐貫弐百拾六匁 由緒書 |
湊口神社 瀬戸内海の守護神「湊口神社」 湊は三原川河口に臨む国府の外港で、ここに鎮座した湊口神社は海人部(あまべ)に崇敬され、その古跡地は湊港一帯から播磨灘を見渡す高台現在の「沖の荒神社」の地であるというのが通説である。その後、中世においてその南方に移転し、「湊口明神社」とよばれていた。 その地は現在、湊小学校の校庭となっている。明治維新に湊里村に鎮座する八幡神社に移転し、湊口神社という社名で相殿で祀られているが、本殿と鳥居、灯龍は湊小学絞が昭和四十三年に現在地に移転するまで「明神さん」とよばれる社地に残っていた。 湊口神社は延喜式神名帳(927年)に記載された式内社で、淡路の国司が奉幣していた神社であった。承久6年(936年)から天慶2年(941年)にかけて、藤原純友が瀬戸内海を荒らしていたとき、朝廷は湊口神社に正四位下の位を贈って、海賊討伐を祈願したという由緒ある神社であった。 しかし、湊口神社をはじめ、淡路の延喜式内小辻は南北朝以後、次第に衰え、真言宗と密接な関係にある八幡信仰が隆盛となり、神仏習合の度合いの少ない明神系統の弍内小社と、八幡神社の勢力が逆転し.湊口神社も八幡神社の社地に移転されたのである。 同神社には、地引網漁の有様を描いた珍しい絵馬(天保5年に奉納)が保存されており、頼戸内海における自然と海上交通に際しての特別な信仰があったことがうかがえる。 (三原郡史より) 広報せいだん 1979.10.25 |
湊口神社の由緒 創立年代は不詳であるが、三原平野の大半が海水で満たされた入江であった頃、古代淡路・御原の海人族が御祖神を祀るために建立したのが創建の由来とされている。御祭神の速秋津比古神・速秋津比売神は伊邪那岐命と伊邪那美命の神生みの神業によって御出現なされた水戸神であり御両神から沫那藝神・沫那美神・頬那藝神・頬那美神・天之水分神・国之水分神・天之久比奢母智神・国之久比奢母智神など重要な神々が誕生している。また女神は日本最古の祝詞である大祓詞に「速開都比売」として登場し祓の神とされている。 文徳天皇(850?)の御代に神階正六位、清和天皇(858?)の御代に従五位下、光孝天皇(884?)の御代に従五位上に列せられた。平安時代、当地は国衙(国司庁)の外港として栄え、967年に施行された延喜式神名帳に記載されている式内社である。それ以降、祈年祭に国司の幣帛を受けたことからも千有余年の星霜を経た古社であり、古代海人族活躍以来の当社の重要性が朝廷に認められていたことがうかがえる。934年(朱雀朝)山陽・南海道に藤原純友の反乱が興り、藤原国風が戦勝祈願に当社を参拝、その甲斐あって反乱を平定した。これを受けて神階正四位に叙せられた。源平の戦い(1180?85)で源義経が平教経と南海で戦う時、当社に佩剣を奉納して快晴を祈ったと伝えられる。当時、社は湊浦明神谷の上に鎮座していたが、眼下往来の船舶が神慮にふれて度々難破していたので湊字大明神の地に遷座した。 安土桃山時代には戦国武将淡路十人衆の一人である安宅氏の崇敬を受けていたが、1581年に羽柴秀吉によって滅ぼされ、1615年には阿波藩主の蜂須賀氏の治世となり、筆頭家老の稲田氏が洲本城代となって淡路を治めた。 江戸時代は寺内氏(智積寺)が別当であったが、明治元年神仏分離令によって、湊浦庄屋の菊川有年氏が社掌に任命された。明治6年郷社に列せられたが、明治39年神社合祀令によって現在地である八幡神社に移転合祀する。明治45年に神饌幣帛料供進神社に指定されている。昭和6年に湊口神社・八幡神社の神輿2基改修、昭和28年に宗教法人湊口神社が発足し、平成5年に八幡神社神輿改修、平成6年に社務所改築、平成18年に座倉解体・玉垣建立・神門改修、平成19年に座倉再建を行い現在に至っている。 公式HP |
湊口神社 もとは境内社・沖の荒神の祠がある現在地よりも港寄りの場所に鎮座していたが、中世になり、200mほど南の大明神と呼ばれる地に遷座。 明治になり、さらに南の八幡宮境内に移転し、郷社・湊口神社と村社・八幡神社が並存する形となる。 現在拝殿の額に両社の名が並んで記される。 兵庫県神社庁 |