八幡神社
はちまんじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】和奈佐意富曽神社 阿波国 那賀郡鎮座
          (末社)和奈佐意富曽神社
          (旧地)和奈佐意富曽神社旧地

   【現社名】八幡神社
   【住所】徳島県海部郡海陽町大里松原1
       北緯33度36分40秒、東経134度22分9秒
   【祭神】天照皇大神 誉田別命 天児屋根命
   【例祭】10月第3土曜日 例大祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】鎮祭年月日不詳
       初め靹浦大宮(那佐浦とも云う)に鎮座
       天正年間大里村浜崎の地へ遷座
       慶長9年(1605)5月、大里松原に移す
       慶長9年(1605)八幡宮と改称
       明治40年神饌幣帛料供進指定

   【関係氏族】
   【鎮座地】初め靹浦大宮(那佐浦とも云う)に鎮座
        天正年間大里村浜崎の地へ遷座
        慶長9年(1605)5月、大里松原に移す

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「八幡宮」と称していた
   【社殿】本殿流造
       幣殿・拝殿

   【境内社】

初め靹浦大宮(那佐浦とも云う)に鎮座していた。
それ以前の社地に3説あり。
1.宍喰浦北那佐湊に鎮座していた。
2.息長田別命の子孫が国府より海部に帰り吉野に鎮座した。その後兵乱起り(時期不明)靹に移つたが、国府勤番の時奉祀していた白鳥神社を八幡神社に合祀した、これが大宮山であるとする。
3.旧は神野(コウノ)村神屋敷に祀られていた意富曾神社が暴風雨により流出(時期不明)靹に漂着したのでこれを祀つたのが大宮山である。
大宮山から現在地へ移つたのに二説がある。
1.大宮山は狭隘なので慶長9年5月(1604)現在地へ遷。
2.天正年間(1573−91)一旦大里濱崎に移したが慶長9年(1604)12月16日の津波により流されて大里松原に着き、ここに奉祀されたとする。


由緒

鎮祭年月日不詳。初め靹浦大宮(那佐浦とも云う)に鎮座。慶長9年(1605)5月、大里松原に移す。第2代徳島藩主蜂須賀至鎮、しばしば修復の料を献ず。宵宮、例祭には関船2台、壇後5台が神賑として、白砂青松の大里松原をねる。又流鏑馬神事があり、豊年豊漁を祈願する。1月15日未明、筒粥神事があり、その年の早稲、中稲、晩稲の吉凶を占う。1月15日、旧6月15日、10月15日には靹浦当家祭がある。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




八幡神社

大里八幡神社の秋祭り
海南町大里松原に郡内一の延喜式内社、和奈佐意富曽神社があリます。古くはこの社地を大宮といって海部町靹浦の漁民や海南町の住民から深く崇敬されています。この神社は最初は那佐浦に鎮座していましたが、のちに靹奥の手久良の大宮山に遷宮され、天正年間(1573〜92)に大里の浜崎地へ、さらに慶長9年(1604)大里の現地に遷座されました。祭礼の月日は夏祭りが旧6月15日、秋祭りが新10月15日となっています。祭神は誉田別命(応神天皇)・神功皇后(息長足姫命)です。
氏子は、海南町・海部町の全域にまたがっています。主な出しものは御輿・だんじり六台・関船二台・馬・鉾・天狗なとです。それでは海の男たちが主役の大里八幡神社の秋祭りを紹介します。
この祭礼行事は、漁村集落の靹浦の若連が主導権をにぎっています。昭和初期ごろまでは、海部川河口を大きな関船やだんじりをのせた高瀬船の川渡御かあり、満艦飾の川渡御は宵祭りの圧巻でした。この行事は、海部川河口の地形の変化によって、現在は陸上輸送となっています。八幡祭りのだんじりは江戸時代に、奥浦の庄屋志方与右衛門が考案したものであると伝えられています。関船は靹奥の漁民たちがたんじりに関船を取り付けたもので、たいへん豪壮なものです。船の前部に付けた八幡大菩薩のマークがとても勇壮で印象的です。関船は昔の戦艦であるといわれています。祭りの当日は、白砂青松の約一里(約4Km)の参道を隊烈を組んで進行します。進行の順序は、氏子間で昔から定められています。第一が靹奥南町の関船、第二が北町のだんじり、第三が仲町のだんじり、第四が靹浦東町の関船、第五が奥浦のだんじり、第六が大里のだんじり、第七が四方原のだんじりとなっています。それぞれ若連中の印提灯を付け、朱塗りの船体に金糸銀糸の幕をはりめくらして、とても豪壮華麗な時代絵巻をみるおもいがします。だんじりの中には厚化粧をして青いたすきをかけ、美しく看飾つた6〜10歳くらいの打子が乗ります。鉢打6人・小太鼓4人・大太鼓1人です。これらのだんじりや関船が勢揃いをして、神輿を先頭に御旅所まで疾走する様は、若連中の力のみせどころで、ものすごく迫力に満ちています。若衆たちの「イセハイセーイセハツテモツ・ツハ・イセデモツ」という祭りばやしが広大な大里松原に・ひびきわたります。祭りの最終は流鏑馬によって幕を閉じます、とくにこの祭りで珍しいのは、海南町、海部町の氏子たち、親族一同、友達仲間が、およそ一里に及ぶ松林の中に、三三・五五に陣取つて座をとり、たくさんのご馳走を広げて酒盛りをすることてす。
いわゆる直会の風習があります。この地方は海部城下で、播政のころ海部御鉄砲や判形人の置かれていたところです。また海南町と海部町の二つの町にまたがる、いわゆる海部郷の祭りで、祭礼行事は豪壮雄大で、しかも昔の海部人が海を舞台に遠く東支那海まで活躍したことが想像されます。八幡大菩薩の印旗をかかげて、2台の関船と6台のだんじりが隊列をととのえて宮脂(ママ)りする様は倭寇の進軍をおもわせるものがあります。県南一の祭礼行事といわれるものです。海ではたらく人々。遠洋漁業に出ている海の男、京阪を中心に全国各地に勇戦奮斗する氏子青年男女はあらそって帰郷に一度八幡神社の祭りに神と人とのきづなを結び、生きる力の根源をつくるのだというおもいがします。
平成10年9月吉日 奉納 杉本光 後藤靖生
            溝口豊水 小松兵一

由緒書



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