忌部神社
いむべじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】忌部神社(名神大 月次/新嘗) 阿波国 麻殖郡鎮座
          (摂社)御所神社

   【現社名】忌部神社
   【住所】徳島県徳島市二軒屋町2-48
       北緯34度3分37秒  東経134度32分44秒
   【祭神】天日鷲命
   【例祭】10月19日 例大祭
   【社格】旧国幣中社
   【由緒】神武天皇2年2月25日創建と伝
       大同元年(806)封戸20戸
       嘉祥2年(849)4月従五位下
       貞観元年(859)正月17日従五位上
       元慶2年(878)4月14日正五位下
       元慶7年(883)10月28日従四位下
       文治元年(1185)屋島の戦いに際して源義経や那須与一が戦勝祈願に太刀や弓矢を奉納
       文治3年(1187)源頼朝田畑1000町を寄進
       明治18年徳島市の金刀比羅神社へ仮御遷座
       明治20年現在地に新社殿造営
       昭和20年戦災のため社殿をはじめ主要建物をほとんど焼失

   【関係氏族】忌部氏
   【鎮座地】元の社地論争有り
        明治18年徳島市の金刀比羅神社へ仮御遷座
        明治20年現在地に新社殿造営

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】本殿
       拝殿・社務所

   【境内社】

式内忌部神社は、長く不明であった、
江戸期に吉野川市山川町山崎の忌部神社が式内社に比定され、明治5年、国幣中社に指定された。
ところが式内忌部神社は、美馬郡貞光にあったという説もあり、調査の結果、明治7年に再度太政官布告があり明治8年、正式に国幣中社に列せられた。
しかし、その後も論争激しく、明治14年、美馬郡西端山を忌部社地と変更した。
これによって更に論争が激しくなり、太政官は、現社地である徳島市内に社地を定める通達を出した。
明治18年、現社地の北側にある金刀比羅神社に仮遷座。
明治25年、社殿の竣工とともに現在地へ遷座。


由緒

阿波国総鎮守忌部神社略記
鎮座地徳島市二軒屋町2−48
御祭神天日鷲命
太古天日鷲命は、穀木(かじ)麻を植え製紙製麻紡織の諸業を創始され特に天照大御神が天の岩戸にお隠れになった時、白和幣(しろにぎて)をつくり神々と共に祈祷(いの)られ天の岩戸開きに大きな功績を挙げられた。
その子孫は忌部と称し国家祭祀の礼典を掌り、神武天皇の御代阿波国に下りこの郷土を開拓し代々朝廷に荒妙御衣(あらたえみそ)(穀木、麻で織る)を貢上し、それは大嘗祭(天皇即位の大礼)の用に供された。
麻植郡の名も麻を植える事から起きたものである。
このように天日鷲命を奉祭する忌部神社は忌部族すなわち徳島県民の祖神を祭り古来阿波の国総鎮守の神社として朝野尊崇篤く延喜の制には官幣大社に列せられ、且つ名神祭の班幣に預かり(名神大社)西国随一の格式の大社として、四国一宮とも称せられた。
文治元年源義経八島合戦のみぎり太刀一振を奉納、那須与一は弓矢を奉納、更に文治3年源頼朝御供料として田畑一千町歩を寄進したしたことが伝えられている。
当社は中世以降兵火にかかり久しくその社地が不明であったが明治4年国幣中社に列せられ、明治7年その所在地を麻植郡山崎村とされたが、同14年美馬郡西端山村に遷祀、さらに明治18年徳島市の金刀比羅神社へ仮御遷座、同20年現在地に新社殿成り奉遷鎮祭し奉った。
昭和20年、戦災のため社殿をはじめ主要建物をほとんど焼失し、現在の本殿は昭和28年拝殿は昭和43年に復興されたものである。
境内地、約12000坪
祭日、例祭10月19日、鷲替え神事
摂社、五所神社、美馬郡貞光町西端山吉良鎮座

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




忌部神社はなぜ徳島市にあるのか

徳島市二軒屋町の眉山南東中腹に鎮座する忌部神社は、阿波忌部の祖神天日鷲命を主祭神とすることで知られています。阿波の忌部神社の歴史は古代に遡るものの、現在地に神社がつくられたのは明治時代のことです。なぜそうなったかというと、複雑な経緯があります。ここでは、その概略を紹介しましょう。
阿波忌部とは、古代の宮中祭祀を担当した忌部氏に従属した集団です。忌部氏の神話・伝承をまとめた『古語拾遺』や平安時代の法令書『延喜式』などによれば、天皇の即位儀礼である大嘗祭に際して、麁服という布を献上しました。また、昨年10月に吉野川市が誕生したことによって消滅した「麻植郡」(古代・中世は麻殖郡と表記)という郡名も、阿波忌部が麻を栽培したことに由来するという神話があります(『古語拾遺』)。
このような古代阿波忌部の紐帯だったのが、麻植郡にあった忌部神社でした。『延喜式』神名帳に登載された、いわゆる式内社で、その中でも阿波に三社あった大社のひとつでした。
そうした位置づけからすれば、阿波国ではとくに重要な神社だったはずですが、時代が降るうちに所在が分からなくなり、複数の神社が古代以来の忌部神社の系譜を主張するようになりました。そのため、近世から近代にかけて、所在地論争が続きます。所在不明となったのは、地震による崩落のためとか、戦国期に土佐から侵攻した長宗我部氏に焼かれたからなどと伝えられています。
現在の場所に忌部神社が置かれた直接のきっかけは、明治初年の所在地論争です。1815年(明治4)、全国の神社を対象とした社格制度が発足した際、古代の式内社である忌部神社が、所在不明のまま、神祇官所管の国幣中社に列格されます。そこで、神社の特定が急がれました。
ここで重要な役割を果たしたのが、小杉榲邨(1834〜1910)でした。彼は、近世末から近代にかけて活躍した国学者として著名ですが、その考証により、1874年(明治7)麻植郡山崎村(吉野川市山川町)の忌部神社が、式内社の系譜を引くものと判断されました。
これに対し、美馬郡西端山(つるぎ町貞光)の五所神社を、古代の式内社である忌部神社に比定する見解が出され、激しい争いとなりました。本来は麻植郡にあった忌部神社の系譜を、美馬郡の神社に見いだそうとするのは奇妙なことですが、すでに『阿陽記』など、近世に民間で流布した地誌では、忌部神社がある地域はもとは麻植郡で、後に美馬郡になったとされ、美馬郡内にある阿波忌部の伝承などが挙げられています。西端山側の主張には、そうしたものが底流にあったのです。そして、小杉の考証は却下され、1881年(明治14)、五所神社が忌部神社と決定されました。
このように、所在比定が難航したことから、1885年(明治18)には現在地に社地が求められ、1887年(明治20)に遷座祭を行って国幣中社忌部神社が新設されるに至りました。あわせて、五所神社は新しい忌部神社の摂社に位置づけられました。この決定については、異論はなかったようです。
ごく簡単に述べてきましたが、忌部神社論争の詳細については、まだ不明な点が多くあります。地域史研究のあり方や地域意識の推移を考える手がかりとして、追究が望まれる課題でもあります。

徳島県立博物館ニュース58[2005年]



忌部神社

鎮座地 徳島市二軒屋町2丁目48
御祭神 天日鷲命
御由緒
御祭神天日鷲命は、日本書紀に「下枝以粟国忌部遠祖天日鴛所作木綿」とあり神代の昔に穀木麻楮を植え製紙製麻紡織の諸業を創始され高天原に天照大御神が天の岩戸にお隠れになった時、白和幣をつくり神々と共に祈祷られ天の岩戸開きに大きな功績を挙げられた。
その子孫は阿波忌部と称し(巌重に謹んで祭りを掌る人々の意)中臣氏と共に国家の祭祀を掌どった、神武天皇の御代阿波国に下り郷土を関拓し代々朝廷にな麁服(穀麻で織る神様の着物)を貢上し、それは大嘗祭(天皇即位の大礼)の用に供された。麻植郡(現在の吉野川市)の名も麻を植える事から起きたものである。「古語拾遣」
忌部神社は忌部族すなわち徳島県民の祖神である天日鷲命を祭り古来阿波の国総鎮守の神社として朝野の尊崇篤く延喜の制には官幣大社に列せられ、且つ名神祭の班幣に預かり(名神大社)四国西国随一の格式の大社として、四国一の宮とも称せられた。文治元年源義経公屋島合戦のみぎり太刀一振を奉納、那須与一は弓矢を奉納、更に文治三年源頼朝御供料として田畑一千町歩を寄進したことが社紀に伝えられている。
しかしその信仰の中心である阿波忌部氏は皇室との特別の関係が故に南北朝の戦乱の折り阿波の山岳武士として南朝方に忠誠を尽くし悉く滅亡四国随一と称されたその社殿も兵火にかかり、またその後も土佐の長宗我部氏阿波侵奪等の度々の兵禍に羅りの社地も不明となったが、明治維新後その天皇即位に深く関わる由緒の特殊性に鑑み明治大帝の格別の思し召しを持って復興仰せ出だされ明治4年国幣中社に列せられたが社地不明分につき暫時県社大麻比古神社(鳴門市)に合祀、明治7年その所在地を麻植郡山崎村と決定されたが、同14年美馬郡西端山村に遷祀、同20年現在地に奉遷鎮祭し奉った。
以後徳島県を代表する神社として畏くも昭和天皇様には親しく当社に御参拝の栄を賜るなど国家の手厚い保護の下漸次社殿の造営、境内の整備が進められたが、昭和20年、戦災のため社殿をはじめ主要建物をほとんど焼失し、占領軍の指令の下一切の国家政府の公的な援助を絶たれたが、本殿は昭和28年再建。拝殿は昭和43年に県内外の崇敬者の浄財により復興された。
平成2年の今上陛下のこ即位のご大典である大嘗祭には神代よりの古例に倣い大正昭和の御大典に準じて、忌部関係者総力を結集して木屋平村山川町の里人と共に恙なく神御衣麁服の貢進の事業が奉仕された。
当社は建築、織物の創始守護の神であり近年は縁結び結婚の守護神としても知られる
祭日 例祭10月19日、鷲替え神事(春祭り)5月15日
摂社 五所神社、美馬市西端山吉良鎮座
関係社 三ッ木八幡神社 木屋平 山崎忌部神社 山川町忌部

由緒書



忌部神社

御祭神天日鷲命は、日本書紀に「下枝以粟國忌部遠祖天日鷲所作木綿」とあり神代の昔に穀木 麻楮を植え製紙製麻紡織の諸業を創始され高天原に天照大御神が天の岩戸にお隠れになった時、白和幣をつくり神々と共に祈祷られ天の岩戸開きに大きな功績を挙げられた。その子孫は阿波忌部と称し(厳重に謹んで祭りを掌る人々の意)中臣氏と共に国家の祭祀を掌どった、神武天皇の御代阿波国に下り郷土を開拓し代々朝廷に麁服(穀麻で織る神様の着物)を貢上し,それは大嘗祭(天皇即位の大礼)の用に供された。麻植郡(現在の吉野川市)の名も麻を植える事から起きたものである。「古語拾遺」当社は徳島県民の祖神である天日鷲命を祭り古来阿波の国総鎮守の神社として朝野の尊崇篤く延喜の制には官幣大社に列せられ、且つ名神祭の班幣に預かり(名神大社)四国西国随一の格式の大社として、四国一の宮とも称せられた。文治元年源義経公屋島合戦のみぎり太刀一振を奉納、那須与一は弓矢を奉納、更に文治3年源頼朝御供料として田畑一千町歩を寄進したことが社紀に伝えられている。しかしその信仰の中心である阿波忌部氏は皇室との特別の関係が故に南北朝の戦乱の折り阿波の山岳武士として南朝方に忠誠を尽くし悉く滅亡四国随一と称されたその社殿も兵火にかかり、またその後も土佐の長宗我部氏阿波侵奪等の度々の兵禍に羅りの社地も不明となったが、明治維新後その天皇即位に深く関わる由緒の特殊性に鑑み明治大帝の格別の思し召しを持って復興仰せ出だされ明治4年国幣中社に列せられたが社地不明分につき暫時県社大麻比古神社(鳴門市)に合祀、明治7年その所在地を麻植郡山崎村と決定されたが、同14年美馬郡西端山村に遷祀、同20年現在地に奉遷鎮祭し奉った。以後徳島県を代表する神社として畏くも昭和天皇様には親しく当社に御参拝の栄を賜るなど国家の手厚い保護の下漸次社殿の造営、境内の整備が進められたが、昭和20年、戦災のため社殿をはじめ主要建物をほとんど焼失し、占領軍の指令の下一切の国家政府の公的な援助を絶たれたが、本殿は昭和28年再建。拝殿は昭和43年に県内外の崇敬者の浄財により復興された。
当社は建築、織物の創始守護の神であり近年は縁結び結婚の守護神としても知られる

徳島県神社庁



阿波国INDEXへ        TOPページへ



順悠社