御所神社
ごしょじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】忌部神社(名神大 月次/新嘗) 阿波国 麻殖郡鎮座
          (旧地)御所神社旧地
          (本社)忌部神社

   【現社名】御所神社
   【住所】徳島県美馬郡つるぎ町貞光吉良
       北緯33度59分38秒  東経134度4分32秒
   【祭神】天日鷲命
   【例祭】
   【社格】
   【由緒】神武天皇2年2月25日創建と伝
       大同元年(806)封戸20戸
       嘉祥2年(849)4月従五位下
       貞観元年(859)正月17日従五位上
       元慶2年(878)4月14日正五位下
       元慶7年(883)10月28日従四位下
       明治14年1月当の御所平が忌部神社の所在地と定められた

   【関係氏族】
   【鎮座地】当初鎮座の地西方200m
        昭和63年11月19日現在の地に

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「御所神社」と称していた
   【社殿】本殿
       拝殿

   【境内社】

式内忌部神社は、長く不明であった。江戸期に吉野川市山川町山崎の忌部神社が式内社に比定され、明治5年、国幣中社に指定された。
ところが式内忌部神社は、美馬郡貞光にあったという説もあり、調査の結果、明治7年に再度太政官布告があり明治8年、正式に山崎の忌部神社が国幣中社に列せられた。
しかし、その後も論争激しく、明治14年、美馬郡西端山(当社)を忌部社地と変更した。
これによって更に論争が激しくなり、太政官は、現社地である徳島市内に社地を定める通達を出した。
明治18年、現社地(徳島市)の北側にある金刀比羅神社に仮遷座。
明治25年、社殿の竣工とともに現在地(徳島市)へ遷座。



御所神社

忌部神社
摂社 御所神社
 御祭神 天日鷲命
天日鷲命は、穀、麻を植え、製麻、製織の諸事を創始され、特に天照大御神が天岩戸にお隠れになった時、白和幣(しらにぎて)を作り神々と共に祈られ 天岩戸開きに大きな功績をあげられた。その子孫は忌部氏と称し、中臣氏と共に国家祭祀の礼典を司さどり、忌部氏は全国各地にあって、社会教化と神道の宣揚、文化の向上、産業の発展に貢献していったのである。 阿波忌部氏は、古語拾遺によると、神武天皇の代に天富命が、その子孫を率いて、阿波に下り 穀・麻の種を植え、此の郷土を開拓し 代々大嘗祭(天皇即位の大礼)に穀・麻を織った荒妙御衣(あらたえみそ)を貢上した。このように、天日鷲命を奉祭する忌部族即ち徳島県民の祖神を祭り、古来阿波の国の総鎮守の神社として、朝野の尊崇篤く、平安時代の延喜式内社には 官幣大社に列せられ、名神祭の班幣に預る名神大社となり、西国随一の格式の大社として四国一ノ宮と称せられた。 また、忌部神社の法楽として、法福寺が建立され、大社の東西にも東福寺、西福寺が建てられた。そして、安和2(969)年には、摂社末社に十八坊を定め、後、寺の一字に福をつけて忌部別当一八坊とした。円福寺、浄福寺、悠福寺、金福寺、惣福寺、神福寺、冥福寺、地福寺、善福寺、安福寺、万福寺、福王寺、長福寺、福田寺、福満寺に法福寺、東福寺、西福寺である。当神社は、中世以降の兵火、あるいは弾圧による社領の没収、御供料の廃絶により神社の呼称の改名することとなり、久しく社地の所在が不明となったため、社地の論争の原因となった。明治政府が発足し、祭政一致の制を復し神社を国家の宗祀としたため、明治4(1871)年、忌部神社は国幣中社に列せられた。各地から社地の名のり出があり、明治7年12月、麻植郡山崎村が社地とされたが、明治14年1月には当美馬郡西端山村吉良の御所平が忌部神社の所在地と定められ、祭典が行われた。しかし、論争が続くなか、明治18年11月名東郡富田浦町(現徳島市二軒屋町)に社地が変更され、吉良の旧跡は摂社として、そのまま保持すべしとされた。 今度、徳島市へ遷宮百年を迎え、旧跡より東に、200mの現地に遷宮して、幣殿、拝殿を新築したものである。
昭和63年11月吉日

社頭石碑



御所神社

元国幣中社忌部神社が吉良御所平より徳島市に移転、以来百年の歳月が過ぎ旧宮として御鎮座された由緒ある御所神社も拝殿が老巧化し雨漏り等がひどくなった。このため世話人・宮司協議のもと忌部神社百年祭を機会に記念事業として新しく広い社地を求め移転新築することを決定す。郡内外の有志崇敬者に多大な御寄付を頂く、また社地建築等々についても関係者各位の深いご理解ご協力を得て正面に県指定天然記念物の「吉良江戸ヒガン」を配するこの地に遷宮を致しました。
昭和63年11月19日

社頭掲示板



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