天富命に從つて安房へ赴いた忌部を代表するものが由布津主(ユフツヌシ)命であり、下立松原神社は、この由布津主命がその祖先の天日鷲命を祀つたとされる。 源頼朝が石橋山の合戦に敗れ、安房へ到着の日に先づ洲崎神社へ参詣し、その夜は瀧口大明神即ち当社にて通夜したとある。 宮司は高山家であるが、安房忌部家の古い系図によると、由布津主以来80代を数えるという。 |
下立松原神社由緒 当社は天日鷲命を祀る式内社で、昔朝廷の命により、天富命が天日鷲命の孫 由布津主命 その他の神々と当地方開拓に上陸し、後由布津主命が祖神の天日鷲命を祀った社である。上陸当時 野山に鹿が多く、住民がその被害に苦しんでいたのを神々が狩を行い害を除き住民を安堵させた神徳を慕い今も神狩の神事として旧暦11月26日より10日間 神狩祭が行われている。なお大鹿の角が社宝として現存している。古来武将の尊崇も厚く源頼朝公 里見義実公など太刀を奉納して武運長久を祈願している。 又安房の式内社であった天神社が昭和初期当社に合祀されている。 社頭掲示板 |
ミカリ神事 町指定文化財(無形民俗文化財) 下立松原神社のミカリ神事 平成18年3月1日指定 下立松原神社のミカリ神事は江戸時代〔文化13年頃)から行われたどされる。 「ミカリ」という名の由来は、古く由布津主命が天富命と一緒に安房に上陸し、農作物を荒らす猪や鹿を狩って退治したことによるといわれ、鹿倉山は狩りをした場所、頂上の石宮三社は狩りをした神々であるという。また、山頂で宮司が叫ぶ「曲田の小平」というのは、狩りを助けた者だと伝えられている。 ミカリ神事は旧暦11月26日の夜から十日間にわたって行われる。27日から三日間、宮司・氏子総代が社務所に籠もり、鹿倉山に行く、これを「サバシ参り」と称している。また、27日は「イチノビ(一の御日)」といつて縄絢りをする。12月1日は「注連張り」といって「イチノビ」に絢つた縄を注連にして本殿の奥から鳥居まで、参道に沿って千鳥掛けに張り、神前に白い強飯などが供えられる。 ミカリ神事の最終日である12月4日は、「夜明かし祭り」といい、前日からは神社役員の氏子総代も社務所に参寵し、夜になってから参道に大火を篝火として焚き、御霊が移された神輿が鳥居の先まで渡御し、お旅所の社務所に入る。こうして12月4日の夜明け前には神輿がお旅所から本殿に戻り、ミカリ神事は終わる。 下立松原神社のミカリ神事は今なお旧暦で神事が行われ、多少簡略化されてはいるもののサバシ参り、縄絢い、注連張り、夜明がし祭りの神事が現在も守られて行われているなど、他の神社では失われたものが今も伝えられていて学問的にも貴重なものとされている。 平成18年3月1日 白浜町教育委員会 社頭掲示板 |
白浜の頼朝伝説 平家を倒して源氏の世にしようとした源頼朝は、伊豆の石橋山の戦いに敗れて、安房の平北郡猟島(鋸南町勝山)に逃げてきました、治承4年(1180)8月29日のことでした。 その後、再起を願う頼朝は、味方を得るために安房の国中を精力的に巡回したのですが、白浜にも立ち寄りました。空がよく晴れていた9月6日だったといいます。 先ず長尾の滝口大明神(下立松原神社)に参詣し、「宗近」の太刀を奉納して戦勝を祈願すると、海岸づたいに野島に着きました。 野島には、弁天堂(厳島神社)が祀られていますので、傍らにあつた岩に、「野島山」の三文字を鏃で刻み奉納しました。 白浜の野島は、 「あま小舟みえつ隠れつ朝あけの 野嶋が崎の霧のむらむら」 と歌に詠まれて、『廻国雑記』に記載されているほどの、東国随一の景勝地ですので、頼朝は暫く美しい景色を眺めながら従者の労をねぎらい、酒宴を開いたと言われています。 そこの場所には、「盃の池」「銚子の池」などの地名が残り、また、頼朝が、休息のため幹に腰を掛けた、「頼朝の腰掛け松」があったという話も残っています。 南房総市教育委員会 社頭掲示板 |