現在の鎮座地は神武天皇東征のとき、古事記に「阿岐国之多祁理宮」に7年駐まったという地で誰曾廼森(たれそのもり)と称されている。 多家神社は平安期から江戸時代に至るまで歴史上から姿を消している。 江戸期に松崎八幡別宮境内の「たけい社」であるとする説と安芸国内の神々を合祀した総社であるとする両説があって激しい論争となった。 広島県は斡旋に乗り出し、明治4年松崎八幡と総社とを共に廃止して、別に新たに一社を設けることとした。 旧両社の中間地点であり、且つ神武天皇の埃宮旧跡の伝説をもつ府中町上宮町誰曾廼森に多家神社を造営し、中央に神武天皇を勧請し、松崎八幡と総社の神体をことごとく相殿に祭つて一村の氏神と定めた。この際、両社に伝わる古記は、後の争いを避けるために全て焼却されたという。 |
多家神社 安芸国開祖 多家神社 (埃宮) 主祭神 神武天皇(神倭伊波礼毘古尊、勝利開運、事始、政治の神) 初代天皇(紀元前660年即位) 安芸津彦命(安芸国の開祖神) 相殿神 神功皇后(第14代仲哀天皇の皇后) 応神天皇(第15代天皇) 交通、厄難除、安産、育児の神 大己貴命(大国主神、招福開運、商業、医薬、健康、縁結びの神) 摂末社 貴船神社(高竜神、別雷神、大山津見神) 由緒 この地は、神武天皇が日本を平定するため御東征の折、お立ち寄りになられた所と伝わる。『古事記(712年完成)』に阿岐国(安芸国)の多祁理宮に神倭伊波礼毘古命(神武天皇)が七年坐すとあり。『日本書紀(720年完成)』には埃宮に坐すとある。この多祁理宮あるいは埃宮という神武天皇の皇居が後に当社となった。平安時代になると、菅原道真が編し始めた「延喜式」(927年完成)に安芸国の名神大社三社の一つとして多家神社の名が記され、伊都岐島神社(厳島神社)、速谷神社とともに全国屈指の大社とあがめられた。当時の主祭神は安芸国を開いた安芸津彦命ほか六柱の神々であった。中世になると武士の抗争により社運が衰え、江戸時代には南氏子(松崎八幡宮)と北氏子(総社)に分れ、互いに多家神ないし埃宮を主張して論争対立が絶えなかった。そこで明治6年(1873)になって、松崎八幡宮と総社を合わせ、「誰曽廼森(たれそのもり)」(現在の社地)に、旧広島藩領内で厳島神社に次いで華美を誇った、広島城三の丸稲荷社の社殿を移築して多家神社を復興した。明治7年県社となった。その後、多くの村社小社を廃して多家神社に合祀した。大正4年(1915)9月、社殿を焼失したが、全県的な奉賛を得て大正11年4月、今日の本殿、拝殿などを再建、境内の整備を行った。なお、境内の宝蔵は三の丸稲荷社より移築した社殿の唯一の遺構であり、今となっては広島城内にあった現存唯一の建物として貴重である。現在、県指定文化財となっている。 たれその森について 「誰曽廼森」と記されている。神武天皇が、当地の者に「曽(そ)は誰(たれ)そ」とお尋ねになったことからこの名がついたといわれている。 社頭掲示板 |
多家神社 多家神社略史 当多家神社は神武天皇御駐蹕霊地なり神武天皇は紀元前7年の12月27日に安芸の埃宮即ち当神社の舌に御着船になり神社境内地の誰曽廼森に御上陸せらる。 昔府中町は全部海であって此の辺一帯を江の湊と呼んでいた。 古事記という書物には「神武天皇阿岐国多祁理の宮に7年坐しましき」とあり。 日本書紀という書物に「神武天皇安芸国に至り坐して埃宮に坐します」とあり故に当多家神社は別名埃宮とも多祁理の宮とも云われる。 当社は大正4年夏の火災に校倉を残し社殿を全焼す。大正11年ぜんざいの社殿を再建した。 当社にある校倉の校子は四角の木で造ったもので日本中にある他の30棟の校倉は三角の木で造った校子である故に当社の校倉は国宝級のもので日本で只一棟あるのみである。 昭和47年7月5日 府中町 府中町観光協会 社頭掲示板 |
多家神社 多家神社の宝蔵(神輿倉)は、広島城三ノ丸にあった稲荷社で、明治7年(1874)、神社の創設に伴い旧藩主の浅野氏より寄進された。校倉造りの建物で、向拝がついているため江戸時代初めの建築と考えられている。 日本に現存する31棟の校倉のうち、30棟は不等辺六角形または五角形の校子を組合わせたものであるが、ここの一棟だけが四角形の校子を用い「信貴山縁起絵巻」に描かれている以外に例を見ないめずらしい建物である。 社頭掲示板 |
「多家神社」と「埃宮」について 当地は古事記、日本書紀ゆかりの地です。神武天皇が日本を平定する旅の途でお立ち寄りになったと伝わります。この神武天皇の皇居が、日本書記では埃宮、 古事記では多祁理宮(たけりのみや)と記述されています。 また、多家神社は平安時代の書物「延喜式」(当時の法典)に速谷神社、厳島神社と共に安芸の国の名神大社として列せられています。 二つについて、詳しく下記のように伝えられています。 この地は、神武天皇が日本を平定するため御東征の折、お立ち寄りになられた所と伝わる。 『古事記(712年完成)』に阿岐国[安芸国](あきのくに)の多祁理宮(たけりのみや)に神倭伊波礼毘古命[神武天皇](かんやまといわれびとのみこと)が七年坐すとあり。『日本書紀(720年完成)』には埃宮(えのみや)に坐すとある。 この多祁理宮あるいは埃宮という神武天皇の皇居が後に当社となった。 平安時代になると、菅原道真が編し始めた「延喜式」(927年完成)に安芸国の名神大社三社の1つとして多家神社の名が記され、伊都岐島神社[厳島神社](いつきしまじんじゃ)、速谷神社とともに全国屈指の大社とあがめられた。 当時の主祭神は安芸国を開いた安芸津彦命ほか六柱の神々であった。 中世になると武士の抗争により社運が衰え、江戸時代には南氏子(松崎八幡宮)と北氏子(総社)に分れ、互いに多家神ないし埃宮を主張して論争対立が絶えなかった。 そこで明治6年(1873)になって、松崎八幡宮と総社を合わせ、「誰曽廼森(たれそのもり)」(現在の社地)に、旧広島藩領内で厳島神社に次いで華美を誇った、広島城三の丸稲荷社の社殿を移築して多家神社を復興した。 明治7年県社となった。その後、多くの村社小社を廃して多家神社に合祀した。 大正4年(1915)9月、社殿を焼失したが、全県的な奉賛を得て大正11年4月、今日の本殿、拝殿などを再建、境内の整備を行った。 なお、境内の宝蔵は三の丸稲荷社より移築した社殿の唯一の遺構であり、今となっては広島城内にあった現存唯一の建物として貴重である。現在、県指定文化財となっている。 神武天皇御腰掛岩 多家神社の近く、松崎八幡跡地には、神武天皇が腰掛けて休んだという岩が「腰掛岩」として残されています。 ※腰掛岩へお越しの際は、現地に駐車場がございませんので多家神社へお寄りの上お越しください。 公式HP |
多家神社 この地は、神武天皇が日本を平定するため御東征の折、お立ち寄りになられた所と伝わる。「古事記〔712年完成〕」に阿岐国(安芸国)の多祀理宮に神倭伊波礼毘古尊〔神武天皇〕が七年坐すとある。「日本書紀(720年完成)」には埃宮に坐すとある。この多祁理宮あるいは埃宮という神武天皇の皇居が後に当社となった。平安時代になると、菅原道真が編し始めた「延喜式」(927年完成)に安芸国の名神大社三社の一つとして多家神社の名が記され、伊都岐島神社〔厳島神社〕、速谷神社とともに全国屈指の大社とあがめられた。 当時の主祭神は安芸国を開いた安芸津彦命ほか六柱の神々であった。中世になると武士の抗争により社運が衰え、江戸時代には南氏子〔松崎八幡宮〕と北氏子(総社)に分れ、互いに多家神ないし埃宮を主張して論争対立が絶えなかった、そこで明治6年(1873)になって、松崎八幡宮と総社を合わせ、「誰曽廻森」(現在の社地)に、旧広島藩領内で厳島神社に次いで華美を誇った、広島城三の丸稲荷社の社殿を移築して多家神社を復興した。明治7年県社となった。その後、多くの村内小社を廃して多家神社に合祀した。大正4年〔1915〕9月、社殿を焼失したが、全県的な奉賛を得て大正11年4月、今日の本殿、拝殿などを再建、境内の整備を行った。なお、境内の宝蔵は三の丸稲荷社より移築した社殿の唯一の遺構であり、今となっては広島城内にあった現存唯一の建物として貴重である。現在、県指定文化財となっている。 たれその森について「誰曽廻森」と記されている。神武天皇が、当地の者に「曽は誰そ」とお尋ねになったことからこの名がついたといわれている。 社頭掲示板 |