当社を都祁山口神社とするのは江戸時代からで、当時水口明神と称した。天理中学校の東の山麓に鎮座する。 現拝殿の東に磐座風の配石があり、注連を巻いた霊石が立っている。 神宮寺が拝殿の南崖下にあり、明治40年廃寺となり、密柑畑として残っている。 |
都祁山口神社 集落の東方山麓に鎮座の旧指定村社。 『大和志』には都祁山口神社として『延喜式』神名帳登載の大社に列し、月次、新嘗の官幣に預かり、貞観元年(859)正月正五位下に叙とある。因みに山辺郡都祁村小山戸にも同名の社があり、式内大社として二説ある。 江戸期には白山権現と称し、若宮を牛頭天皇と呼んだ。現境内に素戔嗚神社があるところから、当社は旧名を白山権現と称したとも見られる。当社安政二年(1855)の宮座文書の『白山大権現立願状』に神宮寺の記事がある。『大和志』には水口明神と称すとあり、明治十年の調書にも同じ記事がみえる外、「但神殿無之」とある。都祁山口神社へは天平二年(730)神戸租稲百四十六束を祭紳料に充てられ(正倉院文書)、大同元年(806)紳封一戸を充てられている。 奈良県史 |
山口(坐)神社 やまぐち(にます)じんじゃ 『延喜式神名帳』に大和国には夜支布・伊古麻・巨勢・鴨・当麻・大坂・吉野・石村・耳成・都祁の山口神社と長谷・忍坂・飛鳥・畝火の山口坐神社が見え、いずれも大社で祈年・月次・新嘗の官幣に預かり、また山城国には賀茂山口神社がみえる。四社のみ坐神社となっているのを、乾健治は地名を示すためか皇居に近いことを意味しているかであろうという。『延喜式四時祭』には、甘樫・飛鳥・石村・忍坂・長谷・吉野・巨勢・賀茂・当麻・大坂・膽駒・都祁・養生などの山口には各馬一匹を加えよとあり『延喜式神名帳』にない甘樫の名がみえる。『延書式祝詞』の祈年祭・月次祭に「山口に坐す皇神等の前に白さく、飛鳥・石村・忍坂・長谷・畝火・耳無と御名をば白して……皇御孫の命の瑞の御舎を仕え奉りて……四方の国を安国と平らけく知ろし食すが故に、皇御孫の命のうづの幣帛を称へ辞竟へ奉らくと宣ふ」とあり、広瀬大忌祭に「倭国の六御県の山口に坐す皇神等の前にも、皇御孫の命のうづの幣帛を……奉る。かく奉らば、皇神等の敷き坐す山々の口より、さくなだりに下し賜う水を……」とある。『延喜式臨時祭』の祈雨神祭に巨勢・賀茂・当麻・大坂・膽駒・石村・耳成。養生・都祁・長谷・忍坂・飛鳥・献火・古野の山口神社が預かっている。これらのことより、宮殿造営のため御料林伐採の際、山口に坐す神を祀ったこと、山口の水を司る神として、また祈雨神として奉祀されたことがわかる。神階は『三代実録』貞観元年(859)に『神名帳』にみえる14社の山口神社中、夜支布山口神に正五位上、その他13社の山口神に正五位下の昇叙がみえる。 ▼都祁山口神社 延喜式内の論社に次の二社がある。 @奈良県山辺郡都祁村大字小山戸。旧村社。 大山祇命、大国主命を祀る。六角灯籠に貞享三丑年五月都祁山口大明神とあり、『大和志料』に「小山戸ノ社ハ即チ都祁山口社ニシテ水分社ニアラザルコト」とある。 俗ニ小山戸明神と称する。例衆10月25日。 A天理市杣之内町。旧村社。大山祇命・久久廼知命・波爾屋須命を祀る。『大和志』に「山口村ニ在リ。今水口明神卜称ス」とある。例祭10月14日。 神社辞典 |
都祁山口神社 大月次新嘗 都祁は前に同じ、山口は夜麻久知と訓べし、○祭神山神大山祇命○山口村に在す、今水口明神と称す、(大和志、同名所図会)、○式一(四時祭上)祈年祭條に、都祁山口加馬一匹、」同三(臨時祭)祈雨祭神八十五座(並大)云々、都祁山口社一座、○当國十三処山口の一座也、事は飛鳥山口社の下に詳也、 類社 神位 三代実録、貞観元年正月27日甲申、奉授大和國從五位下都祁山口神正五位下、 官幣 三代実録、貞観元年9月8日庚申.大和国都祁山口神、遣使奉幣、為風雨祈焉、 神社覈録 |