都祁山口神社(都祁村小山戸)
つげやまぐちじんじゃ         , 所在地ボタン 社名ボタン















   【延喜式神名帳】都祁山口神社(大 月次/新嘗)大和国 山辺郡鎮座
   【延喜式神名帳】都祁水分神社(大 月次/新嘗)大和国 山辺郡鎮座

   【現社名】都祁山口神社
   【住所】奈良県奈良市都祁小山戸640
       北緯34度34分48秒,東経135度56分45秒
   【祭神】大山祇神 (合祀)大国主命
   【例祭】10月25日 例祭
   【社格】大和国十四処の山口社の一 旧村社
   【由緒】天平2年(730)都祁神戸『大和国大税帳』
       大同元年(806)「都祁山口神一戸大和」『新抄格勅符抄』
       仁寿2年(852)官社『文徳実録』
       貞観元年(859)正五位下『三代実録』
       同年九月に風雨を祈つて奉幣『三代実録』
       元慶3年(880)水分神が白龍となつて背後の字御社尾の巨石に降臨した
       寛平3年(891)高山の麓カモエ谷に遷
       都祁氏の衰微と共に社運も衰へた
       わづかに水分社の祭礼の仮宮としてその傳統を保持した
       承応2年(1653)仮宮造立
       寛文元年(1661)一ノ社造立
       寛文12年(1672)仮宮小神三社葺替
       延宝6年(1678)一ノ社葺替
       貞享4年(1687)拝殿造替
       明治12年(1879)現在の社殿を造営

   【関係氏族】都祁の神を祭つたのは都祁国造氏
   【鎮座地】神社の背後の山上字御社尾に巨石があり旧地か
        寛平3年8月社殿を高山の麓である現在地に遷

   【祭祀対象】氏祖
   【祭祀】江戸時代は「小山戸明神」と称していた
   【社殿】本殿春日造桧皮葺
       拝殿・山門・神饌所

   【境内社】末社四社合殿
   【神宮寺】大字の南方字カンジョにあつて西ノ坊と称したが
        早く廃絶し石碑だけが現在安樂寺に残つている。


当社が始めて奉祀された年代は詳かでないが、神武天皇の皇子神八井耳命の御孫都祁の直が闘鷄の国造となり、小山戸に居住されて、闘鷄の国の鎮守都祁氏の氏神として神を祀り崇敬されたのが、都祁山口神社の起源だろうと考えられる。
神社の背後の山上字御社尾に巨石がある。
元慶3年に水分神が白龍となつて降臨した所と伝え、その御神体という。
往古水分社と山口社は同じ都祁郷に相接して存在していたと思われる。
中世都祁氏の衰微と共に社運も衰え、わづかに水分社の祭礼の仮宮としてその伝統を保持した。
『特選神名牒』・『大和志料』・『山辺郡誌』は当社を式内社とする。
この地は都祁水分神社の旧地とする。



式内大社都祁山口神社畧記

当者は「式内大社」であって、清和天皇の御宇大和の國に13座の山口神社が奉祀されていたうち7座が大社で、その1座がこの都祁山口神社である。当社が始めて奉祀された年代は詳かでないが、神武天皇の皇子神八井耳命の御孫都祁の直が闘鷄の国造となり、小山戸に居住されて祭政一致の御理想から、闘鷄の国の鎮守都祁氏の氏神として神を祀り崇敬されたのが、都祁山口神社の起源だろうと考える。
その後都祁水分神恵美須神弁財天神八幡神も祀られ、奈良朝時代に及びほぼ神社としての形態も整へられた様で、祭典時など土地の狭隘を感ずる様になったと云い傳えられている。史に拠ると当社は中古に於ては畏くも皇室の厚い御崇敬をお受けされていたのである。即ち聖武天皇の天平2年10月20日「都祁都祁山口神社神戸稲136束租10束1把合146束1把を充て祭祀料として」国から賜わられた官社である。清和天皇の貞観元年正月には正5位下に進階せられている。
又、醍醐天皇の御代の「延喜式」によると神祇官所祭四次大祭の諸祭典には、天皇の御使いの方が御参拝になり規定による御鄭重な奉幣に預かっておられたし、その間毎年の新嘗祭には別に馬1頭を加えられていたのである。
尚、鎮座地については宇多天皇の寛平3年8月社殿を高山の麓である現在地に遷され、村上天皇の元号天徳4年9月23日領主二階堂別当は、小山戸の納米を以て都祁山口神社を造営されたとも傳えられている。尚當社に合祀されていた都祁水分神は円融天皇の天禄2年9月25日鞆田の阪窪山に遷座されたのであった。その後、約900年我が国は社会的にも幾変遷を経て、明治維新を迎えたのでその間神社も何分の影響を受けられたのである。明治4年には村社となり同40年には相河の国津神社と合併して今日に到っている。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




式内大社都祁山口神社

御祭神
大山祇神 大国主命
都祁村大字小山戸字カモエ谷
当社は古代闘鷄の国の鎮守として奉祀され、大和の国の一四所山口神の一つで、都祁村の山霊を記る。天平2年(730)の大倭国正税帳(正倉院文書)に「都祁神戸」、大同元年(806)(新抄格勅符抄)「都祁山口神二戸大和」とあり、当社をさすのである。
同所に祀られていた都祁水分神社は、天禄2年(971)9月25日に友田の阪窪山に移され祀られている。
当社神主職は神八井耳命の子孫都祁直の末裔と伝え、貞観年間より藤原氏を称した。以来父子相継ぎ、小山戸殿とも称せられ、暦応年中(1338−42)伊勢の北畠氏に属して北と改姓、大乗院小山戸庄の下司職をも兼帯したという。
戦国の争乱によって神社は衰退したが、北左京之進が寛永年中(1624−44)に郷民を勧めて社殿を造立した。延喜式にも、国が祭を司る神社として記録されている。
明治41年(1908)に大字相河の丸山に祀られていた国津神社と含併のうえ合祀されている。
又・本殿の裏山にゴシャオ(御社尾)とよばれる巨岩があり、古代より磐座として崇敬され、当社の歴史を示すものである。
都祁村教育委員会

社頭掲示板



都祁山口神社

JR・近鉄天理駅より奈良交通バス室生口大野行で並松下車約2km、小山戸東方に鎮座する。小山戸明神とも称し、大山祇命を祀る。
都祁山口神社は大和国十四所山口神社の一つで、天平2年(730)の『大倭国正税帳』(正倉院文書)に「都祁神戸、稲壱佰参拾陸束、租壱拾束壱把、合壱佰肆拾陸束壱把、用肆把祭神残壱佰肆拾弐束壱把」とある。大同元年(806)の『新抄格勅符抄』に「神封一戸大和国」とあり、仁寿2年(852)官社に列したと『文徳実録』に記されている。
貞観元年(859)正月27日従五位下より正五位下に進叙、同年9月8日には風雨の祈願のため遣使奉幣されたと『三代実録』に出ている。『延喜式』神名帳には式内大社として登載され、延喜制の祈年祭には馬一疋を加えられた。中世以降社運衰退して、当社境内にあった都祁水分神社の仮宮の水分上宮社と同一社のように誤られた向きもあった。裏山に都祁水分神社の項で述べたように御社尾と称する巨岩があるが、宝暦4年(1754)の「郷鑑帳」に「高山共御社尾共、神石御座候、元慶3年(879)ニ水分明神白竜ト化シテ此処ニ降給ト申伝候岩ニ御座候」とある。例祭は10月25日。

奈良県史



山口(坐)神社

やまぐち(にます)じんじゃ 『延喜式神名帳』に大和国には夜支布・伊古麻・巨勢・鴨・当麻・大坂・吉野・石村・耳成・都祁の山口神社と長谷・忍坂・飛鳥・畝火の山口坐神社が見え、いずれも大社で祈年・月次・新嘗の官幣に預かり、また山城国には賀茂山口神社がみえる。四社のみ坐神社となっているのを、乾健治は地名を示すためか皇居に近いことを意味しているかであろうという。『延喜式四時祭』には、甘樫・飛鳥・石村・忍坂・長谷・吉野・巨勢・賀茂・当麻・大坂・膽駒・都祁・養生などの山口には各馬一匹を加えよとあり『延喜式神名帳』にない甘樫の名がみえる。『延書式祝詞』の祈年祭・月次祭に「山口に坐す皇神等の前に白さく、飛鳥・石村・忍坂・長谷・畝火・耳無と御名をば白して……皇御孫の命の瑞の御舎を仕え奉りて……四方の国を安国と平らけく知ろし食すが故に、皇御孫の命のうづの幣帛を称へ辞竟へ奉らくと宣ふ」とあり、広瀬大忌祭に「倭国の六御県の山口に坐す皇神等の前にも、皇御孫の命のうづの幣帛を……奉る。かく奉らば、皇神等の敷き坐す山々の口より、さくなだりに下し賜う水を……」とある。『延喜式臨時祭』の祈雨神祭に巨勢・賀茂・当麻・大坂・膽駒・石村・耳成。養生・都祁・長谷・忍坂・飛鳥・献火・古野の山口神社が預かっている。これらのことより、宮殿造営のため御料林伐採の際、山口に坐す神を祀ったこと、山口の水を司る神として、また祈雨神として奉祀されたことがわかる。神階は『三代実録』貞観元年(859)に『神名帳』にみえる14社の山口神社中、夜支布山口神に正五位上、その他13社の山口神に正五位下の昇叙がみえる。
▼都祁山口神社 延喜式内の論社に次の二社がある。
@奈良県山辺郡都祁村大字小山戸。旧村社。
大山祇命、大国主命を祀る。六角灯籠に貞享三丑年五月都祁山口大明神とあり、『大和志料』に「小山戸ノ社ハ即チ都祁山口社ニシテ水分社ニアラザルコト」とある。
俗ニ小山戸明神と称する。例衆10月25日。
A天理市杣之内町。旧村社。大山祇命・久久廼知命・波爾屋須命を祀る。『大和志』に「山口村ニ在リ。今水口明神卜称ス」とある。例祭10月14日。

神社辞典



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