伝承によれば、当社が本来の夜都伎神社であつた。江戸期社地を竹之内領とし竹之内の三間塚池(現十二神社の地)を乙木領とした。そのために春日神社を夜都伎神社と改名した。夜都伎神社の旧社地には十二神社を遷した。 ただし、当社を夜都伎神社と称した古記録は現在のところ見当らない。 拝殿前に神石があり、参拝の時「ワッハハ」と笑声をあげて三廻りする習俗がある。 当社の北側には地元の人が「火の谷」と呼ぶ地域がある。「夜都岐」は「八剣」が変化したものとされ、各地の八剣神社の創建譚に「日の谷」の地名がよく登場することから関連があるものとみられる。 |
十二神社 三間塚の北方、谷を一つへだてて乙木との境界に近く、奥深い“明神の森”に鎮座する。景勝の山麓地で、もと指定村社である。 伝えるところによれば、延喜式内社の夜都伎神社が当社で、乙木の産土神であったのを後世、竹ノ内が三間塚池と交換したという。ここから西へ、乙木にむかう一筋の参道の跡があり、しかも竹ノ内に通ずる参道が、いまも怪しげな事から、前記のことが裏付けられる。 竹ノ内の産土神が、もと白山神社であったことは、文禄4年(1595)の検地帳に『村中氏神白山神社除地』と記され、また、延宝7年(1679)本田平八郎検地の際も、同様であることからも明らかで、十二神社と三間塚池との交換は、延宝以降のことであろうが、それ以降ながく村に二社があったことから、明治41年(1908)12月1日、白山神社を十二神社の境内社・七柱神社に移し合祀した 天理市史 |