里中の生活色の濃い神社、神仏習合の姿を残す珍しいたたずまいの神社である。 周辺に小字「アカタ」「ミクリ」「三宅」等の地名が存在し、また山辺御井の伝承を持つ井戸がある。 『大和志』・『大和名所図会』・『神社要録』はこの地を山辺御県坐神社としている。 次のような伝承地がある。 <御霊石>弁才天社の後にあり。此石土中の深さを知らず。往古は日出・日入の時動くと伝える。 <神主道>宮の南側の道は、かつて神主以外の通行が禁じられていた。 <御鏡池>如何なる旱魃にも水が絶えぬ霊水と称せられた。 |
御案内 万葉遺跡 飛ぶ鳥の明日香の里を置きて去なは 君か辺りは見えずかもあらむ 和銅3年3月 時の帝元明天皇は都を寧楽(奈良)に返すべく文武百官を従えて藤原の宮を後にし中つ道を北進して長屋原(井戸堂)に御輿を停め遠く今去り来る明日香の地を懐望し詠み給いし天皇の御歌 山の辺の御井(伝説) 山の辺の御井を見かてり神風乃 伊勢乙女とも相見つるらん(万葉集) 和銅5年壬子夏4月天皇長田の王を使して伊勢の斎の宮に参詣為さしめられたる時山の辺の御井にて詠める歌 藤原道長参詣の事 この世をは我世とと思ふ望月の 欠けたる事の無しと思えは 位人臣を極め有ゆる栄華を誇りし藤原道長にも如何とも為し難き三つの願ひが有った。其の願を叶へる為吉野金峯山に経筒を納むべく供人皆塩湯にて身を清め自ら朱塗りの輿に乗り、多くの供人を従へて寛弘4年3月2日丑の刻京を発ち男山八幡、奈良大安寺等に参籠祈願し第三日目の3月4日当村観音堂に参籠終日誦経祈願し翌朝多く供物して八木軽寺に向かって出発す(御堂関白日記による) 社頭掲示板 |
山辺御県坐神社 鎮座地 天理市井戸堂町大門 祭神 建麻利尼命 由緒 式内の古社で、寛弘4年(1007)関白藤原道長が吉野金峯山詣での途中ここで宿泊したなど、かっては社勢も盛んであった。 境内の観音堂には十一面観音立像が(重要文化財)祀られている。 境内社に春日神社・厳島神社が祀られている。 主要祭典 祈年祭 2月 日 例祭 10月15日 生産感謝祭 11月 日 社頭掲示板 |
御県(坐)神社 みあがた(にます)じんじゃ 『延喜式祝詞』の祈年祭・月次祭に「御県に坐す皇神等の前に白さく、高市・葛木・十市・志貴・山辺・曽布と御名をば白して、此の六つの御県に生ひ出つる廿菜・辛菜を持ち参り来て、皇御孫の命の長御膳の遠御膳と聞こし食すが故に、皇御孫の命のうづの幣帛を称へ辞竟へ奉らくと宣ふ」とあり、『延喜式神名帳』に葛木御県神社と十市・志貴・山辺・添の御県坐神社ほ大社に、高市御県神社は名神大社に列し、祈年・月次・新嘗の官幣に預かり、祝詞の六御県の中にない久米御県神社もみえる。これは後に追加されたもので、金剛寺本延喜式の頭注に「貞」とあるので、貞観式に登載されたと考えられる。神階は『三代実録』貞観元年(859)に、六御県神に従五位上の昇叙がみえる。 ▼山辺御県神社 『延喜式神名帳』には、坐の字があるが、今はつけていない。『新抄格勅符抄』に「山辺御県神二戸」とある。 現在次の二つの論社がある。 @奈良県天埋市別所町字県谷。旧村社。建味利尼命を祀る。明治初年まで玉垣を設けた禁足地であったが、明治19年(1886)発掘したところ刀剣・金環を出土したため、本殿を造営した。例祭10月15日。 A奈良県天埋市西井戸堂町字大門。旧村社。建麻利尼命を祀る。『神祇志』に「山辺御県坐神社、今、西井戸堂村ニ在リ」とある。例祭10月5日。 神社辞典 |
山辺御縣坐神社 大月次新嘗 山邊は郡名に同じ、御縣は美阿加多と訓べし、○祭神詳ならず○西井戸堂村に在す、(大和志、同名所図会)、○当國六御縣の一座也、事は高市御縣社の下に詳也、 類社 当国高市郡高布御縣神社の下見合すべし 神位 三代実録、貞観元年正月27日甲申、奉授大和國從五位下山邊御縣神從五位上、 神社覈録 |