山辺御県坐神社
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   【延喜式神名帳】山辺御県坐神社(大 月次/新嘗)大和国 山辺郡鎮座

   【現社名】山辺御県坐神社
   【住所】奈良県天理市別所町726
       北緯34度36分33秒,東経135度50分22秒
   【祭神】建麻利尼命
       『寺社明細帳』『信友・延経の神名帳考証』建麻利尼命
       『大和志料山辺郡誌』山辺御県神
       『特選神名牒』豊宇気比売
       『神社覈録』不詳

       建麻利尼命・豊宇気比売は明治以後に措定した神名で山辺御県神又祭神不詳はとする方が穏当であろう

   【例祭】10月1日 例祭
   【社格】旧村社 大和の六御県の一
   【由緒】大和の六御県に坐す神の一
       六御県の記事は大化元年(645)紀が初見
       天平2年(730)山辺御県神戸『大倭国正税帳』
       大同元年(806)神封二戸『新抄格勅符抄』
       貞観元年(859)従五位上『三代実録』

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】御県
   【祭祀】江戸時代は「玉垣宮」と称していた
   【社殿】本殿春日造桧皮葺
       拝殿・社務所

   【境内社】熊野神社・春日神社・菅原神社

別所集落の東方、山の辺小学校の西、尾崎山の南麓に位置する。
明治初年迄は本殿はなく、玉垣を設けて後方の尾崎山を御神体として奉齋し、俗に玉垣宮と称したと云う。
明治13年頃、玉垣内を発掘した際に刀劔、金環等の残欠が出土した爲、発掘を中止してその上に本殿を造営したという。現在本殿の後方玉垣の外に磐座の遺址が保存され、齋宮と称している。
明治以前に当社を山辺御県坐神社と称した記録はなく、字名を県谷と称する事を論処としての推定である。
北方100mには大塚を中心とした所謂北山千塚と呼ぶ大小古墳群があり、当社はこの古墳群中に存在する。


御県(坐)神社

みあがた(にます)じんじゃ 『延喜式祝詞』の祈年祭・月次祭に「御県に坐す皇神等の前に白さく、高市・葛木・十市・志貴・山辺・曽布と御名をば白して、此の六つの御県に生ひ出つる廿菜・辛菜を持ち参り来て、皇御孫の命の長御膳の遠御膳と聞こし食すが故に、皇御孫の命のうづの幣帛を称へ辞竟へ奉らくと宣ふ」とあり、『延喜式神名帳』に葛木御県神社と十市・志貴・山辺・添の御県坐神社ほ大社に、高市御県神社は名神大社に列し、祈年・月次・新嘗の官幣に預かり、祝詞の六御県の中にない久米御県神社もみえる。これは後に追加されたもので、金剛寺本延喜式の頭注に「貞」とあるので、貞観式に登載されたと考えられる。神階は『三代実録』貞観元年(859)に、六御県神に従五位上の昇叙がみえる。
▼山辺御県神社 『延喜式神名帳』には、坐の字があるが、今はつけていない。『新抄格勅符抄』に「山辺御県神二戸」とある。
現在次の二つの論社がある。
@奈良県天埋市別所町字県谷。旧村社。建味利尼命を祀る。明治初年まで玉垣を設けた禁足地であったが、明治19年(1886)発掘したところ刀剣・金環を出土したため、本殿を造営した。例祭10月15日。
A奈良県天埋市西井戸堂町字大門。旧村社。建麻利尼命を祀る。『神祇志』に「山辺御県坐神社、今、西井戸堂村ニ在リ」とある。例祭10月5日。

神社辞典



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