別所集落の東方、山の辺小学校の西、尾崎山の南麓に位置する。 明治初年迄は本殿はなく、玉垣を設けて後方の尾崎山を御神体として奉齋し、俗に玉垣宮と称したと云う。 明治13年頃、玉垣内を発掘した際に刀劔、金環等の残欠が出土した爲、発掘を中止してその上に本殿を造営したという。現在本殿の後方玉垣の外に磐座の遺址が保存され、齋宮と称している。 明治以前に当社を山辺御県坐神社と称した記録はなく、字名を県谷と称する事を論処としての推定である。 北方100mには大塚を中心とした所謂北山千塚と呼ぶ大小古墳群があり、当社はこの古墳群中に存在する。 |
御県(坐)神社 みあがた(にます)じんじゃ 『延喜式祝詞』の祈年祭・月次祭に「御県に坐す皇神等の前に白さく、高市・葛木・十市・志貴・山辺・曽布と御名をば白して、此の六つの御県に生ひ出つる廿菜・辛菜を持ち参り来て、皇御孫の命の長御膳の遠御膳と聞こし食すが故に、皇御孫の命のうづの幣帛を称へ辞竟へ奉らくと宣ふ」とあり、『延喜式神名帳』に葛木御県神社と十市・志貴・山辺・添の御県坐神社ほ大社に、高市御県神社は名神大社に列し、祈年・月次・新嘗の官幣に預かり、祝詞の六御県の中にない久米御県神社もみえる。これは後に追加されたもので、金剛寺本延喜式の頭注に「貞」とあるので、貞観式に登載されたと考えられる。神階は『三代実録』貞観元年(859)に、六御県神に従五位上の昇叙がみえる。 ▼山辺御県神社 『延喜式神名帳』には、坐の字があるが、今はつけていない。『新抄格勅符抄』に「山辺御県神二戸」とある。 現在次の二つの論社がある。 @奈良県天埋市別所町字県谷。旧村社。建味利尼命を祀る。明治初年まで玉垣を設けた禁足地であったが、明治19年(1886)発掘したところ刀剣・金環を出土したため、本殿を造営した。例祭10月15日。 A奈良県天埋市西井戸堂町字大門。旧村社。建麻利尼命を祀る。『神祇志』に「山辺御県坐神社、今、西井戸堂村ニ在リ」とある。例祭10月5日。 神社辞典 |