日本大国魂大神(やまとおおくにたまのおおかみ)は大地主大神(おおとこぬしのおおかみ)で、宮中内に天照大神と同殿共床で奉斎されたが、第十代崇神天皇六年に天皇が神威をおそれ、天照大神を皇女豊鋤入姫命をして倭の笠縫邑に移されたとき、皇女淳名城入姫命(ぬなきいりひめ)に勅して、市磯邑(大和郷)に移されたのが当神社の創建であると伝えられている。 田圃の中に突出したゆるい丘(標高68m)が欝蒼たる森を形成した中に鎮座。 社地はやや高い場所にある。社叢は極めて大きく長い。東側の一の鳥居から参道が200m位続いている。巾は30m程度である。社殿のある杜は大きく広がっている。かっては八町四方と巨大な神域であった。 当初、日本大国魂大神は現在の神社のある場所の東方の山麓に祀られていたらしいが、後に現在の地に移されたとされている。移された時期については平安時代から江戸時代元禄まで諸説があり、よくわからないという。 旧地についても多くの説があり土着性は薄い。 本社がある時期に現在地に移座したと云う説が強いのは、大神・石上社などに比して低地にある爲である。 四月一日の神輿渡御祭は、俗に「ちやんちやん祭」と称し、大和の祭り始めとして祭おさめの春日社若宮祭に対して有名である。 鎮祭当初は大倭直の祖長尾市が祭主であったが、近世以後市磯氏が世襲神官として明治に及んだ。 神宮寺として神護寺(南之坊又は勧源坊と称した)・北之坊があった |
大和神社御由緒略誌 当神社の主神は、日本の全国土の地主神に坐します。 上古伊勢神宮に坐す天照大神と共に宮中にて親祭され給ひしが、第十代崇神天皇は御神威を畏み給ひ同6年(二千数十年前)当神社の主神を市磯邑に遷御遊ばされ、皇女渟名城入姫を斎主として祀らしめ給う。 延喜式に大社大和坐大国魂神社3座とある。 斯様に尊い御由緒は類まれなところで御神威は伊勢神宮に次ぎ、御神封も亦大和を始め尾張、武蔵、常陸、安芸の6カ国に於いて327戸に及び境内も64ヘクタールの広大なりし由にて久しい間御社頭も隆盛を極めたと、古記録に見ゆる。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
大和神社 大和明神 日本最古の神社 大和神社 祭神 大和大国魂神(中央) 八千戈大神(右側) 御歳大神(左側) まほろばなる大和平野に長い森を列ねて鎮座する神々の主神は、崇神天皇6年まで皇居内に祀られていた日本の大地主の神である。この神が大和明神として交易、農業、工業、商業等、産業の啓発と繁栄を司り、式内明神大社として祭られたのである。 四海平穏に、国内諸業を繁栄させ、国民をお守りくださる御神徳は、伊勢神宮と並ぶものである。 往時、わが国に文化をもたらした遣唐使に御守護を賜り、交易、学問を勧める神様としても崇められ、人々の参拝も繁かった。万葉集には「好去好来之詩」として数多くうたわれている。以後、政治、経済の発展にも御神徳がいよいよ広まってくる。 戦艦大和に当神社の分霊が祀られていたことも周知のことである。 天理市新泉町星山鎮座 旧官幣大社 社頭掲示板 |
旧社地 垂仁紀に穴磯邑・大市長岡岬とあり、この地の推定地として @穴師明神の地 A現長岳寺のある上長岡の地 B城上郡大市郷の地。現狭井神社西方突出部 C檜原神社西方突出部 D巻向山尾崎 大市長岡岬に祭られた後、八世紀に大和国造の地盤であつた山辺・城下の水田を見渡せる大和の神山に遷座し、永久6年の火災後同じ域内の現在地に新社殿を造立した。 また、 永久六年焼亡の時、一時旧鎭座地の高槻山に移座したと伝。 天正の兵火により神領の反別書類等すベて焼失し、小さな焦石(こげいし)を御霊代(みたましろ)として中山村の歯定(はじょう)神社の地に遷座した。 との伝承もある。 式内社研究の志賀剛氏は上代長岡岬、古代長岳寺の上、中世高槻山、近世初歯定神社、元禄頃現社地と遷座したものと想定している。 |
大和神社御由緒略誌 一、鎮座地 奈良県天理市新泉町306番地 一、御祭神 大和(日本)大国魂大神(中央) 八千戈大神(向右) 御年大神(向左) 一、例祭 4月1日 一、御由緒 当神社三座の神々は上古大和朝廷の守護神として伊勢神宮に坐す天照皇大神と共に宮中(磯城水垣宮)に祀られ給いしが、人皇第10代崇神天皇は御神威を畏み給い、同6年(今より二千数十年前)天照皇大神を笠縫邑に、当神社の神々を市磯邑(大和郷)に遷御遊ばされ、皇女、淳名城入姫命を斎王として親しく杞らしめ給う。延喜式に大社大和坐大国魂神社三座とある。斯様に尊い御由緒は他にその例を見ないところで、御神威は伊勢神宮に次ぎ御神封も亦大和を始め尾張、武蔵、常陸、出雲、安芸の六ケ国に於いて三百二十七戸に及び境内も64四ヘクタールの拡大なものにて久しい間御社頭は隆盛を極めた由古記録に見える。 一、御社殿本殿 右・中央・左 三殿 明治五年御造営、拝殿、祝詞舎、瑞垣 一、摂社 朝日神社、朝日豊明姫神(天照皇大神)を祀る 仝 増御子神社、猿田彦神、天鈿女神を祀る(知恵の神) 一、末社 高おかみ神社 高おかみ神を祀る。例祭6月1日 仝 事代主神社 事代主神を祀る。例祭4月1日 仝 厳島神社 市杵島姫命を祀る。例祭4月1日 仝 祖霊社 大国主神氏子崇敬者祖霊、並戦艦大和戦残英霊を祀る。 例祭 3月春分の日 9月秋分の日 一、境外末社 御旅所坐神社 所在地 中山町大塚山 大和国魂神、八千戈神、御年神を祀る。 例祭4月1日 秋祭10月18日 歯定神社 所在地 右同 大己貴神、少名彦名神を祀る。 例祭1月15日 例祭4月1日 淳名城入姫神社 所在地、岸田町 淳名城入姫命を祀る。 例祭4月1日 例祭9月23日 一、境内地 36,367平方m 境外地4424平方m 年中主要並特殊祭典 (略) 大和大国魂大神は地上地下万物の生成化育発展を司り給う神に坐し、大和一国の国魂に坐しますのみならず、実に大倭即ち日本全土の総国魂として偉大尊貴なる御神格に坐しまし、八千戈神は正邪顕正を司り給い、病災消除を御加護繁栄に導き給い、御年神は五穀豊穣殖産工業諸願成就を司り給う神々にして、日本民族繁栄の守護神に坐ますので古来土木建築開業に際し、清めの砂を頂きこれを撒布して子孫繁栄、安泰を期したのである。 一、遣唐使の崇敬 奈良朝時代遣唐使の出発の際には諸神特に大和大国魂神に交通安全を祈り途中無事に大任を果して帰国すると云う歌が万葉集に「好去好来」と云う題で詠まれている。 二、源頼朝の崇敬 源頼朝は当社に国家鎮護を祈念し、その報賽に文治3年2月太刀一振を奉納されたことが庁中漫録に記されている。 三、渡御祭(ちやんちゃん祭) 毎年3月23日各町内当家に産土神を祀り当人は白衣白足袋を着し四、五才男子(稚子)を同伴大和神社に参拝宮入祈祷を受けて帰宅、これより二人にて一週間参拝、31日午後2時頃より各町稚児を先頭に当人は大幣を持ち、町名幟旗を持ち、町内供奉員鳥帽子浄衣白袴の服装にて15名乃至20名行列をつくり当社に参拝、新に大幣を受けて各々当家迄帰る。これを宵宮渡りと云う。 4月1日午后2時より九ケ町の当家(当人)稚児を先頭に夫々町内人(15名乃至20名)供奉し、行列順に各執物を捧持し(約200m)行列を整へ鐘鼓の(ちやんちゃん)と云う合図に依り発進、成願寺、岸田町を経て、中山郷大塚山御旅所迄1.5Kmを往復渡御する。 渡御祭の起源について詳でないが元御輿御休所の台石に応永14年3月20日とあるのでこれより以前であるか。行列中に千代の山鉾があるが元勅使が渡御祭に参向せられ、四人にて舁いだが戦乱の世となりて中止せられて後鉾を祀り四人で舁いだがこれ又焼かれて後一人舁ぐ現形に成ると伝承される。 大和神社渡御祭行列表 (略) 四、戦艦大和 大東亜戦事中、我が日本の国力を傾注して建造された戦艦大和には当時の軍部並関係者の協議に依り極秘裡に当神社の御分霊を艦内に奉斎せられた。同艦は間もなく南洋海域に出撃し輝かしい戦果をおさめ無事帰還せられるに当り、艦長以下幕僚等奉謝の特別参拝をなす。併し同艦は終戦の昭和20年4月沖縄本島救援の為侍攻艦隊を編成し、出繋されたが空中を守る飛行機は皆無にて九州西南洋上に於いて米国軍機の集中攻撃を受け、激戦2時間余終に戦没されたが、その際艦と運命を共にせられた故海軍大将伊東整一命以下2717柱の英霊は其後末社祖霊社に合祀せられ、更に昭和47年9月24日戦闘巡洋艦矢矧外駆遂艦8隻の戦没將士英霊をも合祀して、3721柱は国家鎭護の神として祀られている。 五、戦艦大和記念塔 昭和44年7月8日広島県呉市元呉軍港宮原の高台に「噫戦艦大和之塔」建設に際し、同委員会理事長(戦艦大和進水式当時責任者、元海軍中将)庭田尚三氏は当神社崇敬の念篤く御分霊拝戴の懇請に依り、同日御分霊を同塔内に奉鎮す。 一、氏子区域内より出生し、当神社祭神の御加護の下に大成せられた人々 天理教教祖中山ミキ女……三昧田町にて出生 篤農家中村直三翁……永原町にて出生 大和神社社務所 奈良県天理市新泉町306 由緒書 |
大和神社 おおやまとじんじや 奈良県天理市新泉町。旧官幣大社(現、別表神社)。朝和宮とも称し本殿三宇は境内の西方にあり、中央に大和大国魂神、向って右に八千戈神、左に御年神を祀る。当社の創祀は、『日本書紀』によれば宮中に奉斎されていた天照大神・大和大国魂神を第10代崇神天皇の御代、同殿共床の神威を畏み天照大神を皇女豊鍬入姫命に勅して倭の笠縫の邑に、大和大国魂神を豊女淳名城入姫命に勅して大市の、長岡岬に奉遷したのに始まる。その後神教により大倭直の祖、市磯長尾市をして神主に定めたという。第41代持統天皇の朱鳥6年(692)藤原遷都にあたり伊勢・住古・紀伊の大神とともに奉幣に預った。 『文徳実録』嘉祥3年(850)に従二位、『三代実録』貞観元年(859)に従一位の神階昇叙がみえ、社伝によると寛平9年(897)に正一位が授位されたという。延喜の制では「大和坐大国魂神社」とあり三座ともに名神大社に列し、祈年・月次・相嘗・新嘗の案上官幣及び祈雨の幣帛に預かる。平安中期二二社に列し、国家の重大事があるごとに奉幣祈願の殊遇をうけた。『新抄格勅符抄』に神封三二七戸が寄せられたことがみえる。例祭は4月1日で、俗に「ちゃんちゃん祭」と呼ばれて有名で宮座の人々が供奉する神事がある。1月4日の御弓始祭は的を射る神事で、明治維新前は平国広矛神事と称した。他に特殊神事として節分の日の夜半の粥占祭、3月10日=御田植祭、5月1日=神楽祭、二百十日=風鎮祭がある。摂社の増御子神社は、猿田彦命・天鈿女命を祀る。4月1日の神幸祭には、二の鳥居の南側にある増御子神社の神輿も渡御する。社伝によれば、成願寺村横馬場より奉遷されたという。明治10年(1877)摂社となる。同じく摂社の朝日神社は、朝日豊明姫神を祀る。『三代実録』に貞観11年(869)に従五位下の授位がみえ、明治8年(875)佐保庄から当社撹内に奉遷され摂社となる 神社辞典 |
大和坐大國魂神社三座 並名神大月次相嘗新嘗 大和は於保夜末止と訓べし、和名鈔、(郷名部)城上郡大和、(假字上の如し)大國魂は於保久爾多麻と訓べし、○祭神大國魂神、大歳神、須沼比神、○新泉村に在す、大和大明神と称す、(大和志、同名所図会)、例祭四月朔日、〇式二、(四時祭下)相嘗祭神七十一座、大和社三座、』同三(臨時祭)名神祭二百八十五座、大和國火和神社三座、』同祈雨祭神八十五座(並大)云々、大和社一座、○江家次第、(祈年穀奉幣)大和、(五位)廿二社注式云、(中七社)大和、(使五位一人、幣一前)○古事記(神代段)大年神娶神活須毘神之女、伊怒比売、生子大國御魂神、』旧事紀、(地神本紀)大年神、娶須沼比神女、伊怒姫、為妻、生児大國御魂神、大和神也、〇姓氏録、(大和國神別)大和宿禰、出自神知津彦命也、神日本磐余彦天皇、從日向國向大倭國、到速吸門時、有漁人神垂艇而至、天皇問曰汝誰也、対曰臣是國神、名宇豆彦、聞天神子來、故以奉迎、即牽納皇船、以為海導、仍号神知津彦、(一名推根津彦)宜軍機之策、天皇嘉之、任大倭國造、大倭宿禰始祖也、 類社 山城國久世郡水主神社の下見合すべし 鎮座 祭祀 日本紀、崇神天皇6年、先是天照大神、和大國魂二神、並祭於天皇大殿之内、然畏其神勢共住不安、以日本大國魂神、託淳名城入姫命、使祭、然淳名城入姫髪落体疲而不能祭、』同7年8月癸卯朔己酉、倭述々神浅茅原目妙姫、穗積臣遠祖大水口宿禰、伊勢麻績君、三人共同夢而奏言、昨夜夢之有一貴人、誨曰、以市磯長尾市為祭倭大国魂神之主、云々、」同年11月丁抑、命伊伽香色雄、而似物部八十手所作祭神之物、以長尾市為祭倭大國魂神之主、然後卜祭他神、吉焉、」同紀垂仁天皇巻、一云、天皇以倭姫命為御杖、貢奉於天照大神、是時倭大神、著穂積臣遠祖大水口宿彌、而誨之曰、太初之時期曰、天照大神、悉治天原、皇御孫尊、専治葦原中国乏八十魂神、我親治大地官者、言已訖焉、時天皇聞是言、則仰中臣連祖探湯主而卜之、誰人以令祭大倭大神、即淳名城稚姫命食ト焉、同以命淳名城稚姫命、定神地於穴磯邑、祠於大市長岡岬、然是淳名城稚姫命、既身躰悉痩弱以不能祭、是以、命大倭直祖長尾市宿禰令祭矣、 神位 文徳実録、嘉祥3年10月辛亥、進大和國大和大國魂神階授從二位、』三代実録、貞観元年正月27日甲申、奉授從二位勲三等大和大國魂神從一位、 官幣 神宝 日本紀、持統天皇6年5月庚寅、遣使者奉幣于大倭大神、同年12月甲申、遣大夫等奉新羅調於大倭、』三代実録、貞観元年9月8日庚申、大和国大和神、遣使奉幣、爲風雨祈焉、」同12年7月22日壬申、是日遣朝使築河内國堤、恐成功未畢重有水害、由是奉幣大和國大和神、祈無雨労、以河内水源出自大和國也、 神戸 東大寺所蔵天平2年10月20日大税帳に、大倭神戸稻九百七拾九束、租玖袷貮束、合壹千七拾壹束、用壹百七束(祭料四束、神搬酒料百束、)残玖百参拾漆束、 社職 氏人 日本紀、崇神天皇7年11月丁卯、以長尾市、為祭倭大國魂神之主、」続日本紀、天平9年11月壬辰、宴群臣於中宮、散位正六位上大倭忌寸小東人、大外記從六位下大倭忌寸水守二人、賜姓宿禰、自余族人連姓、爲有神宜也、」同19年4月丁卯、大倭神主正六位上大倭宿禰水守、授從五位下、 雑事 続日本紀、天平宝字2年2月己巳、勅曰、得大和國守從四位下大伴宿禰稻公等奏称、部下城下郡大和神山生、奇藤、其根虫彫成文十六字、王大則并天下人此内任大平臣守臭命、即下伝士議之、咸云、臣守天下、王大則并、内任此人、臭命大平、此知、群臣尽忠、共守天下、王大覆載、無不兼併、聖上挙賢、内任此人、臭天報徳、命其太半者也、加以、地即大和神山、藤此当今宰輔、事已有効、更亦何疑、恭愛天観、還恐不徳、呼哉卿士、戒之愼之、敬順神教、各修爾職、勤存撫育、共致良治、云々、 神社覈録 |