天香山西麓、奈良国立文化財研究所の北に隣接して鎮座する。 この地を泣沢の森と称し、古事記上巻に、伊邪那美神が神避られたことを伊邪那岐神が悲まれた時のこととして「坐香山之畝尾木本、名泣澤女神」とあり。 万葉集にも記載あって万葉人達にとつて、この神社が感慨の場であつたことが知られる。 創建年代等については不詳であるが、万葉集より持統10年(696年)には存在していたことが知られる。泣沢森の神霊を祭つたものであろう。 式内社の研究の志賀剛氏は、上代には、この辺はじめじめしており、水荵[なぎ]が生えていたので、ナギ沢と言ったとの推測である。泣女は喪主に代わって泣き悲しむ女で、朝鮮半島などには現在もその風習が残っている。 本殿はなく玉垣で囲まれた中の空井戸を御神体とする。 板塀瓦葺(元は土塀であった)の神垣の中に、人頭大の自然石で積まれた内径136cmの古井泉が御神体になっている。かつて依代であったと思える玉だすきの切株がその手前に残され、太古の祭祀形態を偲ばせている。 境内入口の正面には、八幡宮があり、そちらが本社のような位置関係である。 |
由緒 此の神社は古く古事記上巻約千二百五十年前香山の畝尾の木本に坐す名は泣澤女神日本書記畝丘樹下所居神延喜式神名帳畝尾都多本神社鍬靫万葉集巻二或書の反歌(類聚歌林檜隈女王の歌であり) 石長比売神は寿命を司り泣澤売神は命乞の神なり(平田篤胤玉襷) 春雨秋雨等語源的に澤女は雨に通ず水神なり(本居宣長古事記伝) 境内石碑 |
万葉集 巻二 挽歌 高市皇子城上殯宮之時柿本朝臣人麻呂作歌一首并短歌(略) 或書反歌一首 哭澤之 神社尓三輪須恵 雖祷祈 我王者 高日所知奴 右一首類集聚歌林曰 桧隈女王泣沢神社之歌也。案日本紀曰 十年丙申秋七月卒丑朔庚戌後皇子尊薨 万葉集(巻二)二〇二番には、 哭沢の神杜(もり)に三輪すえ 祈れども 我が王は 高日知らしぬ この歌は高市皇子の薨去を悼んだ柿本人麻呂の長歌の反歌として或書に載せられてゐたものであり、注には檜隈女王の歌とされている。 持統10年(696年)の事である。 |
畝尾都多本神社 奈良国立文化財研究所(飛鳥藤原宮跡発掘調査部)の北に鎮座。創建年代は明らかでないが、古いことは『万葉集』巻第2の202に「哭沢の神社に御酒すえいのれどもわご王は高日知らぬ」とあり、その左注に、「右一首、類聚歌林に曰く、桧隈女王の泣沢神社を怨むる歌といえり。日本紀を案ふるに云はく、10年丙申(696)の秋7月辛丑の朔の庚戌、後皇子尊薨りましぬといえり」と記されている。持統天皇の10年(696)7月10日薨じられた高市皇子の延命をここの神に祈ったのに、聞き入れてくれなかったとの歌意であるが、白鳳の頃概に此の神社が存在していたことを示すものである。『延喜式』神名帳巻九十市郡19座の小社畝尾都多本神社として登載されている。祭神の 啼沢女神 とは『古事記』上巻国生みの神話に、伊弉那美命が火の神迦具土神を生まれたため神去りましたが、伊弉那岐命が「愛しき我が那邇妹の命を子の一つ木に易へつるも」と言いたまひて、乃ち御枕方にはらばひて哭きし時、御涙に成れる神は、香山の畝尾の木ノ本に坐して泣沢女神と名づく。」とある。古来この神社の境内地全体を泣沢の森といい、水神として特に延命の神として仰がれたことは、前記万葉集の歌でもうかがえるし、本居宣長は『古事記伝』に「人命を祈る神」といい、平田篤胤も「泣沢売神は命乞いの神なり」といっている。 当社には本殿がなく、神殿としての様式を備えたように見えるが、正面石階上に 啼沢女神 とある自然石の石標が立ち、中門をはさんで板塀瓦葺の神垣(神籬)の中に人頭大の自然石で積まれた内径136cmの古井泉が御神体になっている。かっては依り代であったと思える玉だすきの切株がその手前に残され太古の祭祀形態をしのばせている。例祭は9月15日。宮座は東座・西座があり、当屋でお仮屋を建てて神迎えし座祭りする。 奈良県史 |
畝尾都多本神社 鍬靱 畝尾は前に同じ、都多本は菟太毛登と訓べし、○祭神啼澤女神○木本村に在す、今啼澤社と称す、(大和志、同名所図会)、○日本紀神代巻上、一書曰、伊弉諾尊恨之曰、其涙堕而為神、是即畝丘樹下所居之神、號啼澤女命矣、(古事記、香山之畝尾木本、旧事紀、香山之畝尾丘樹下と云り、) 祭事記、啼澤女神社を式外に挙て、或云畝尾都多本神社此也、』古事記伝五に、木本を都多本とも云しにや、都多本社と啼澤女社とは同きや非や、よく尋ぬべしと云り、然れど別社とも聞え難けれど、今同社と定む、猶考ふべし、 神社覈録 |